私がみなさんから意見や質問を受けるとき,もしくは私がみなさんに質問したり,研究結果を聴いたりするときに,ボンヤリと感じている疑問なのですが,みなさんは,もしかして「科学理論とはすべての条件で成り立つ完璧な理論である」と考えていて,私をふくめた科学者は「すべての正解」を知った上で,みなさんに指導や助言をしている(図1)と思っていないでしょうか?

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図1 たとえば学校の先生が授業をするように答えを教えていると思いますか?

研究の進め方と発表の重要性のコラムで,みなさんが研究発表を試験だと考えているように感じた理由(図2)は,そこにあるかもしれません。もし,そのように考えているのだとすれば,それは大きな誤解です。科学者は,科学理論が完璧だとも,すべての答えを知っているとも考えていません


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図2 研究発表の質問にこんなイメージを持っていませんか?

たとえば授業中に「◎◎について説明せよ」と先生に指名されて立ち上がって答えるときと,研究発表でみなさんが質問に答えるときを,おなじように考えているのではないかと思うのです(図3)。

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図3 質問されたときにこんなイメージを持っていませんか?

説明が正しいと「よくできました!」,まちがっていると「勉強が足りない!」と言われる,そんな風に私たち科学者が「正解」を知っていて,みなさんが「正解」を答えるかどうかを調べていると思っていませんか?

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図4 質問に答えるときにこんなイメージを持っていませんか?

これは科学者を目指すかどうかにかかわらず多くの人に知っておいてほしいのですが,現代の科学でも説明できないことはたくさんあります。ですから,科学者は科学理論を絶対視はしていません。科学は不確かです。そして,理論にあいまいな点があるからこそ,研究によってあいまいな点を解明しようとしているのです。

つまり,科学者がみなさんに質問するとき,私たちは「正解」を知っているわけではありませんし,「正解」が聴きたいのでもありません

私たちは研究をしている人(みなさん)に「どんな客観的証拠から,それがただしいと考えたのか」を聴きたいのです。それは,どのような不確かな点について,どういった客観的証拠(データ)にもとづいて,何が明らかになったのかを知りたいからです。一方で,みなさんは,この質問の意味を「この問題の答えは何か」と聞かれていると勘違いしているように思います。

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図5 みなさんの答えに科学者がコメントするときにこんなイメージを持っていませんか?

私が発表を聴いていて一番耳にするみなさんの回答は「わかりません」です。それは,私たちからはとても不思議な答えです。みなさん自身が行った研究について,みなさんの判断の基準を示してほしいのに,どうして自分自身の行動や判断の基準が「わからない」のかについて疑問を持っていました。しかし,みなさんの回答と行動を観察した結果,みなさんが学校教育とおなじように「正解」を答えようとして,「(正解が)わからない」と答えているのではないかという仮説を立てました。そこで仮説にしたがって,問題を解決する説明をしてみましょう。

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図6 正解かどうかを気にしていませんか?

たとえば,私が専門とする化学で考えてみましょう。化学には,さまざまな原理や法則がありますが,これらの原理や法則は分子ひとつひとつの行動まで説明しているわけではありません。ですから,実験をしていると原理や法則と実験結果が,かならずしもおなじにはならない現象を目にする機会はあります。では,これは不正解なのでしょうか?
そうではありません。この例を,みなさんに身近な定期テストを例に考えてみましょう。

みなさんの学年は3クラスあるとしましょう。算数の定期テストをしたところ,A組は平均点63点,B組は80点,C組は75点でした3つのクラスをくらべると,A組はもっとも成績が悪いことになります。

では,この結果をもとに,成績についての以下の仮説は成り立つでしょうか。
仮説1 A組の全員の成績が学年で一番良くない。
仮説2 A組には80点以上とった人はいない
仮説3 B組やC組には63点より低い点数を取った人はいない

これらの仮説がいずれも成り立たないだろうということは,みなさんは経験的に知っているでしょう。A組にも成績が良い人はいるでしょうし,B組やC組にも成績が悪い人はいるでしょう。ですから,ほんとうに成績を考えるのであれば,ひとりひとりの成績をくらべなければなりません

新しい疑問が提示されました。そこで,つぎの仮説で成績について考えるために,ひとりひとりの成績をくらべるとしましょう。研究計画を立てるときに考えるのはつぎの問題です。

成績を調べる人が何人までだったら,ひとりひとりの成績を調べることができますか?

たとえば成績を調べる人が1623万人(この数値は平成26年度の年少人口を統計局から引用しました)だったら,ひとりひとりの成績をくらべることができるでしょうか。これはむずかしそうです。ひとりひとりの成績を考えることは不可能でしょう。ということは,ひとりひとりの成績にはバラつきがあっても,成績の平均値をくらべるしかありません

これが科学理論の原理です。分子ひとつひとつの運動をずっと観察することは,理論上は可能かもしれませんが現代の科学技術では不可能です。私たちに見えるのは,つねにアボガドロ定数という非常にたくさんの数の分子の平均的な運動だけです。ですから化学の理論は基本的にアボガドロ定数個の分子の平均値を考えています。

これは先ほどのクラスの平均点と同じですね。クラスの平均点が低くても成績がよい子がいるように,アボガドロ定数個の分子のなかには平均的な運動とはちがった運動をする分子もいるでしょう。しかし,ふつうとちがう分子がいたとしても平均値からは「いるか・いないか」はわかりません私たちは,私たちに観測できる客観的証拠(データ)にもとづいて「ただしいか・まちがっているか」をチェックするのですから,これはどうすることもできません

そう。科学は不確かです。だからこそ,私たち科学者はどのような不確かな点について,どういった客観的証拠(データ)にもとづいて,何が明らかになったのかを知りたいのです。これが科学者が科学研究をしている理由です。科学者は「(不確かなことを)知りたい」と願う人々です。

そのため,科学者の世界では「誰も知らなかったことを明らかにした」ヒトがエライのです。ノーベル賞が,その分野で活躍した科学者ではなく,はじめてその分野をつくった科学者に与えられるのは,そのためです。だからこそ,科学者は研究をしているみなさんにも「あなたが,どんな新しい事実を見つけたのか(どんな客観的証拠から,それがただしいと考えたのか)」を聴きたいのです。

科学を志す人は,原理や法則にも疑いの目を持ち,「絶対の原理や法則はなく,どんな理論にもかならずあいまいな点が残る」ことを知っていなければなりません。そして,自分が無知であることを知っていれば,知りたいと思うはずです。その知的好奇心が質問の源泉であることはすでに説明しましたね。

最後に,原理や法則は絶対ではありませんが,誤解してはいけないことがひとつあります。それは科学理論の一部に不確かな点があっても科学理論は全体として確かだと言うことです。このあいまいさと確かさのバランスが,私たち科学者とそうではない人たちの間でちがっていることが,科学をめぐるいろいろな誤解のもとになっているように思います。そこで,第3回では,あいまいさと確かさのバランスについて考えましょう。