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【第162回 直木賞 候補作】誉田哲也「背中の蜘蛛」
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【第162回 直木賞 候補作】誉田哲也「背中の蜘蛛」

2020-01-10 15:23


    第一部 裏切りの日


     日常になんの変化も感じないといえば、嘘(うそ)になる。
     だが、日々起こる事件の一つひとつに驚きを覚えるほど、もう若くはない。
     本宮夏生(もとみやなつお)は眼鏡を外し、鼻根の両側にできているであろう、楕円形(だえんけい)の痕(あと)を揉んだ。ぬめりがある。皮脂だ。同じものが、眼鏡の側にも付着しているはずである。双方を半日使ったハンカチで拭(ふ)く。レンズは拭かない。見たところ、そこまで汚れてはいない。
     眼鏡を掛け直し、刑事(デカ)部屋をそれとなく見回す。既視感といえば大袈裟(おおげさ)だが、特に代わり映えのしない眺めだ。
     壁掛けの時計は十五時二十四分。机に着いているのは課員の半数以下、三十人程度。
     少し離れた席で、二十代のデカ長(巡査部長刑事)が頭を掻(か)き毟(むし)りながら調書をまとめている。自分が若い頃は全部手書だった。今はみんなパソコンだ。字の上手い下手で仕事の出来不出来を言われることはなくなった。だが文章の上手い下手は今もある。警察業務の大半は書類仕事だ。
     木村(きむら)デカ長。あいつは地域課の平和通交番から上がってきたばかりだから、まだ「事件を書く」ということができない。この先は分からない。上手くなるかもしれないし、下手なままかもしれない。だが今みたいに、担当係長や統括係長に指摘されて、その個所だけ手直しているうちは駄目だ。使えない。決して難しい要求をしているのではない。要は「文脈」だ。事件を文脈で捉えることが肝要なのだ。脈が乱れたら、読む方は引っ掛かる。疑問を持つ。そんな書類、検事は喰(く)わない。突き返してくる。刑事の仕事は、最終的には検事に書類を喰わせること。そこにたどり着くまでが捜査だ。
     右手を挙げる。
    「……星野(ほしの)、ちょっと」
     強行班(強行犯捜査係)担当係長の星野警部補を呼ぶ。はい、と応じた星野の眉間に浅く皺(しわ)が寄るのを見た。小言を言われるのが嫌か。ならば、それなりの仕事をしろと言いたい。
    「はい、課長。何か」
     星野が昨日作成した弁解録取書、今日作成した供述調書。どの個所というのではないが、机に広げたそれに指を落とす。
    「この学生、採尿はしなかったのか」
     星野の口が「は」の形になる。
     もう一度訊く。
    「したのか、してないのか」
    「して……ないです」
    「なぜしなかった」
     意地の悪い訊き方なのは自覚している。気づかなかったから採尿しなかった。それ以外に理由はあるまい。
    「お前……これがただの、学生同士の喧嘩だとでも思ったのか」
     返事はない。星野は決して馬鹿ではないから、本宮の言いたいことはもう分かっているはずだ。分かっているからこそ、返事ができない。反論できない。
    「あの顔、目の動き、口の動き、肌艶と発汗。三分見てれば分かるだろう。俺は調室に入るのを一瞬見ただけだが、分かったぞ。分かるぞ普通。シャブ食ってるだろ、あいつ。今頃、キンタマ握り締めてションベン絞り出してるぞ」
    「すんませんッ」
     星野は回れ右をし、刑事部屋から飛び出していった。
     留置場にいって、係員に頭を下げてマル被(被疑者)をもう一度出してもらって任意で採尿。応じなければ令状を取って強制採尿。陽性反応が出たら覚せい剤使用で再逮捕。取調べをして、入手ルートの把握が困難なら組対(そたい)(組織犯罪対策課)に協力を要請するか丸投げするか。それは、そうなってから考えればいい。
     星野の件は措(お)いておいて、別の調書を読む。
     刑事課長のデスクは常に書類の山だ。ここ、池袋署刑事課には強行犯捜査係、知能犯捜査係、盗犯捜査係、鑑識係の四つがある。人員は七十八名。うち課長代理は四名。四人もいれば課長業務のかなりの部分を肩代わりしてくれそうなものだが、本来そのための課長代理なのだが、本宮にはそれができない。決裁済みの書類にも目を通してしまう。そして、今のような粗を見つけてしまう。
     課長代理も統括係長も飛ばして、下の者に直接指示するのを快く思わない者もいる。承知の上だ。ならば、中途半端な決裁はするなと言いたい。目を通すだけ時間の無駄。そういう書類作りをすればいい。
     些末(さまつ)な誤りだが、また見つけてしまった。一応指摘しておこう。
    「岡村(おかむら)代理、ちょっと」
     主に盗犯係を監督する岡村課長代理を呼ぶ。岡村とは本部の捜査一課で一緒だったこともあり、気心は知れている。
    「……はい、なんでしょ。また何か、やってましたか」
     良くも悪くも、他の課員ほど恐縮することもない。
     岡村は部下たちに「課長の小言は天気予報」と言っているらしい。それを聞いた本宮が「どういう意味だ」と訊くと、「必ず毎日耳にする、でも三十パーセントまでは気にする必要はない」と説明された。本宮が「それじゃ降水確率だろう」と指摘すると、「課長、こういうのは語呂、リズムなんですよ。いわば『文脈』です」と返してきた。岡村とはそういう男だ。
    「あのな……オヤジ(署長)の漢字には気をつけろと、再三言ってるだろう」
    「あ、やってましたか。誰ですか」
     捜査報告書というのは基本的に、捜査員が所属長に向けて作るものだ。今も頭を掻き毟っている木村デカ長を例にとれば、司法警察員巡査部長、木村敬太(けいた)が、池袋警察署長、司法警察員警視正、渡邊三朗(わたなべさぶろう)に宛てて書くものだ。よって署長の名前が「渡辺三朗」であったり、「渡邉三朗」「渡部三朗」「渡邊三郎」であったりしてはならない。
    「千田(ちだ)チョウ(巡査部長)だよ。もうオヤジも着任一ヶ月なんだからさ。テンプレートの上のところを直すなり、単語登録するなりすれば済むことだろう」
    「はい。厳重に、注意しておきます」
    「こういうの、マル被の名前でやらかしたら問題だろ」
    「はい。厳重に、注意しておきます」
    「……という降水確率は、何パーセントだ」
    「三十パーセント以下ですね」
    「コノヤロウ」
     岡村は「失礼します」と苦笑いしながら調書を引き取っていった。
     次の調書を読む。

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