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いま〈世界の全体性〉を記述できるメディアとは――「業界人幻想」のテレビ、「総合芸術」のゲーム、「他人の人生の代理体験」としてのアイドル(【対談】吉田尚記×宇野常寛『空気の読め(読ま)ない男たち』) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.412 ☆
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いま〈世界の全体性〉を記述できるメディアとは――「業界人幻想」のテレビ、「総合芸術」のゲーム、「他人の人生の代理体験」としてのアイドル(【対談】吉田尚記×宇野常寛『空気の読め(読ま)ない男たち』) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.412 ☆

2015-09-17 07:00

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    いま〈世界の全体性〉を記述できるメディアとは
    ――「業界人幻想」のテレビ、「総合芸術」のゲーム、
    「他人の人生の代理体験」としてのアイドル
    【対談】吉田尚記×宇野常寛
    『空気の読め(読ま)ない男たち』
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.9.17 vol.412

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    松井玲奈さんの卒業をテーマにした前回の対談記事が好評だったよっぴー(吉田尚記)さん&宇野常寛のコンビですが、今回はその続編をお届けします。
    テーマはメディア論。ラジオ、テレビそしてネットを主戦場とする2人が、80年代〜現在に至るまでの「メディア」とそれを取り巻く状況の変遷について、徹底的に語りました。


    ▼過去に配信した関連記事

    ◎構成:中野慧


    ■「業界内輪ノリ」がテレビをつまらなくしている

    宇野 前回の対談は松井玲奈の卒業がテーマでしたけど、今回は当代随一のラジオパーソナリティであるよっぴー氏と「テレビ」「ゲーム」「アイドル」をそれぞれの時代に対応したメディアとして語ってみたいと思います。
    まず、少し前の話になってしまうけれど7月にフジテレビ系で放送された「27時間テレビ」が面白くないということで炎上していましたよね。僕は個別の具体的な演出がどうとかには一切興味がないし、もっと言えば1秒も見ていない。なので、内容に関してあれこれ言う権利はないし、そもそも関心がない。だけど、ネットでの炎上の仕方も含めたメディア論に関しては言いたいことがたくさんあるわけです。
    このあいだの「27時間テレビ」のキャッチコピーは「本気になれなきゃテレビじゃないじゃん!!」だったわけですが、あれって実は1981年の「楽しくなければテレビじゃない」という、フジテレビが快進撃を始めた80年代当時のコピーのもじりですよね。つまり「上り調子だったあの頃を取り戻そう」というのが大きなテーマになっていて、往年の名プロデューサー・片岡飛鳥さんの総指揮のもとで、起死回生を狙ってやっていたものだったんだけど、結果として「内輪ネタが寒い」ということで炎上してしまった。
    だけどそもそも、今までフジテレビがつくってきた文化って、『笑っていいとも!』から『とんねるずのみなさんのおかげでした』に至るまでずっと「内輪ネタ」だったと思うんですよ。

    吉田 そうですね。フジテレビはまさに「内輪ネタ」発祥の地と言えると思います。

    宇野 その「内輪ネタ」の構造って、要するに「東京テレビ芸能界とその周辺の人たちが楽しそうに騒いでいるのを毎回中継して、視聴者みんながそれを羨ましがる」というものだったと思うんですよ。
    少し長いスパンで考えてみると20世紀って、新聞・ラジオ・テレビなどのマスメディアによってかつてないほど大規模な社会の運営が可能になった時代だったわけです。その20世紀の後半になってテレビが登場して80年代に最盛期を迎えた。世界的には1984年のロサンゼルス五輪が「元祖テレビオリンピック」と言われていて、画面を通して世界の最前線と繋がる実感を何億人もの人に与えた象徴的な出来事だった。
    要は80年代には「メディアが社会を作る」という前提が広く共有されていた。だからこそ、「メディアを作っている人たちやメディアの中の人と繋がれる」ということが、人々が世界の中心と繋がることを実感できる回路だったわけです。なかでもフジテレビ的な「内輪ネタ」は、人々が憧れる対象としてすごく強力で、とんねるずのスタッフいじりや『笑っていいとも!』の芸能界内輪トークもすべてそういう機能を果たしていた。『笑っていいとも!』的なだらだらとした「半分楽屋を見せる」内輪トークが、視聴者に「ギョーカイ」の一員であるかのような錯覚をもたらす効果があったわけですよね。
    「もしかしたら私たちもあの内輪に入れるかもしれない、入りたい」という「テレビ幻想」ともいうべき願望を人々から引き出すことで、フジテレビは「80年代=テレビの時代」の象徴的な位置に登り詰めていった。
    しかし2015年現在の「テレビ離れ」って、それまで情報環境的に決定されていたテレビの優位がネットの登場によって崩れたことによって引き起こされたわけです。そんな状況下で、80年代当時の手法に回帰するなんて自殺行為にも等しいですよ。

    吉田 僕は、そういうフジテレビ的な手法の限界をわかっていてあえて突っ込んでいったんじゃないかという気がしたんです。「やりきってしまうことでちゃんと終わらせよう」というわけですね。
    もう、ここまでの騒ぎに発展してしまった以上は来年も同じようなことはできなくなった。つまりリノベーションを行う前段階の、最後の一手だったんじゃないかと思うんです。

    宇野 うーん、リノベーションのためだったら、最初から「内輪ネタ」テイストをゼロにしたものをやったほうが潔かったんじゃないかと思うんだけれど。

    吉田 それは難しいところで、「過去の手法をちゃんとやりきりました」ということを示さないと視聴者を納得させられないということがあるんじゃないかな、と。


    ■「フジテレビの時代」だった80年代はもう戻ってこない

    宇野 でも、それって視聴者というよりも作っている側の自意識の問題でしょう。もともとフジテレビ的な手法の特徴のひとつって、「楽屋を半分見せる」ということがあると思うんですよ。つまり半分演出として、テレビの裏側を見せることで親近感を煽るというもの。80年代にはそれこそ糸井重里から秋元康まで、時代を代表するクリエイターたちがこぞってこの手法を採っていて、その中核がフジテレビだったと思う。
    だけど現代って、たとえばうちのインターン生がカフェの店長をやっていたんだけど、彼が尊敬する村上春樹に「村上さんのところ」でカフェ経営について質問したら普通に春樹本人から回答が返ってきたりする時代ですよ。もう、メディアの送り手が繊細なコントロールで半分だけ楽屋をチラ見せする、とか「あえて」内輪のグダグダトークを披露する、とか、そんなテクニックなんか使わなくても、単に本人が少しでもレスを返せばそれで送り手と受け手はつながってしまうし、そのほうがお互い楽しいことも明らかなわけですよね。でも、フジテレビは昔の「楽屋を半分見せる」という手法を何のアップデートもせずにやり続けている。その無意味さに、作り手側があまりにも無自覚なんじゃないか。

    吉田 僕はいままさにフジテレビの「アフロの変」でレギュラーやっているんですけど、ちょうど「27時間テレビ」の週に番組のイベントがあったんです。で、それが抜群に素晴らしかった。ここ最近、すっかりテンプレ化して面白くなくなっていったロックフェスとかよりもはるかにアツい光景が繰り広げられていたんです。
    このイベントがなぜアツかったかというと、他の場所で活躍の機会を与えられていないグループがいて、この人たちに触発されて、そんなに勝負しなくてもいい人たちも「負けていられない」と必死になってガチンコ勝負が展開されていたんですよ。
    なかでもベッド・インというユニットがいて、彼女たちは80年代バブルをモチーフに古臭い下ネタを言いながら、なかなかカッコよく演奏するんですよ。彼女たちがバブルをネタにしているのは80年代を嘲笑するためではなく、今もっとも「ダサい」ネタにまっすぐ突っ込んでいくことで時代の突破口を開こうとしているからなんじゃないかと思うんです。他にもバブルをネタにしているパフォーマーでは芸人の平野ノラさんのような人も出てきていますが、彼女たちのパフォーマンスを見ていると、すごく「自由」な気持ちが生まれるんですね。
    要は何か閉塞感を感じているときに、そのコアにまっすぐ突っ込んでいくことがヒントになるんじゃないかと。「27時間テレビ」もそれと同じことに挑戦していて無残に失敗してしまったけれど、いまのフジテレビのなかに僕は確かに変革の萌芽を感じているんです。

    宇野 よっぴーは「破壊のあとの創造」の可能性を見ているわけですよね。半分は同意するけれど、一方で僕は「フジテレビ的手法」への批判はまだ徹底されきっていないと思う。
    たとえば僕自身もテレビバラエティに何度か出演しているけど、もうつまらない番組のパターンってのが確固としてあってさ、大体そういう番組って床に座ってカンペをめくっているADが「ガハハ、ガハハ」と大げさに膝を叩いて笑うことで無理やり雰囲気を作っているわけ。
    芸人やMCの司会がすべて「テレビ的」なテンプレになっていて、もうなにもかも予定調和でまったく面白くないんだけど、なんとかしてみんなで面白いふりをして楽しそうな雰囲気だけ無理やり演じてごまかしている。
    何度か聞いたことあるんですよ、番組ディレクターに「あなたたちは本当にこういう番組構成で面白いと思っているんですか?」と。そしたら、「テレビ的にはどうしてもああいうかたちになってしまうんですよ……」という答えが判で押したように返ってくるんですよね。テレビバラエティの世界にはそうやって習い性で仕事をしてしまっている人が多すぎるし、そのことはもっと厳しく指摘しないといけないんじゃないか。

    吉田 テレビ番組に出演する芸人さんや司会って、「この人を呼んでおけば安心だろう」というある一定の枠から「誰でもいいから」とブッキングして番組を作ってしまっているのは事実ですよね。
    もし尖った出演者ばかり集めて数字が取れなかったら「なんでもっとわかりやすい有名人を連れてこなかったんだ!」と言われてしまうけど、同じように視聴率が取れないにしても「この人を呼んだのに視聴率取れませんでした」と言い訳をあらかじめ確保しておけば安心できるわけです。怠慢だって言われるのが怖いがゆえに、どうしてもテンプレ的な番組になってしまうんですよね。

    宇野 あらゆるテレビ局やテレビ制作会社は、80年代から90年代の20年で培われたある種のテレビ芸人のMCというか、「イジり芸」というものが非常にローカルなコミュニケーション様式で、それをやればやるほど心が冷え込んでいく日本人がどんどん増えていっていることをちゃんと理解すべきでしょう。ああいった「テレビは内輪ノリで回さなければいけない」という勘違いを正さないかぎり、いまテレビを見ていない人は将来的にも見るようにならないですよ。

    吉田 おっしゃるとおり、「テレビを一生見ない」という人が普通に存在する時代が来たんだと思います。その「テレビを一生見ない人」を増やしたのは自分たちのやり方だったんですよ。「この人を呼んでおけば安心だろう」というタイプの有名な芸人さんを呼ぶにしても、その人のポテンシャルを活かしてまったく別のすごいことができるはずなのに、決してそこに挑戦しようとしないわけです。
    基本的にテレビをはじめとしたメディアの本質って、「なくても誰も死なない」「誰もやらなくてもいいことをやっている」というところじゃないですか。だからこそ本当は大胆にもなれるはずなんだけど、多くの人が適当な仕事で済ませてしまっている。それならいっそ幕末期の江戸城無血開城のように、今までの徳川幕府的な古臭い手法をやりきって「ダメでした」ということをちゃんと世間に示した上で、新しいことに挑戦していくしかないのかな、と。僕は、今回の「27時間テレビ」で意図的にああいうことをやった人のなかからすごいものを作る人が出てくる可能性は十分あるんじゃないかと思いますし、そこに期待したいんですけどね。

    宇野 僕がいまのテレビに提言したいことをまとめると3つあって、
    (1)「テレビ的」という言葉の使用禁止
    (2)芸人的おまかせMC(+ADのガハハ笑い)禁止
    (3)内輪ウケ禁止
    です。
    よっぴーが言うように、芸人的なコミュニケーションにしても、それがあくまでローカルなものであることをわかっていればすごく効果的に使うこともできる。「アメトーーク!」が良い例で、要するに芸人的コミュニケーションが内輪ノリであるという、そのこと自体を戯画的に見せることで外側の視聴者を巻き込むことに成功しているわけですよね。最低限、ああいったかたちでの工夫ぐらいは見せて欲しい。


    ■〈公共〉を体現しようとしない現代のテレビ業界

    宇野 ただ、それとは別にもうひとつ気になるのが、ここまで僕らが指摘してきたことってあくまで〈手法〉の問題じゃないですか。でも実は〈手法〉ではなく、〈イデオロギー〉の部分でテレビ的価値観はもはや完全敗北してしまっている気がするんです。
    たとえば携帯電話会社のCMって全部辛いじゃないですか。ソフトバンクの「白戸一家」はある種のパイオニアだから許せる部分もあるけど、次々に作られていった続編や亜流になるとイタくて見ていられない。auの桃太郎とかぐや姫シリーズとか、docomoの「ドコモ田家」なんかもああいったテイストに近いですよね。トヨタ・クラウンのたけしさんやキムタクのCMも同じで、見た瞬間に「俺は絶対にトヨタ車には乗らない」と決意させるだけの寒さがある。
    ああいったものって、日本に暮らすすべての人間がテレビ芸能人をリスペクトしているという謎の前提をもとに、それをイジることが粋(いき)であるという東京のクリエイターたちの思い上がりがああいった演出を生んでいるわけですよ。
    テレビが最盛期だった80年代って、高度成長を達成しオイルショックも乗り越え日本経済が絶好調で、その経済的な余裕を背景にして東京のクリエイターや業界人たちが遊び心に溢れた自由な表現を生んでいった時代だったと今では思われている。
    でも、実は日本人のマジョリティはまだ『おしん』(1983~84年放映)に涙していた時代だったわけですよ。そういうマジョリティの泥臭さを一蹴するように、チャラい人たちが楽しそうに仕事をしていた時代だったからこそ「クリエイター幻想」が成立していたに過ぎないでしょう。そういう前提を抜きにして、80年代当時の感覚で2010年代にテレビ番組やCMをつくってしまうことの意味をもう一度問いなおしたほうがいい。

    吉田 テレビの人たちって、広告代理店的なモードが社会から遊離したものであるってことに気づいていないんですよ。宇野さんのいう「チャラい」モードって、要するに「マジにならないでやりすごそうよ」という考え方だと思いますけど、それって本当はすごく気持ちの悪い生理だと思うんですよ。そういう「マジになることを否定する」というのがいまのテレビ業界の「病」のひとつですよね。

    宇野 そもそもテレビ番組って、テレビ局が放送法で特権を与えられている以上は何かしらの〈公共性〉を担保しなければならないはずなんです。しかし彼らがやっていることは自分たちが「世間」をつくっているんだという時代錯誤の思い上がり以上のものじゃない。

    吉田 民放の番組が今みたいになってしまったのって、NHKが体現している〈公共〉のあり方があまりにもパターンとして小さすぎるということもあるかもしれないですね。

    宇野 まあね(苦笑)。

    吉田 「NHKがああいうお堅い感じだから、俺たち民放はチャラチャラして世間のリアルとのバランスを取っているんだ」という反動を生んでいるとも言える。要するにNHKにしても民放にしても、〈公共〉として想定している範囲があまりにも狭すぎるというのが問題なんじゃないかと思っていて、本当はもっと多様な〈公共〉どうしが競争し合う状態が望ましいわけですよね。


    ■ソーシャルメディアではなく、マスメディアこそが担保すべき公共性とは

    吉田 いま〈公共〉が実現するべき価値ってダイバーシティ(多様性)が一番大きいわけですよね。そしてそのダイバーシティの実現をビジネスモデルとして回していくということがまだ全然できていない。

    宇野 そこで言うと、ヒントはいくつかあると思っていて、テレビが一番面白くて文化的に批判力があった時代って、実は今よりも多様性が確保されていたわけじゃないですか。たとえばテレビ黄金期の深夜番組って、今ほどコンプライアンス(法令遵守)の圧力も厳しくなく、どちらかといえば治外法権的に自由に実験的なことをやることができた場所だったわけですよね。

    吉田 テレビ業界って80年代〜90年代前半ぐらいまで、東大生が入ったら本人も周囲もガッカリするような業界だった。でも今は東大生がテレビ局に就職できたら本人も親も周囲も万々歳でしょう。テレビがそういうふうに社会的にも広く認められるような既得権的な世界になってしまったら、面白いものを生み出すのは難しいですよね。

    宇野 「いま実験的なことをやりたいならネットで勝手にやってればいいじゃん」と言う人もいるだろうけど、僕は必ずしもそうとは言い切れないと思う。やはり、テレビやラジオのような公共の電波を通して、交通事故のように多様なものに出会える回路をきちんと確保しておくことが必要だと思うんですよ。
    少し遡って考えてみると、テレビが日本で普及し始めたのは50年代からだけど、その当時テレビに求められた役割って「バラバラのものをひとつにまとめる」というものだったわけですよね。言い換えると、いまテレビがつまらなくなっているのは、成立期のイデオロギーにどうしても縛られてしまうからだとも言える。
    ここ2、30年で、「バラバラのものをひとつにまとめるのではなく、人々がバラバラなままでも共存できるように社会にダイバーシティ(多様性)を実装していこう」という方向に社会変革のイメージが変わってきたわけだけど、そのときに必要とされる「テレビに必要とされる公共性」って、これまでのテレビのイデオロギーに縛られないもっと多様なものを想定していいはず。
    では、そんな時代にテレビは何をすべきか。普通に考えたら多様性という面でテレビは他のメディアにかなわない。じゃあ、何が仕事かというとたとえば、「もっと野菜を食べましょう」とか「過度の喫煙・飲酒は良くないですよ」「リボ払いはやめましょう」とか、「オレオレ詐欺に気をつけましょう」とかそういった〈最低限知っておかないと人生が不利になるようなこと〉の周知だと思うわけです。


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    最終更新日:2024-11-13 07:00
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