第70号 2014.1.21発行
「小林よしのりライジング」
『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりが、Webマガジンを通して新たな表現に挑戦します。
毎週、気になった時事問題を取り上げる「ゴーマニズム宣言」、よしりんの心を揺さぶった“娯楽の数々”を紹介する「カルチャークラブ」、『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成してもらう読者参加の爆笑企画「しゃべらせてクリ!」、漫画家キャリア30年以上で描いてきた膨大な作品群を一作品ごと紹介する「よしりん漫画宝庫」、珍妙な商品が盛り沢山(!?)の『おぼっちゃまくん』キャラクターグッズを紹介する「茶魔ちゃま秘宝館」、読者との「Q&Aコーナー」、作家・泉美木蘭さんが無限に想像をふくらませ、とことん自由に笑える「日本神話」の世界を語る「もくれんの『ザ・神様!』、秘書によるよしりん観察記「今週のよしりん」等々、盛り沢山でお送りします。(毎週火曜日発行)
【今週のお知らせ】
※「ゴーマニズム宣言」…現代は『ポエム化』している!?前向きで優しく、聞き心地はよいが、大げさで意味不明な詩のような言葉が、社会のあちこちに氾濫しているのだとか。一見ギャグのような「ポエム化社会」。しかしその背景には、ある深刻な問題が横たわっていた!
※「ザ・神様!」…名参謀スクナビコナのキビシイお説教にぶちギレたオオクニヌシ!「…ぷちっ」なんとスクナビコナを踏み潰してしまった…!!衝撃の展開に唖然騒然!どうなるデコボコブラザーズ!?
※「しゃべらせてくり!」…この世の悪に、ぜっこーもーーーーーん!止めてクリるな、柿野くん。泣いてクリるな、沙麻代ちゃん。絶交仮面は正義のために、行かねばならんのぶぁ~い!!
【今週の目次】
1. ゴーマニズム宣言・第72回「ポエム化社会、マジとパロディの両立が必要」
2. しゃべらせてクリ!・第31回「『絶交仮面は行かねばならぬのぶぁ~い!の巻<後編>』」
3. もくれんの「ザ・神様!」・第25回「兄のために掘る・掘る・掘る!――オオクニヌシの温泉掘削」
4. Q&Aコーナー
5. 新刊案内&メディア情報(連載、インタビューなど)
6. 読者から寄せられた感想・ご要望など
7. 編集後記
第72回「ポエム化社会、マジとパロディの両立が必要」 現代は「ポエム化」しているという。
前向きで優しく、聞き心地はよいのだが、大げさで意味不明な詩のような言葉が、社会のあちこちに氾濫しているというのだ。
新築分譲マンションのチラシやパンフレットには…
「天空に舞い踊る星々のトレモロ。人々の営みを物語る地上に散りばめられた灯火のロマネスク。あるいは、早朝のまどろみから朝日に洗われつつ姿を現す都会のエクリチュール」
旅館やホテルのHPでは…
「がんばるのに少し疲れたな…と思ったら、『月のうさぎ』におかえりなさい。あなたは現世のかぐや姫。そしてここはあなたの心の故郷。胸のもやもや、隠し事も、ほんのり月夜に消えてしまいます」
大学案内では…
「『学び』というペンで、夢を未来を描き出そう。開いたノートが『まだ、まっ白!』でもかまわない。未完成だからこそ、想像以上の私になれる」
朝日新聞の『天声人語』も…
「文筆に卒業はない。厳しくも温かい恩師である読者との交流を糧に、外へと踏み出したい。東京は残花を惜しむ週末。ひとひら風に舞って、この国を、また好きになる」
ラーメン屋の壁には…
「いま居る処が最後の砦 そしてすべての始まりなんだ がんばろうぜ」
「この人生は一生懸命 私の人生は一笑賢命 いつでもどこでも いっしょうけんめいが いちばん美しい」
さらには、自治体の条例の名称まで「ポエム化」が蔓延しているそうで、
熊本県人吉市「子どもたちのポケットに夢がいっぱい、そんな笑顔を忘れない古都人吉応援団条例」
滋賀県草津市「愛する地球のために約束する草津市条例」
北海道厚沢部町「素敵な過疎のまちづくり基本条例」
秋田県横手市「雪となかよく暮らす条例」
新潟県阿賀野市「みんなで支えよう『こころ』と『いのち』を守る条例(案)」
…といった、正体不明の条例が続々と誕生しているという。
1月14日のNHKクローズアップ現代『あふれる“ポエム”?!~不透明な社会を覆うやさしいコトバ~』は、その「ポエム化」社会をレポートしていたが、特に目を引いたのは、「居酒屋」とそこに勤める若者たちの現状だった。
居酒屋というのはもともと「ポエム」の宝庫で、相田みつをまがいの筆文字の「ポエム」が店中の壁一面、トイレにまで『耳なし芳一』みたいに書き込まれた居酒屋なんかもよくあるそうだが、問題はそんなことには留まらない。
昨年11月、5000人の聴衆を集め、「日本一の居酒屋」を決める「居酒屋甲子園」なるイベントが開催された。
決勝大会の審査基準は料理の味や接客ではなく、居酒屋で働くことの「希望や夢」を謳いあげる「魂の“ポエム”」だという。
そこでは居酒屋で働く若者が、自らの過去のつらい体験を告白し、「愛」「希望」「勇気」「絆」「仲間を大事に」「笑顔」等々の綺麗事の言葉をちりばめて、決して楽ではない居酒屋の現場で働く中で、前向きに生きる希望や夢を見つけることができたという「喜び」を情感たっぷりに訴えかける。
「夢はひとりで見るもんなんかじゃなくて、みんなで見るもんなんだ!人は夢を持つから、熱く、熱く、生きられるんだ!」と絶叫する金髪の若者。
「変わりたい。今の自分は嫌だ!みんなから愛される店長になりたい!」と、目を潤ませながら語る店長。
「私にガンが見つかりました。どうして私が、なんでこんなつらい思いを…」という体験を打ち明ける女性店員…。
そして、それを聞いた観客も感激して涙ぐんだりしているのだ。
同様のコンテストは今、居酒屋だけではなくトラックドライバーや介護士、歯科助手、パチンコ店員、エステティシャンなど、10以上の業種で行なわれているという。
出場者は居酒屋で働く「夢と誇り」を、全身の身振り手振り、満面の表情に浮かべて絶叫し、涙まで流して訴え、観客はそれを見てストレートに感動している。
そんな「居酒屋甲子園」の様子を見て、わしはどうにもむずがゆくてたまらない気持になった。
それは新興宗教や、自己啓発セミナーにもよく似た一種異様な光景とも見えたが、ここでわしが連想したのは、かつて毎年成人の日に行なわれていた『青年の主張』だ。
『青年の主張』は昭和31年(1956)からNHKが開催していた弁論コンテストで、毎年テレビ・ラジオで全国放送されていた。
毎年設定されるテーマに沿って、その年の新成人が「主張」を発表するのだが、その内容はといえば、自分の不幸な過去を告白し、それから綺麗事の言葉を並べ立てて、自分が今、いかに前向きに夢や希望を持って生きているかを訴えるという、青臭く、公に言うのは恥ずかしい、偽善的といってもいいようなものがとにかく目についた。
コメント
コメントを書く>>126
daiさんへ。
子供をどう扱うか、という点で「明日、ママがいない」というドラマは議論になっているような気がします。
「子供は汚れのない天使」というプラトニズムに裏打ちされた俗情が何となく大人の間にあるのかな?とも思いますが…。
もちろん、それはそれで一理あるのですが、子供だって悪い事もするし、業が深い部分もあるし、それをどう丸ごと描くのかは作り手としても悩ましいのかな?とは想像できますが…。
よしりん先生はそこはよく「おぼっちゃまくん」で描けてると思います。
子供の描き方をどう扱うか、に関しては、漫画なんかもそうですが、PTAとかの抗議団体に配慮しなければいけないので、テレビメディアだと慎重にならないといけないのかな?と思うから大変なのかな…。
>>122
sigma10さんへ
>表現の自由はあってもその内容とクオリティによっては批判も受けるべきです
確かにその通りではありますけども、「明日、ママがいない」に限っては
そんなに目くじら立てる程出来が酷いとは思えないのです
私から見ればあのドラマに出てくる施設長は屈折してはいるものの
子どもたちのことを良く想っている様に見えましたよ
他の方が述べられていますが「明日、ママがいない」はファンタジーです
ですがメッセージの込められた良い作品だと思います、今のところは
「明日、ママがいない」が議論になっているので参加させていただきます
このドラマを映像作品として考えるなら表現の自由は守られるべきですが
テレビで放送するとなれば話は違ってきます
テレビというメディアは自由な表現の場ではありません
そもそも許認可事業であるし放送法などの縛りもあります
公共の電波を国民の許しを得て独占的に使わせてもらっているというのが建前です。ここをはき違えると許認可権をもっている行政当局の介入を許すことにもつながります。
放送は他のメディアと比べて高度な公共性が求められていることを忘れてはいけません。
この問題は表現の自由というよりテレビで放送すべきものかどうかという点にあります
ここからは私個人の意見ですが
この番組は22時に放送するには内容がどきついように思います
テレビで放送してはいけない程ではないと思いますが
このドラマに広く社会に訴えるべき真実があるようにも見えませんし
視ていて気持の良いものではないですから評判が悪いのは仕方ないと思います。
不快感を持ったからといって正当な理由をつけて排除しようという姿勢は感心しませんが全国ネットで放送している以上「嫌なら見るな」と開き直るわけにはいきません。
テレビの圧倒的な影響力を考えれば関係者からの抗議もやむ得ません。
制作側はこれらの批判に真摯に向き合って答えを出していくしかないと思います
こう書いてしまうとテレビでは万人ウケするものしか作れないのかと
言われてしまいそうですが、ある程度真実だと思います
それを越えた表現のできるプロがいるとは信じたいですが
この番組がそうであるとは私には思えません
「明日、ママがいない」の件ですが、そもそも論として水曜日の晩10時からやってるドラマを「子供に悪影響を与える」と言ってしまう社会全体こそどうなんだ?って気もしますがどうでしょうか。
かなり以前ですが「子供に悪影響を与えるテレビ番組」みたいなランキングに「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」が上位に入ったのを見た時に「全国的には日曜の晩11時からやってて、大阪や名古屋に至っては平日の深夜1時ぐらいからやってるガキ使を自分の子供に見させてる親こそどうなんだ?」と思いましたが。
今に始まったことではないとはいえ、何でもかんでも「テレビが悪い世間が悪い」としてしまう社会って健全とは思えません。
2月11日、大阪で行われる、小林よしのり先生の講演!
私、その日は、どうしても、行けないぃぃぃぃぃ (号泣)
ぐわっ!大阪城前の國民會館なら、その日も車で通るじゃないかっ!!
せ、千載一遇の大チャンスを逃しました。゚(゚´Д`゚)゚。
またいつの日か、関西方面で講演をされるチャンスがございましたら、
その時こそは、何があっても、駆けつけたいと存じます!!
ところで、もしも偶然、小林先生達と同じ信号待ちする場面に出くわしたら
私は声をかけるだろうか・・・?
「あ、あの、先生、みなぼん、僕です、僕! カレーせんべいです!」
って言うの?これは気持ち悪いね。完全に頭オカシイ奴と思われる(爆笑)
一生に一度でいいから、小林先生のお姿をこの目で拝見したいです。
今回は本当に残念です…。
>>127
daiさん
>>129
尻毛屋さん
どうも力み過ぎてしまったようですね私。
ちょっと言い訳させてください。
「表現の自由」とは誰にでも自然と与えられた天賦の権利であるとは思っていないのですよ。過去の多くの優れた表現者たちが長い長い戦いの末やっと勝ち得た貴重なものなのに、それに現代の薄っぺらい作品の制作者が易々と乗っかっているように思えて、そのただ乗りというかフリーライダーを目の当たりにするとどうも釈然としないわけです。文化の、そして文化を育んできた基盤の浪費と感じられまして。
私は筒井康隆氏の大ファンなのですが、むかし筒井氏が表現の自由を巡る対立で断筆宣言に至ってしまったことがありました。ブラックジョークを解することもできない連中の難癖のせいで筒井康隆の小説を読めなくなるなんて許し難い!なんて随分腹を立てたものです。しかし筒井氏がそうやって戦ってくれたおかげで言葉狩りの問題が顕在化して、世の風潮も表現の自由を尊重する方向に動いたとも思います。
そんなわけで、特に世に訴えることもなく物語の才能があるでもない者が作品の小道具として安直にセンシティブな設定を使うということに嫌悪感を覚えてしまう次第です。
これはマスコミの表現・報道のあり方が問題であってドラマ評論ではない、とmonmonさんが仰いましたが、私は作品の質が低いことこそが「明日、ママがいない」の問題だと考えているのです。
今回のテーマとは関係ないことを長々とすみません。
蛇足
ファンタジーみたいなものだからということですが、ドラマ内では母親が鈍器で人を殴ったから「ドンキ」、赤ちゃんポストに入れられていたから「ポスト」などといったあだ名で子供も職員も呼び合っている描写があります。
こういう描写をするだけの理由があるとか、ストーリーとして抜群に面白いということでなければ私には受け入れらない描き方ですね。
全国養護施設協会の武藤事務局長によると、現実の養護施設では児童たちの家庭事情が露わにならないようとても心を砕いているとのことです。
今週のゴー宣は、タイトルからギャグ系かなぁとワクワクして見始めたら、現代日本の笑えない風潮を解説されていて、明日は我が身なのかもしれないと震えました(汗)
『大東亜論』や『修身論』を今度読み返して、自身の個を鍛えていこうと思います(^^;;
>>136
sigma10さんへ
どうもあなたは権威主義の嫌いがあるようです
「ドンキ」「ポスト」等の呼び方が良くないと言われますが
作中での子供達の存在の位置づけも兼ねていると思います
実際は施設の子供に心ない発言をする人間が居て、誰にもそのような感情があるのでは?
そんな奴は居ないなんて綺麗ごとです あなたが嫌悪している自体一番の証拠です
役者さんもストーリーを見てその内容を了承した上でドラマに出演することを
決めたのではないでしょうか
以前私はよしりん先生に「はだしのゲン」が間違った影響をうけるのでは?と
質問を送りましたが先生に「世の中雑菌だらけです、無菌室で育てるのは平和ボケです」
と諭されました (ライジングVol.51より)
子供の事情をひた隠しにする施設もまた平和ボケの無菌室だと思うのですが
「表現」でお金をもらっている身としては
最終的に圧力に屈してしまったのが残念でなりません。
個人的な解釈ではありますが、
これらは児ポ法などの問題にも通じるものだと思ってみていました。
結果的にどんなに低俗なものだろうが
クオリティが低いものであろうが
それがネトウヨのヘイトスピーチのようなものでない限りは
批判こそ自由として、それが「抗議」という「検閲」で
内容が「改変」される社会はとても危険なものと感じます。
当初、正直興味がなかったのですが
表現側としては凄まじい抗議を前に「明日、ママがいない」を応援したくなりました。