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【第153回 直木賞 受賞作】『流』東山 彰良
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【第153回 直木賞 受賞作】『流』東山 彰良

2015-07-02 13:50
     プロローグ

     その黒曜石の碑(ひ)は角が取れ、ところどころ剥(は)がれ落ち、刻まれた文字もまたかなり風化していたが、それでも肝心な部分は辛うじて読み取ることができた。

    一九四三年九月二十九日、匪賊葉尊麟は此の地にて無辜の民五十六名を惨殺せり。内訳は男三十一人、女二十五人。もっとも被害甚大だったのは沙河庄で――(数行にわたって判読不能)――うち十八人が殺され、村長王克強一家は皆殺しの憂き目を見た。以後本件は沙河庄惨案と呼ばれるに至る。

     碑文を写真に収めてしまうと、とたんに手持ち無沙汰になって途方に暮れてしまった。
     腰をのばし、どこまでも広がる冬枯れの畑を見渡す。この日の青島の気温は一、二度しかないはずだが、天気晴朗にして風はなく、おかげであまり寒いとは感じなかった。
     かつてこの場所に集落があったとは到底思えないほど人煙(じんえん)は遠く、かすかだった。
     色の黒い年寄りがひとり、畦道(あぜみち)に自転車を停めてじっとこちらをうかがっていた。白い顎鬚(あごひげ)を生やし、濃緑色の上着におなじ色の人民帽をかぶっている。畦道の先には広大無辺の天地しかなく、あの自転車が空を飛べるのでないかぎり、わたしには彼がどこかへたどり着けるとはどうしても思えなかった。
     年寄りの来し方に目を転じる。茫洋たる荒野の彼方に鉄道線路がのび、芥子粒(けしつぶ)ほどの大きさの人々がうずくまっていた。わたしをここまで乗せてきたタクシーの運転手に尋ねると、あれは汽車が落としていった石炭をひろっているのだと教えてくれた。
    「同志、ついでにもうひとつ訊(き)きたいんですが」わたしは腹をさすりながら重ねて質問した。「どこかにトイレってないですか?」
     運転手は難儀そうに、すこしばかり離れた道路脇に立つ壁を指さした。そう、壁である。助手席の馬爺爺(マじいさん)は陽だまりのなかでこっくりこっくり舟を漕(こ)いでいる。運転手は腕時計をちらちらのぞきながら、絶句のわたしを急きたてた。
     それは立っているというよりはまだ倒れていないと言ったほうが正確な、なにかの建物の残骸だった。身の丈百七十七センチのわたしの胸ほどの高さしかない。そばには白楊(はこやなぎ)の樹が一本生(は)えており、落葉した枝をみじめったらしく広げていた。わたしたち台湾人の感覚では、それはただの壁以外の何物でもない。しかし中国人があくまでそこはトイレだと言い張るのなら、わたしにはどうすることもできなかった。
     日本を発つまえから、わたしは便秘に悩まされていた。が、無事に大陸に降り立って緊張の糸が緩んだのか、四日ぶりの便意が大波のように押し寄せ、真冬にもかかわらず額から汗がぽたぽたと滴(したた)り落ちた。
     選択の余地はない。
     小走りで壁の陰に駆けこむと、わたしはポケットティッシュを握りしめ(神様、ありがとう、わたしにティッシュを持たせてくれて! 東京駅で金髪の男が配っていた消費者金融のティッシュである。このような場合に備えて、ティッシュはいつだってもらっておくべきなのだ)、一気にジーンズを下ろしてしゃがみこんだ。とたん、大きな屁が出て一驚を喫してしまった。辺土に谺(こだま)するほどの荒々しい屁だったので、白楊に羽を休めていた鴉(からす)が鉄砲で撃たれたと勘違いして飛びたってしまったほどだった。
     そこはたしかにトイレだった。前人の残していったものがちゃんとあり、わたしは嫌悪と安堵を同時に噛みしめた。が、いくら肛門よ裂けろ、裂けるなら裂けてしまえと力(りき)んでみても、下腹はまるでコンクリートでも詰まっているかのようにビクともしない。すぐに滝のような脂汗をかきだした。
     わたしはひとりぼっちで戦った。かつてこの場所で共産主義者と戦った祖父とは大違いだ。腹はきりきり痛み、出るものは出ず、大地を吹きぬける寒風のせいで尻は凍えるほど冷たい。おまけに違和感を覚えてなんの気なしにふりむくと、壁の上からのぞきこんでいる赤黒い顔があるではないか!
     わたしは仰(の)け反(ぞ)り、尻餅(しりもち)をつきそうになった。尻餅などついたら、先客のものの上にすわりこんでいたかもしれない。尻餅などつかなくてほんとうによかった。
     それは濃緑色の人民帽をかぶり、白い山羊鬚(やぎひげ)を生やした先ほどの自転車の年寄りだった。年寄りはわたしのあられもない姿を正視しても睫毛(まつげ)一本動かさないばかりか、こう言い放ったのである。
    「你在干什么(なにをしとるんだ)?」
     耳がおかしくなったのかと思った。もしもだれかがトイレと信じられている場所で尻を出してしゃがんでいるなら、台湾や日本ではまずされない質問である。年寄りはわたしをじいっと見つめた。わたしも肩越しにその赤黒い顔をにらみかえした。わたしたちのあいだを空っ風が吹きぬけ、荒野の土埃(つちぼこり)を巻き上げる。すると年寄りの頭がひょいとひっこみ、だらだらと歩き去る足音が聞こえてきた。
     ああ、世界はなんて広いのだろう!
     わたしは立ち上がってジーンズを穿き、ベルトをしめてトイレから――どこからがトイレで、どこからが外かわからないが――歩み出た。便意などすっかり雲散霧消していた。
     驚いたことに年寄りはまだそこにいて、白楊の木陰に少女のようにひっそりとたたずんでいた。そしてわたしを見るや、もう一度おなじ質問をしてきたのである。なにがなんだかわからなかった。すると年寄りがまた口を開いた。
    「さっきあの石碑のところでなにをしとったんだ?」
     それでやっと彼が変人でも阿呆でもないと確信した。しかしそうなると、返答に苦しむ局面である。わたしは父に、けっして山東省に近づいてはいけないときつく釘を刺されていた。正味の話、子供のころから耳にタコができるくらい言われていた。おまえのじいさんはあそこでたくさん人を殺してるんだぞ、その人たちの家族がまだたくさん生きているんだ、おまえが葉尊麟(イエヅウンリン)の孫だと知れたらどうなると思う?
     わたしは用心深く口をつぐんだ。
    「ひょっとすると、あんた……」老人の目が鈍く光った。「葉尊麟の息子かね?」


    第一章 偉大なる総統と祖父の死

     一九七五年はわたしにとって、あらゆる意味で忘れられない年である。
     大きな死に立てつづけに見舞われたのだが、そのうちのひとつは家の門柱に国旗を掲げなければならないほど巨大なものだった。さらにそれよりはずっと取るに足らないが、わたしにしてみればやはり「人生を狂わされた」としか言いようのない不運な出来事があった。 
     四月五日にそのニュースが台湾全土を駆けめぐったときのことは、忘れようにも忘れられない。
     わたしは十七歳で、制服のボタンをみんなよりひとつだけ多く開けて着流すような、ちょいとばかり粋がった高等中学校の二年生だった。男子なら丸刈り、女子は西瓜の皮(おかっぱ頭)以外認められていなかった時代に、わたしは襟足(えりあし)をほんのすこしだけ長くのばしていた。わたしは天真爛漫で、心配事といえば、生活指導部に自慢の襟足をちょん切られることくらいだった。のちにわたしを泥沼に引きずりこむことになる無謀な計画はいまだ趙戦雄(ジャオジャンション)の胸のうちにあって、わたしとはなんの縁もゆかりもなかった。 
     三時間目の授業中に政治学の教師が呼ばれて出ていき、しばらくしてまるで空が落っこちてきたかのような沈痛な面持ちで戻ってきた。そして、厳かにこう告げた。
    「総統が逝去なされました」
     教室の蛍光灯がバチバチッと明滅した。
     わたしたちはそわそわとおたがいに顔を見合わせた。先生がハンカチで目頭をぬぐうと、数人が首尾よく涙を絞り出していち早く愛国心を天下に見せつけた。それまで晴れ渡っていた空に突如暗雲が逆巻きながら流れこみ、世界を灰色一色に塗りつぶしていった。蒋介石の亡骸(なきがら)から抜け出た黒龍が雲を割って昇天していく様が、台北市のどこからでも望めた。まるで不吉な予言を運んできたかのように、鴉たちがけたたましく啼(な)きながら校舎の上を旋回していた。
    「本日の授業はこれにて終了します」と、先生が手短に言った。「各自すみやかに帰宅し、待機していてください」
     大街小巷から人影が消え、野良犬すらいなくなった。だれもいなくなった公園ではリスが梢(こずえ)を渡り、小鳥が楽しげにさえずっていた。
     だれもが薄暗い家のなかで息を殺してテレビやラジオにかじりつき、この好機を共産主義者どもが逃すはずがないとおびえた。わたしたちを守っていた巨人が倒れ、邪悪なものが台湾海峡を越えて攻めこんでくるのは時間の問題だった。
    「おれたちが備蓄している弾薬では五分ももたんぞ!」さっそく頭に変調をきたした者が外で呼ばわった。「いますぐ投降するんだ、弾を撃ち尽くしてから投降しても遅すぎるんだぞ!」
     憲兵隊のジープがさっと走ってきて、いずこへともなくその男を連れ去った。わたしは焦土と化した宝島(台湾の別称)を想像して身震いした。
     ほかの学校でも授業が中断され、子供たちは家に帰された。先生たちの表情はやはり鉛のように重く、だれも多くを語らなかったはずだ。
     つづく数日、旗竿という旗竿には一本残らず弔意を表する半旗が掲げられ、悲嘆に暮れた大人たちは蒋公中正先生(蒋介石のこと)を鄭重(ていちょう)に黄泉路(よみじ)へと送り出すべく、ある者は正装し、またある者は伝統にのっとってずだ袋をかぶって総統府へ詰めかけた。
     我が家の白黒テレビの画面は、数キロにわたってのびる弔問客の列をずっと映し出していた。弔問客は自分の番がまわってくるのを辛抱強く待ちつづけ、そのあいだもこらえきれずに涙を流し、そして青天白日旗に包まれた棺(ひつぎ)のなかで白い花に埋もれている我らが総統にすがりついては、またおいおい泣くのだった。ああ、巨星が墜ちました。アナウンサーの悲痛で大仰な声が泣き声にかぶさる。我らが偉大なる総統はもういないのです。黒塗りの霊柩車がとおる沿道では女たちが地面に身を投げ出して蒋介石の雷名を叫び、男たちは歯を食いしばって敬礼し、小さいときからそうするように仕込まれた子供たちは競い合うようにして泣き叫んだ。
     世界中どこでもそうだが、大人たちの涙には多分に政治的配慮が働くものである。ここで存分に愛国心を発揮しておかなければ、のちのちどんな災厄が降りかかるか知れたものではない。なんといっても台湾を仕切っているのは国民党で、わたしたちは一九四九年からつづく戒厳令の下に暮らしていたのだから。
     しかしあの年代の台湾の子供たちにとって、蒋介石は神にも等しい存在だった。すべては老総統の思し召し、映画が観られるのも、テレビが観られるのも、アメリカのガムが食べられるのも、学校で勉強できるのも、三度三度きちんとご飯が食べられるのも、なにもかも国民党のおかげだった。大陸出身者である外省人も、その外省人に迫害されていた土着の本省人も関係ない。小学校のころ、図画工作の時間に指人形を作らされたことがある。わたしがアメリカの保安官のつもりで人形の胸に黄色い星を描いたら、星は共産主義者のしるしだと言われて楊(ヤン)先生にいやというほど棒で掌(てのひら)をぶったたかれた。牝豚のように肥え太ったその楊先生などは、生粋の本省人だったのである。つまり、だれにとっても国民党は燦然(さんぜん)と光り輝く正義で、共産党は殲滅(せんめつ)すべき憎き悪だったのだ。わたしはかなり大きくなるまで、毛沢東の頭には角が生えていると思っていた。 
     それなのに、わたしたちはそれほど長くは喪に服さなかった。ひと月も経つと、曇天の下で力なくはためく半旗だけが、烈火の如き悲しみを思い出させる唯一のよすがとなった。とくに息子の蒋経国が後継者に立ってからは、万事が急速にもとどおりになっただけでなく、心なしか軽やかにさえなった。そのぽっちゃりした顔つきからして、蒋経国は父親とちがって、どこか牧歌的なところがあった。着ているものも厳(いかめ)しい軍装や中山服ではなく、まるで中小企業のおっさんのようなジャンパーだった。そのときはまだ彼の真の恐ろしさなど知りもしなかった。台湾最大の暴力団竹聯幇(ヂュウリェンバン)を顎で使えるような人だとは。十年後、蒋経国は竹聯幇の大親分陳啓礼(チェンチンリイ)をサンフランシスコへ送りこみ、自分の批判的な伝記を書き著した江南(ジャンナン)を自宅で殺害させることになる。この事件がアメリカで取り沙汰されるや陳啓礼は台湾で逮捕され、終身刑の判決を受けたが、恩赦で出獄し、六十六歳で亡くなるまで竹聯幇に影響をおよぼしつづけた。しかし考えてみれば、これは不思議でもなんでもない。蒋介石だって上海にいたころは青幇(チンバン)の首領杜月笙(ドゥユエシヤオ)と懇意にしていたではないか。
     ともあれ、わたしは新しい総統に親近感を持った。まわりの大人たちも女に意地汚い彼を小馬鹿にしていたと記憶している。台湾の足首にくくりつけられていた重石(おもし)が取れ、アディダスのランニングシューズに履きかえたような空気がそこはかとなく漂いだした。この男なら、とわたしは思った。五分しかもたない弾薬でわたしたちに無茶なことはさせないだろう、おなじ中国人どうし、腹を割って話せば、毛沢東だってわたしたちをそう無下にはしないはずだ、と。
     やがて国情が落ち着いてくると、人々はまた日常の些事にかまけるようになった。女たちは麻雀卓を囲みながら食料品が値上がりしたと文句を垂れ、男たちは仕事以外に家事もやらされることにじっと耐え、若者たちは色恋沙汰にうつつをぬかした。
     そんななか、祖父が殺された。

     当時の台北市はいまよりうんと混沌(こんとん)としていて、どんなことでも起こりえた。経済的には、日本よりも二十年立ち遅れていると言われていた。西門町のあたりには安くて美味(うま)いがひどく不衛生な屋台が軒を連ね、数年に一度、B型肝炎を大流行させていた。そのような屋台では、残飯の上澄みからすくいとった廃油を精製して食用油として再利用していた。ビール腹のようにボンネットをでんと突き出した市バスが朝から晩まで中華路をふさぎ、ガラの悪い運転士が大声で世界をののしりながら、まるでレーシングカーのようにぶんぶん飛ばしていった。そのバスのあいだを、たちの悪さではバスより数段上のタクシーが鮫(さめ)のように走りまわっていた。タクシーの運転手たちはティアドロップ型のサングラスをかけ、血のような檳榔(びんろう)の噛み汁を窓から吐き飛ばし、喧嘩をも辞さない覚悟で客をだまくらかす。遠回りなどはあたりまえで、メーターに小細工をして十秒ごとに課金したり、こちらはたしかに百元渡したのにいけしゃあしゃあと五十元しかもらってないと言い張ったりした。通りをはさんで怒鳴り合うおばさんたち、子供を見かけるたびに理由もなく小突いてくるおじさんたち、路地裏でこちらの目を狙って石を投げつけてくる、くわえ煙草の悪たれども。
     そんなところだったので、もめ事も小さいものから大きなものまでなんでもござれだった。いまならそんな厄介事は警察や裁判所の手に委ねられるのだろうが、むかしは裁判といえば人の生き死にに関わるほどの重大事にかぎられ、細々した日々のいざこざは当事者の家の家長どうしが話し合って決着をつけたり、これもまた人生とあきらめたり、神仏にお伺(うかが)いを立てて物事を決めたりしていた。とくに戦争中に人を殺したことのある年寄りたちは、神や幽鬼(ゆうき)をおろそかにしなかった。
     わたしの祖父もそんな迷信深い年寄りだった。 


    ※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。


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