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山田玲司のヤングサンデー 第305号 2020/8/31

夏かしい

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暑い夏の日、氷水で冷たく冷やした素麵を、これまた氷で冷やした濃い目のおつゆに生姜をたっぷり入れていただくのが小さいころからとても好きでした。久世です。



あののど越し、蝉の声、日差し、全てが頭の中で混然一体となって夏が身体の中を滑り込んでいくようで。



暑いのに、冷たいものが身体をすっと流れていく感覚が「ああこれは夏なんだな、夏を食べているんだな」と。


庭からちぎった添え物の緑の紅葉も、たまに、冷凍庫の匂いがする製氷機で作った氷も、

記憶の中でいとおしい。



海苔を入れるときも、胡麻を入れるときも、ワサビのときも、ナスやしし唐の素揚げや昨日の晩の天ぷらがつくときもありました。



何故か入っているピンク色の素麵を取り合ったり。素麵をつけていた氷水に少し粉がにじみ出て白濁して、その白濁を見て寂しい気持ちになったり。


水が透き通っているうちに食べてあげたかったなぁ。素麺もそうしたほうが嬉しかったんじゃないかなぁ。と思うんです。


でもお母さん、素麵ゆですぎやねん。そんな食えへんわ。



すすっている間も暑さを感じながら暑いことを少し忘れられる。

そんな魔法が素麵にはかかっていたように思います。



そこに蚊取り線香の匂い、風鈴の音。

そういうのが揃っているともう夏、僕の大好きな夏です。



夏の楽しい要素がいくつかそろうともうそれだけで理由もなく

高い声で奇声を発する子どもでした。



みんなちょっとびっくりしたあと、嬉しい気持ちは同じなのか、

目を見合わせて大笑い。



何度やっても飽きの来ない、僕の夏の合図。



僕は今でも叫ぶことがあります。夏が来たのが嬉しくて。

それが実家に帰っているときとかだと、もう誰も笑ってくれませんww



「これ、あほみたいに叫ばんときぃ。」と



お母さんがなんとも言えない顔で注意するだけです。



昔はお盆で親戚が集まることも多く、みんなで精進料理や素麵を食べた後、

広い畳の部屋(大抵はおじいちゃんち)で、あまりにも暑いもんだから、

母と弟といとこの兄弟とその母親と全員で雑魚寝して、

今よりももっともっとうるさく音を立てる扇風機を首振りにしてお昼寝をする。

ってことがよくありました。



扇風機の首振りで風が来ないことにイライラしたり、この扇風機は右だけ深く首を振るので、右側に行った方がお得だということを誰もが知っていて、右側の取り合いになったり。



おじいちゃんの聞いている甲子園のラジオ中継が寝ようとするほど聞こえてきてしまって、寝れなくて、寝れないことに誰かが笑い出して、また静かになって、誰かがおならして、そして、また笑って、大人が「次、しゃべったら罰金やで」って言ってその大人が笑い出してしまって、みんな笑っていつ寝たのかわからないうちに本当にみんな寝てしまうみたいな夏の一日。



もう最後のあーゆう日から、25年位は経ちますか。



あんな夏は思い出の中にしかない。たまらないです。



最近、昔の日本映画の話をよくします。



会社員の友達がはまっているからよく連絡がくるんです。



黒澤、小津はもちろん、勅使河原、溝口健司、今村昌平、成瀬巳喜男などなど。



古い映画に出てくる役者さんたちのなんて魅力的な顔を持っていることかと思います。



語弊があるかもしれませんが、基本的に兄弟の人数が多くて、戦争で誰かしら身内、親戚が亡くなっていてそれを乗り越えているので「心のあり方」というか…なんだろう。

今にはないなにかがあって豊かなんだとおもいました。



経済とかそんなんじゃなく。「生きてるだけで丸儲け」の世界観というか。誰もが死ぬことを身体で理解している感じというか。

それを豊かというのかちょっと疑問は残りますが。笑。



今は今で良いところ沢山ありますが、昔の日本映画に出てくる人間の顔を思い出してそう感じました。




夏の思い出は、カルピスの原液の中。夏の思い出は毎朝数えた朝顔の花の数。




どんな形であれ、出会った人間と人間は関係性を持ちます。


「拒否」というカタチでも。仕事の付き合いでも、交際というカタチでも。


最近、コロナで母親に電話する機会が多く、僕が出会った瞬間に「母親」になったお母さんを個人としてみたとき、どんな人間なんだろうと考えました。


母親を母親としてではなく、一人の人間として見るという行為は違和感の連続でした。


両親だけは、出会った人間ではありますが、僕を創った人間なので、何とも、個人的な感覚が分からないんです。


お母さんだから!と何の疑問も持たずに思っていた部分を、



一人の人間として考えると、よくこんなことを我慢できたなだったり、

よくここまでやったなだったり、いろんなことを考え直すきっかけになって楽しかったのでここに描きたいのですがべらぼーに長くなるので別の機会にします。

いつかレギュラー皆の家族の話を掘り下げてと思いました。


3年位前かな?

東村アキコ先生をゲストに迎え、みんなで夏の千葉の古民家に泊まって放送した日の帰り、水族館に行きました。


そこで、玲司さんがふっと隣にやってきて「クラゲってどんな声してると思う?」って質問をしてくれました。


「?鳴きましたっけ?」、「いや、想像で。遊び。」と。


声・・・声か・・クラゲの声か・・・。クラゲが大好きですが、

その場で思いつかず「ちょっと待っててくださいね」といったあと、

しばらく魚を見ながら考えて、今度は僕の方から玲司さんに近寄り、こういいました。



「クラゲの声じゃなくて、クラゲ自体が海の声って感じがします」そう言って二人でなんとなくうなずいてその場は終わりました。



クラゲは海に揺蕩う海の声、誰かに届くか、届けたいのか、どうなのか、海はどんな声をしてるのか。


たくさん、たくさん、この夏もいろんなことを考えました。


そして、たくさん描きました。

今日は最近描いた二つの詩を紹介して最後にしたいと思います。



・告白

・おはようを思いやる



の二つです。