正子、おおいに嫌われる。

「売れっ子になりたいなら、まずはその、髪の色を変えるべきよ」
 一九六二年にパリを来訪した際、政府の要人に黒曜石と称えられた大きな瞳で、じっとこちらを見据えながら助言をくれたのは、いつものように紀子ねえちゃんだった。
 彼女と知り合ってかれこれ五十六年になるが、こうして呼び出せば二十三区外の丘の上の住宅地でも、一人で暮らす赤坂見附の自宅マンションからお抱え運転手付きのベンツですうっと会いに来てくれ、年上としていろいろアドバイスを授けてくれる友人は本当に貴重だ。八十代を迎えてなお足腰も丈夫で美しく、おまけにこの業界に誰よりも精通しているとなればなおさらである。
 紀子ねえちゃんを前にすると、正子は自分が七十代半ばであることを忘れてしまう。
 ここから歩いて五分の土手沿いにある映画撮影所で声をかけられて、お運びの役にありついてからというもの、正子は紀子ねえちゃんの妹分のような存在だ。ドーランの塗り方も、台詞がどうしても暗記できないときは濃い赤鉛筆でひたすら書きなぐるというやり方もみんな彼女に教わった。でも、十年もすると、マチュアでファムファタルな紀子ねえちゃんに憧れ、そうなれない自分が嫌になる、そんな日々にくたびれ果てしまった。脇役が嫌になったのではない。六〇年代の映画業界に蔓延していた、女優や女性の裏方への性的なからかいやいたずらを、紀子ねえちゃんのようにさらりと笑ってかわすことも、仕方のないこと、と慣れることもできなかったのだ。映画監督・浜田壮太郎にプロポーズされた時は、潮時だと思い、未練はなかった。結婚への憧れも人並みにあった。しかし、義母の介護にも子育てにも、まったく介入せず、一年のほとんどを撮影所に泊まり込み、女の噂が絶えない夫とは、五十年近く一緒に暮らしても、家族になったという実感をついぞ得られないままだった。
 夫とはこの四年間、一度も口をきいておらず、お互いに極力顔を合わさないように努力している。どうしても情報をやりとりしなければならない時は、LINEを使う。そのために息子にスマホをもたされたようなものだ。離婚にはどう頑張っても応じてくれない。一度、正子が家出をした時に孝宏が仲裁に入って、ひとまず敷地内で別々の暮らしをすることに落ち着いた。一刻も早く、自活できるだけの収入を手に入れて、使い勝手のいいアパートを借り、別居の実態を作って裁判に持ち込むのが、正子の目標だった 生活費の受け取りは拒否している。かろうじて自分で稼ぐことのできる月一万円から三万円の間で暮らし、必ず自炊し、一円でも多く貯金に回すように心がけていた。七〇年安保闘争で、撮影所の組合を夫が抜けてしまってから国民年金を払っていなかったため、正子は六十五歳を迎えても年金が支給されなかった。慰謝料には期待していない。義母が遺言で、「この家と土地を売った時の半分は、籍を抜いていようがいまいが、最後まで介護してくれた正子さんに」と残してくれたのだ。
 こうした夫婦関係を紀子ねえちゃんはずっと心配していたせいか、七十代にしてスタートした正子の再就職活動には、いつも以上に親身だった。レジ打ちやホテルの清掃業を真剣に考えていたところ、今の事務所を紹介してくれた。
 元ロマンポルノ女優の六十代の設楽さんが経営する、脇役専門のシニア俳優の派遣に特化した事務所「ブーゲンビリア」で、正子は過去の経歴は話した上で、昔の芸名「尾上まり」は捨て、旧姓の本名「柏葉正子」としていちから新人の気持ちで頑張る、という意気込みをみせた。素直な姿勢が気に入られ、すぐにいくつかのオーディションを紹介されたが、正子より演技経験のはるかに少ない、素人同然の同世代たちが次々に役を手にしていくので、あっという間にめげてしまった。
 とうとう紀子ねえちゃんはこう切り出したのである。庭先に金木犀の香りが漂い始める季節だった。
「その髪ね、黒くするんじゃなくて、むしろ真っ白にするべきだわよ」
 熱心に前のめりながら、彼女はこちらのつむじに軽く触れた。その頃はすでに寝ても覚めても節約のことばかり考えていて、駅前の美容院に通わなくなって随分経っていた。ドラッグストアで手に入る安価な白髪染めで焦げ茶にしている髪を、さらに明るい色にしろ、と言われたのだと思っていたので、正子は面食らった。
「できるだけ、老けてみえた方が仕事の幅が広がると思うの。正子ちゃんみたいなタイプは」
 面接やエキストラの細かい仕事が続いていたせいで、掃除を怠っていた。目の前のテーブルは艶を失い、くもりかけたガラス窓の向こうには、荒れ放題の庭がぼんやりとひろがっている。藤棚の先に見える、すらりとした白樺から木肌が剥がれかかっていた。