その1の続き。

https://ameblo.jp/amanomotoyasu/entry-12355256559.html



他者を思いやる道徳概念を否定し、力への意志のように物事の強弱に価値を
置くのが一九世紀の哲学者ニーチェの思想である。

このニーチェ思想は未だに大きな影響を社会に与えているようだ。


超大国である米国で最も主流の思想をなしているリバタリアニズム
(自由至上主義者)とニーチェ思想の関係について論じたのが以下の文章である。


(以下ニーチェと少年犯罪についての一考察より転載開始)


http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Studio/8352/niitye.html



リバタリアニズムとニーチェ

2003 年2月28日放送の『朝まで生テレビ』(テレビ朝日系)での宮台真司の発言によると、ブッシュ政権の中枢で軍事強行路線を進めるラムズウェルド国防長官は リバタリアン系の政治家なのだそうだ(「リバタリアニズム」の訳語は「自由至上主義」。リバタリアンは「自由至上主義者」)。

「リバタリアニズム」というのは、人間には本人の才能や境遇に見合った「権原」というものがあり、その権原の分だけ、本人は自由に生きる権利があ る、とし人間の平等性を否定する考え方だ。この考えは一見合理的だが、ともすれば、権原のない人間は見殺しにしてもよい、ということになってしまう。

たとえば、障害者は「権原」をもっていない人間なのだから生きる資格はない、として、周囲の人間が見殺しにすることが正当化できてしまうのだ。

「権原」を重視する右翼のリバタリアニズムに対して、アメリカの左翼思想であるリベラリズムは「人権」を重視する。これは、人間はただ存在するだけ で、才能の有無にかかわらず、必要最低限の自由をえる権利があるという考え方だ。弱者を救済することを美徳とする道徳的な価値観はリベラリズムに該当する (「リベラリズム」の訳語は「自由主義」)。

「リバタリアニズム」という思想を理解するには、『倫理とは何か』(永井均、著/産業図書)が分かりやすい。「リバタリアニズム」とは個人の自由を最優先し福祉政策を否定する過激な自由主義である。『倫理とは何か』によると、このリバタリアニズムこそがアメリカでは「守るべき伝統」であり保守思想ということになる(179ページ)。こ こでは、リベラリズムの倫理学者ロールズが、リバタリアニズムの哲学者ノージックと対立したこともふれられている(178ページ~)。リバタリアニズムに ついては、副島隆彦の『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』(講談社)にも解説されている(第4章と第6章など)。

リベラリストのロールズは「能力、境遇に恵まれた人は、最も不遇な人々の暮らしの改善を改善するべき」と主張する。ロールズは、これを格差原理とよ んでいる(ロールズは個人の「自由」や「機会」の均等と「結果」の極端な格差の是正を指向する。「結果」の完全な平等は指向していない。講談社『ロールズ  正義の原理』291ページなどより。)。この場合の境遇とは「たまたま弱者の近くに居合わせる」ということを含んでいるとおもわる。つまり、格差原理と は「近くに困っている人がいたら助けてあげましょう」というような一般的な道徳観念を、学問的に言い表わしたものであろう。

この格差原理は「自分達に余裕がある場合は積極的に他者を救うべき」という考え方である。格差原理は、市民から税金を徴収し、恵まれない人たちへ財 の再分配をする福祉政策に通じる。福祉政策は通常、裕福な人ほど高い税金を払うことになるが、それは裕福な人は「他者を救う余裕がある」といえるために妥 当であるだろう。日本国憲法は第二十五条で弱者救済を定めているので、今の日本の社会はリベラリズムの社会ということになる。

これに対してリバタリアニズムは「他者を救うだけの能力、境遇に恵まれていても、他者を救いたくなければ救わなくてもいい」という考え方である。前 述のロールズとノージックの対立を読めば、それは明白である。ノージックは「恵まれた人が恵まれない人を援助する義務はない」として、ロールズの格差原理 を批判しているからだ(『倫理とは何か』182ページ)。

こういうリバタリアニズムのような考え方の方が進歩的だ、と現在の日本の言論人やマスコミは勘違いしているようだ。リバタリアニズムに酷似した価値 観をとなえて、それを進歩的な価値観だなどという言論人は多い。が、本当はアメリカではリバタリアニズムが保守主義で右翼となる。ここを勘違いしている日 本人はおおい。

「自分が好きな人(恋人、友人、家族)だけ救ってあとの人間は見殺しでいい」という考えを今の日本の一部の言論人やマスコミは進歩主義のようにいい、大方の日本人もそう思っているようであるが、こういう考え方は「恵まれた人が恵まれない人を援助する義務はない」というノージックの考えに通じる。

他者を救うだけの能力に恵まれている人が「他人を救いたくなければ救わなくてもいい」となれば、その人は間違いなく恋人、友人、家族のような「自分が好きな人」だけ救うとおもわれる。なので「自分が好きな人だけ救ってあとの人間は見殺し」という考え方はリバタリアニズムに該当するだろう。

なぜ日本のマスコミはそういう勘違いをしているのかは謎だが、これはやはり彼らが背徳主義に傾倒しており、背徳主義を進歩的だと思い込んでいるから だろう。弱者を見殺しにすることは、日本では一般的に不道徳とされているからだ。日本では言論人がリバタリアニズムに酷似した価値観ばかりとなえるので、 リバタリアニズム的な思想(弱者の見殺し、人間の平等性の否定)が「現代的な価値観」みたいにいわれている。しかし『世界覇権国アメリカを動かす政治家と 知識人たち』によると、リバタリアニズムは実はアメリカの西部開拓時代の農民の思想なのだそうである(319ページ等)。つまり「西部開拓時代の農民の思 想」が、なぜか現代の日本では「現代的な価値観」だといわれていることになる。

『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』によると、70年代のアメリカでは、裕福な老人層から「納税者の反乱」という運動がおこった。こ の際の老人達の主張は「各種の福祉予算の必要を理由に課税が強化されるなら、われわれは断固として税金反対の法廷闘争をやる」というもの。中間層や貧困層 が増税に反対するなら分かるが、裕福層の老人がこのような訴えをおこしてしまうのがアメリカなのである。

かれらアメリカの裕福な老人たちは「自分たちが払う税金は自分たちのために使われるべきだ」と主張したという(307ページ)。アメリカで老人が、 こういう運動をおこすのは、福祉否定が「アメリカの伝統的な価値観」であり保守主義だからであろう。この老人たちは、家族(配偶者など)や友人には援助す るだろうから、やはり「好きな人だけを守る」というのはリバタリアニズムだろう。

「好きな人だけを守る」という考えは、ボランティア団体にたとえれば、そういう団体が紹介制の料亭みたいに「コネがなくちゃ援助しません」と言い出すことと同じですからねえ。それじゃあみんな困るでしょ(もはや「福祉」ではない)。
社会保障にたとえれば、社会保険庁が「政府とコネのある人でないと健康保険や社会保険はつけない」といいだすのと同じですからね。

ロールズは、人間の罪責感情の発達についても研究している。罪責感情は三段階の過程をへて出来上がるとロールズは分析する。これは心理学者ジャン・ ピエジェがおこなった、子供の道徳判断の発達についての研究をヒントにしたものである(川本隆史『現代思想の冒険者たち23 ロールズ──正義の原理』 (講談社)99ページ)。

まず、第一段階は「親や目上のものに従わないことを罪だと考える」というもの。
これは、ピアジェの道徳判断の発達の研究では第三段階のものに相当します。

第二段階は「仲間との友情や相互関係を裏切り「連合体」から離反することを罪と考える」である。

そして、第三段階で「仲間意識で結ばれていない人びとがこちら側の行為で害をこうむった場合にも負い目を感じる」というものである。

好きな人だけ救ってあとは見殺し」という考えは、このロールズの罪責感情の発達段階での第二段階に相当する。そうなると、こういう考え方をしている人間は、第二段階で罪責感情の発達がとまっているということになり、精神的に未発達で未熟だということになる。


(転載終了)



上記の文章にあるように米国共和党の主流思想であるリバタリアニズムとは、
弱者救済の道徳を否定した自由至上主義だ。

この考えが先進国で最低レベルと言われる米国の医療福祉体制の基盤を
なしている。

トランプが所属する共和党はリバタリアニズムであり、社会主義者を自称する
サンダースが所属する民主党は弱者救済を重視するリベラリズムである。


米国は二大政党制のために、共和党にも民主党にも様々な思想を持った人間が
入っているが大まかに分けるとそうなる。


このリバタリアニズムは自己責任論を強調するために、社会保障を切り捨てる。
弱肉強食を支持するために、市場原理を重んじる。

まさに前回紹介した野獣の王ライオンの生態のような社会を目指しているのだ。


日本国憲法は、最低限の生活保障を国の責務とうたっているために、
リベラリズムが組み込まれている。

戦後の日本が中程度の福祉国家になったのは、この条文の影響が大きいだろう。


上記の転載文章にも記載されているが、リベラリズムの考え方というのは人間が
成長する過程で教わる常識的な感覚である。

普通の親は子供に

「弱い者いじめをするな」

「困っている人がいたら助けろ」

と教育するだろう。

哲学者のロールズが述べている格差原理の問題は、通常の人間が社会生活で
身につける常識の思想なのだ。


ところが、リバタリアニズムは、その逆をいく。

「とにかく強者になれ」

「困っている人がいても自己責任であり助けなくて良い」

つまりリバタリアニズムというのは、常識的な道徳の否定の上に気づかれている
思想なのだ。

リバタリアニズムと道徳を否定し強者をたたえるニーチェ思想は極めて類似している。

そのことについて論じているのが以下の文章である。


(以下ニーチェと少年犯罪についての一考察より転載開始)


前述のようにリバタリアニズムは、人間の才能や境遇による「権原」を重視する。この「権原」というものは、能力の優秀さ等といった「力」を絶対視す るニーチェのエリート主義に通じるものがある。また、福祉を否定し弱者を切り捨てるという部分も、リバタリアニズムとニーチェ主義の共通点だろう。リバタ リアンには社会ダーウィニズムを信じている人がおおく、この点もニーチェ主義に通じる。


<中略>


リバタリアニズムは政府による経済の規制・介入に反対し、政府より自由市場が政治的権力もつべきとする思想であり「市場原理主義」「市場万能主義」である。リバタリアニズムの重視する「権原」という概念は、市場原理に直結しているからだ。

2005年8月31日の毎日新聞の夕刊によると、米国勢調査局が発表した2004年の米所得調査では貧困層は4年連続で増加しており、これに対して 民主党からは「富裕層優遇の大型減税などブッシュ政権の経済政策の誤り」との批判が出ているらしい。このことはブッシュ政権が富裕層を優遇し、激しい貧富 格差を促進させる保守主義の政権であることを如実にものがたっている。

リバタリアニズムは自由競争を基盤とする市場原理の徹底を求める。なので「世の中金が全てだ」という拝金主義はリバタリアニズムに通じるだろう。


<中略>


アメリカの政治思想にはネオ・リベラリズムというものもある。これは名前こそリベラリズムとあるが、実際はリバタリアニズムとほとんど変わらない思想で保守主義の一種であり、リベラリズムとは別の思想である。
ネオ・リベラリズムは民主党の政治家たちが共和党のリバタリアンの政治家にリベラリズムが批判されたことをうけて、リベラリズムをリバタリアニズムにちかづけた思想である。『世界覇権国アメリカ~』では中道主義と書かれている(140ページ)。

しかし、森村進による『自由はどこまで可能か-リバタリアニズム入門』(講談社現代新書)によればネオ・リベラリズムという言葉は「学問的文献よりもジャーナリズムでよく見かけるが(中略)大変多義的である。(21ページ)」という。
この『自由はどこまで~』によればネオ・リベラリズムという言葉は「リバタリアニズムに近い立場を指すこともある(21ページ)」らしいが、ネオ・リベラ リズムがそもそもジャーナリスティックな曖昧な言葉であるので、本サイトではネオ・リベラリズムという言葉を使うことは避けている。ただし、ネオ・リベラ リズムが「市場原理主義」「社会福祉の縮小」というような意味で使われる場合は、リバタリアニズムの穏健なバージョンと同義だとおもわれる。


(転載終了)


猛威をふるうリバタリアニズムの影響を受けて、リベラリズムも変質した。
それがネオリベラリズムといわれる思想である。

社会福祉を切り捨て、小さな政府を指向し、市場競争に基づいた格差社会の
拡大を肯定する。

これが90年代のクリントン大統領、最近のオバマ大統領の民主党の政策に
引き継がれ、富の格差を拡大させてきた。


政治がウォール街やFRBの株主に買収され、リベラリズムの理念がねじ曲げられてしまった。

上位3人が下位50%と同じ資産を持つ現在の米国には、格差を良識の範囲内で
のみ認めようという70年代に一斉を風靡した「ロールズの格差原理」の影響など
微塵も感じられない。


その国際銀行権力の金権支配に置かれた米国に管理されている日本も、
米国の後を追うようになってきている。

リバタリアニズムとその影響を受けたネオリベラリズムが小さな政府へ向けた
構造改革を掲げる小泉政権以降の日本の言論界の主流であった。

このような状況に陥ったのは人々が常識的に身につける良心を捨てる以下の
ような思想的プロセスがあった。


・正義の否定と、価値相対主義の浸透

・各人の利益追求こそが、社会の発展につながるというアダムスミス以来の経済学の思想の浸透


この政治哲学と経済学の思想の二つが重なり合うことで、現在の超格差社会を
創りだし、それを肯定する状態を作り出したのである。

正義の否定による価値相対主義は、善に基づく行動を伴わなくなる。
なぜなら、目的の存在しない価値相対主義では意志の方向性が定まらないからだ。
それでは、価値相対主義の人間は何によって動かされるのか?

その時々の感情である。

そして、誰もが本能的に持っている自己愛や、愛する者のために利益を追求する
経済学の拝金主義の思想が価値相対主義者の受け皿となる。

その結果、欧米日は普遍的な基本的人権と民主主義を掲げながらマネーの
管理者に支配される社会に誘導されてきたのだ。



ではどのような正義が良いのかについての考察が以下の文書に書かれている。





(以下ニーチェと少年犯罪についての一考察より転載開始)



現在の日本のマスコミトップは、道徳や正義を否定するかわりに「愛」や「友情」が大事だということをいう場合がおおい。しかし「愛」や「友情」というのもは、基本的に他者から愛される(好かれる)魅力が本人になければならない。
そうなると「愛」「友情」というものを基底にした価値観はリバタリアニズムに近付いてしまうことになる。「他者から愛される魅力」というのは、リバタリアニズムでいうところの「権原」に相当するからである。

世の中には、上記の神経症の患者のように、自分の魅力を他者にアピールできない境遇に置かれている人もいる。つまり「愛」「友情」という価値観は、こういう人を見殺しにしてしまう危険があるのだ。



<中略>


裕福な健常者の恋人や友人ができない障害者は「弱者を救うことは美徳」という価値観によってしか救えないとおもえる。前述のロールズの格差原理はそういう価値観に該当する。ロールズは『正義論』の著者として有名で、この格差原理を『正義論』のなかでかたっている。
そうなると、上記のような神経症の患者は「正義」でなくては救えないということになるのである。

ロールズの『正義論』は、20世紀リベラリズムの古典といわれる著書なので、「正義」という言葉と左翼リベラリズムは不可分の関係にあるだろう。

『正義論』は2原理の「正義の原理」で構成される。

1原理目は「身体の自由、良心の自由(←ここでは信仰の自由のことを表す)、思想の自由、政治的 自由等といったものを、平等に人々に分配する」というものである。

2原理目は「恵まれない人の暮らしを改善する」というものだ(大雑把な要約だが)。格差 原理はこの2原理目に含まれる。
(『現代思想の冒険者たち23 ロールズ──正義の原理』(川本隆史/著・講談社)より)。
わかりやすくいえば、1原理目は「他人に迷惑をかけない」という意味である。

2原理目は前述のように「困った人をたすけてあげよう」という意味である。

これらのことは、一般的かつ基本的な道徳観念であろう。

この『正義論』では1原理目も注目に値する。1原理目で注目したいのは「信仰の自由」や「思想の自由」といった他者の価値観を認めることをも含んでいることだ。こういう正義論が発表されている以上、正義とは必ずしも価値の絶対化を意味する言葉ではないのである。

オウム事件以降、日本のマスコミや言論人は「正義は価値の絶対化を意味する」という「正義否定論」を一斉に唱えた。

正義、道徳を「価値の絶対化」とみなす考えは「すべての価値は相対的なもの」というニーチェの価値相対主義に通じる。

この「正義否定論」は日本社会に定着してしまった感があるが、「正義否定論」を唱えた論客はロールズの正義論を見落としていたのだろう。これは、少年犯罪の増加の引き金になった可能性がある。

日本でロールズの正義論を研究している川本隆史氏(現、東京大学教授)によれば、この正義という言葉には本来「バランスをとる」という意味があるという。

「西洋ではこの正義をそれぞれの手に剣と秤を持って目隠しをした女神の図柄で描いてきた。(註,タロットカードの「正義」のカードの図)つまり正義 というのは、不当な差別を剣でもって断ち切り、個々の正当な権利主張を秤で調停するという役割を果たすものと考えられてきたのである。」

これは、『月刊フォーラム』1997年8月号に川本氏が書いた『民主社会の倫理~高校教科書の作成に携わって』の一節だ。
タロットカードの「正義」のカードには、天秤をもった女性の絵がかかれてあり、これは「正義」が複数の人間同士の権利主張にバランスをとるという意味があると解釈できる。

複数の人間の間で意見や思想の相違がある場合、第三者はだれの意見にも偏ることのない中立的な立場をとることが理想とされるだろう。これが多元主義 ということであり、ひいては「他者と自分との関係にバランスをとる」ことを意味する。そうなると、「バランスをとる」という意味をもつ正義という言葉は、 こういった多元主義のスタンスを言い表わすのに本来は適切な言葉ということになる。
一方、自由、愛という言葉は「バランスをとる」という意味は本来もっていない言葉なのであまり適切ではないとさえいえる。

「正義」を否定し多元主義をとなえる言論人は、ニーチェ主義者である場合がおおいので「人間は平等であるべき」という考え方を否定する場合がおお い。しかし「人間一人一人の価値観の違いをみとめよう」という多元主義の考え方自体が、そもそも「人間一人一人は平等の権利をもつ」という平等主義的な価 値観に裏打ちされている。正義論の第一原理からわかるように思想の自由も権利の一種であり、この権利を各人が平等に持つことが多元主義だからである。


<中略>


昨今の日本の言論人は「世の中白黒でわりきってはいけない」といい、この「白黒で割り切らない」という考え方を「グレーゾーン」という言葉で表現する。そのうえで、正義という言葉は、世の中を白黒で割り切っている言葉だ、と批判する。

しかし、ロールズの正義論の第1原理は、信仰や思想の自由も含んでいるため、全ての思想に中立的な立場であり、よって「グレーゾーン」と同じことだ といえるとおもえる。つまり正義論の第1原理は言論人たちが「グレーゾーン」と呼んでいる部分と同じものを指しているといえるのである。

ロールズは人間が「私憤(自分が他者から危害を加えられたときの反応)」や「公憤(他者が別の他者から危害を加えられた状況をみたときの反応)」や 他者と友情や相互信頼のような絆を保てるのは「正義感覚の能力」が人間に備わっているからだと分析した。(『~ロールズ──正義の原理』100ぺージよ り)。正義感覚とは「相手の身になることを欲する安定した心的傾向性であると定義する(前掲書153ページ)。こういったロールズの分析は、ロールズ哲学 が「自然法主義」的であることを示している。

日本の言論人は「相手の身になって考える」ということを正義とは別の感情としている場合がなぜか多いが、ロールズのように「相手の身になって考える」ことを正義(の一部)だとした学説があることが視野にないっていない。



正義という言葉には正当性が与えられる。

そのため、自らが正義だと考える事は正当性の体現者となる。

正当性は不当性を排除しようとするので、正義を掲げる者が不寛容になり、
他の人間を排除する、ということが行われてきた。

歴史の書物は正義を掲げる者の愚行であふれている。

しかし、ロールズの正義の原理は、他者の自由を認めることを第一原理にしている。

つまり、自由を万人に平等に与える、ということだ。
言論の自由、思想信条の自由、表現の自由、集会結社の自由など。

この寛容の思想だけでは、正義の持つ全体主義的な側面は回避できても、
リバタリアニズムのように福祉を切り捨てる原理を否定できない。

そこで第2原理として、富や権限の格差は、恵まれない者の境遇を改善することに
つながる行動の結果のみにおいて正当化される、という格差原理をうちだした。


しかし現在の米国を見ると、米国で隆盛したロールズの格差原理だけでは、
マネーの支配者に管理される社会を阻止できていない。

なぜなら、現在の金持ち達は、自分たちの富はロールズの格差原理を実践した
結果(恵まれない状況にある人たちの境遇を改善した)であり、正当な対価だと
思っているからだ。

ロールズの格差原理だけでは、金持ちの支配を否定できないのである。

(これが米国だけでなく、福祉が充実している欧州や日本でも金持ちの支配や
格差拡大を肯定する状態を創りだしている)

それならば、もう一つの原理を付け加えなければなるまい。


私が考える第三の原理として、「権力の抑制の原理」がある。

民主主義の目的は「個人の尊厳の実現」だ。

個人の尊厳の実現とは、誰もが人格が保障され、支配者が存在しない社会のことだ。

支配とは影響力の程度のことである。

物事を決定する影響力が巨大であれば、そのものに支配されているということだ。


ハイパーインフレのもとでお金が紙くずになっていれば、いくらお金を持っていても
支配的な影響力を行使することは出来ない。

水が不足している状況では、水を管理している者が支配的権限を持つ。
一方、水が豊富なところでは、水を多く保有していても

影響力は殆ど無くなる。


現在は世界の資産額上位8人が下位の35億人と同じである。(米国では上位3人が、下から1億5000万人と同じ)

全てにおいてお金が必要であり、お金が銀行からの借金によって創られる
資本主義経済において、莫大な富が支配的影響力を持つのはあきらかだ。
(例えば株主による企業支配やマスコミによる認識支配など)

当然、権力抑制の原理からすれば、お金が支配的影響力を持たない社会
であれば、お金持ちの存在を抑制する必要は無くなる。


つまり、権力の抑制という民主主義の原理を取り入れることで、ロールズの
格差原理によっても肯定される富の格差を否定する論理が正当化されるのだ。


このように理論によって社会の問題を解決しようとすることをイデオロギーと呼ぶ。

イデオロギーは人工的なものだ。

このイデオロギーを批判する人が世の中には実に多い。

イデオロギーなどがあるから、人間本来の健全な自然性が失われ、価値観が狂うのだと。

イデオロギーを否定し、人間の自然な感情を尊ぶ性善説である。

しかし単純な性善説では、現実の社会問題を解決できないのは以下の文章から明らかだ。




(以下ニーチェと少年犯罪についての一考察より転載開始)



未開人も戦争をしていた


『男の凶暴性はどこからきたか』(三田出版会)という本がある。この本は、直接ニーチェ主義を研究した本ではないが、ニーチェ主義と密接な関係のあることが書かれている。

ルソーは『人間不平等起原論』のなかで「原始時代は戦争はなかった」ということをいっていて、これをルソーは「自然状態」とよんだ。原始時代こそが 平和なユートピアだという、このルソーの考えは20世紀半ばまで支配的だった。しかし、このルソーの考えは実は間違いだっだというのがこの本の主旨であ る。

ルソーの説が信じられていたころは、現代に残る未開の人々は「文明人のような無駄な殺し合いはしない」というのが定説だった。しかし、この『男の凶 暴性はどこからきたか』という本によると、近代社会の影響をうけてない未開社会でも部族間抗争は時々発生して死亡者が出る場合が多くあるという。

この本によると、ベネズエラ南部からブラジル北部にかけてのアマゾン低地の森に暮らすヤマノモ族は、女をめぐる争いなどがエスカレートして、村と村 との戦争になるという。マノマモ族の全男性の約30%が暴力で命を落としている(96~102ページ)。ヤマノモ族は貴金属や余剰食料はほとんど持ってい ない種族であり、戦争の際にも物資の略奪はみられない(104ページ)。

そして民族誌学的な調査では、農耕以前の社会の狩猟採集民は定期的に、絶えまなくといえるほどの頻度で戦争をしていたそうで、狩猟採集民族2年に1度戦争をしていたものが64%,それ以下が26%なのだそうである(109~110ページ)。

また、「ヒト以外には同種殺しを日常的に行っている動物はいない」というのが少し前の動物行動を考えるときに前提とされていた。しかし、この本によ ると動物の世界でも「子殺し」は日常的におこなわれているそうで、ライオン、ゴリラから鳥類にも魚類にも昆虫類にもみられるという(210~215ペー ジ)。

最もヒトに近い類人猿チンパンジーでも子殺しは行われる。チンパンジーは子殺し以外にも集団で他集団の構成メンバーを組織的に襲い、一つの群を壊滅 させてしまう事もあるという(35~38ページ)。また、人間そっくりの戦争をするミツツボアリというアリもいる。このアリは、大規模な縄張り争いをす る。勝者は敗者の巣を略奪し、敵の女王アリは殺されるか追い出され、幼虫やさなぎや若い働きアリは奴隷になる(218~219ページ)。マスコミが唱えた がる「イデオロギーが戦争の原因だ」という説では、こういう動物がやる戦争は説明できないだろう。また、前述のようにヒトラーは『わが闘争』でイデオロ ギー批判をおこなっており、このことからも、イデオロギー批判は戦争の抑止には直接つながらないといえる。

こうなると、ルソーのいう自然状態とはウソだということになり、むしろ戦争や殺人を肯定するニーチェの貴族道徳こそが、真の「自然状態」ということになってしまう。


<中略>


『男の凶暴性はどこからきたか』(三田出版会)によると、チンパンジーの社会は階層社会であり、トップを争って権力抗争をおこない(174~176 ページ)、他の集団を襲撃し全滅させるということもやってのける(35~38ページ)。チンパンジーがこのような性質をもっているとなると、人間の暴力性 は文化や発達した脳といった人間固有の性質からきたとはいえなくなる(44ページ)。

この本によると、ボノボの社会もチンパンジーの社会と同様の階層社会であり(280ページ)、同種での喧嘩などもときおり見られるとも書かれている(284ページ)。しかし、チンパンジーの社会にくらべるとはるかに平和的なのだそうである。

この本では、人間の暴力性の根底には、自尊心という感情があると分析している。ここでいう自尊心とは「自分が他者より優れていることは価値のあるこ とだ」という感情のことを指す。こういう自尊心はチンパンジーにもみられる感情だそうで、人間とチンパンジー両方の根底にある感情だという。

この本では戦争も自尊心が原因だという(256~259ページ)。戦争は地位をめぐる競争から発生する傾向があり、この傾向は世界で最初の大規模な 戦争だったギリシャのペロポネソス戦争(紀元前341~紀元前404)から現代の戦争にいたるすべての戦争に適用できるのだという。

戦争は表面上は当事国のさまざまな利害や政策などがからみあったものにみえるが、根底には「トップの座を占めるのはつねに価値あることだという理屈 ぬきの感情(259ページ)」があるのだそうだ。「他国を支配下におきたいという欲望は自尊心のなせるわざなのだ。(259ページ)」と、この本ではい う。この本のなかでは指摘されていないが、こういう自尊心はニーチェのいう「権力への意志」に通じるものではなかろうか。

この本では、こういった人間の暴力性はどうやって抑制できるかについて「伝統的にみて、社会のなかで不良行為を抑制できるのに一番効果的なものは道徳の拘束力である(330ページ)」という。
その上で、宗教の倫理観をこえ、「人類は単一の種である」という認識にもとづいた「世界の倫理的な秩序」が発達していけば「個人が高い地位をえることなど 平和を守ることにくらべればささいなことだ」という意識が人々に広まり平和につながるという(330~331ページ)。しかし、この本には「だがそれは、 まだずっと先のことだ。(331ページ)」とある。

日本のマスコミや現論人は「人間同士が争うのは道徳があるから」などといい道徳を否定することがおおい。しかし道徳を守っているとは思えない暴力団 が、組同士で抗争をおこなうという事実がある以上、道徳の否定が平和に通じるとはいえないだろう。やはり、人間同士が争うのは、道徳とは別の理由があるよ うにおもえる。暴力団の抗争は大概、縄張り争いであるが、そうなると、やはり人間が争う理由は権力欲、支配欲、だということになる。



(転載終了)

 

 

文明が発展する以前の人間の自然状態には二つの見解がある。


・一八世紀の思想家ルソーが述べた、富の格差が無く、身分制度もない自由で平等な原始共産制の社会。

・一九世紀のニーチェが述べた支配を志向する「力への意志」による戦争状態の社会


この二つの自然状態に対する見解はともに事実である。

内集団としての群れは、ルソーの述べる原始共産制の社会であった。
そこでは文明が発展していないために富の蓄積が殆ど出来ない状況にある。
当然ながら富の独占はできない(そんなことをすれば、他の者が飢えて死んでしまう)。
そのために、得た食料を皆で分け合う自由で平等な原始共産制の社会があった。


この内集団が外集団としての他の群れと対立すると、ニーチェの述べた力への意志
による戦争状態に突入する。

そして文明が出来て群れが巨大になると敗北した側が奴隷となり、それが
制度化され、身分制社会が創られた。


原始共産制の自由で平等な社会を志向する本性も、他者を奴隷におき支配しよう
とする力への意志への本性も、共に人間の自然性に根ざしたものだ。


イデオロギーなど持たず、自然性に任せていればうまくいく、という単純な性善説が
成り立たないのは、上記のアマゾン奥地に住むヤノマミ族などの現実をみれば明らかだろう。
(暴力によって30%が死んでいる社会)


文明のあるべき方向性は、人類の善をのばし、悪を抑えることにある。

ここでは、「他者を思いやる心」を善と定義し、「他者を支配しようとする心」を悪と定義する。


この定義からすれば原始共産制の自由で平等な社会を尊ぶ人間の善の本性を伸ば
し、他者を支配しようとする人間の悪の本性を抑える思想が必要になる。


論述してきてように、ニーチェの思想は、悪を伸ばし、善を抑える理論だ。

そのために悪のアイドルとしてニーチェは人気を保ってきた。


古くはナチズムによる力による支配の肯定、最近では市場原理主義や福祉切り捨て
などの弱者切り捨て、格差拡大の思想と融合してきた。


この悪の原理を克服するのが民主の原理なのである。


価値と共に、もう一つ触れるべきなのが「真理」についてである。

以下の文章では現代の真理の提供者であるマスコミによって市民の精神が
拘束されていることを糾弾している。




(以下ニーチェと少年犯罪についての一考察より転載開始)


リバタリアニズム=市場原理主義とは市場が国家にとって変わるという思想であり、市場競争 の勝利者たちが国家を越えた「権力者」になることを意味する。

今の日本でマスコミ業界で地位の高い人間(著名な作家、言論人や一流マスコミの記者。この文章中でのマスコミトップとは主にこういった人たちのことである)は市場競争の勝利者であり、彼らは国家を越えた「権力者」になろうとしているといえるだろう。

国家は「政治権力」といわれ、資本は「経済権力」といわれる。市場経済の発達した現代では、権力とは政治と必ずしも同一ではないのが現状である。このことは平凡社『世界大百科事典』9巻216ページ『権力』の項の大嶽秀夫のテクストで言及されている。

「権力は、政治権力、経済権力、社会権力(マス・メディア、大学など)、宗教権力などに区別される。(216ページ)」
「市場経済の発達とともに、政治と経済とが制度的に分離し、経済権力の獲得には、政治権力への接近は必要条件でもなければ、十分条件でもなくなった。(中 略)その結果、今日では、政治権力は一定程度の社会的名声や経済的富を伴いはするが、それ自体ではある程度以上の特権をもたらすものではなくなった。 (217ページ)」

このように、政治と経済とが制度的に分離した現代社会において、権力とは必ずしも政治的な力のみを指すものではない。マスメディアも社会権力という 一種の権力であり、しかもそれが一流のマスコミとなると経済権力としての性質も兼ね備えており(マスコミ自体が「売れてなんぼ」の世界なので)、二重の権 力をもってているといえるだろう。そして一流マスメディアに好意的に取り上げられて有名になった言論人も経済権力であり社会権力ということになるでしょう。有名人が現代の権力者であると分析する『有名人と権力』(勁草書房)という本もあるほどで、有名な言論人は日本社会の権力者なのである。

マスメディアが断続的に政界批判をやっている現状を見ると、今の日本や政界よりもマスメディアが強い力をもっていると言える。一流マスコミでバッシングされれば、政治家の政治生命は簡単に断つことができるからだ。

一流マスコミは、たまに財界の批判をやって「反権力」を気取っている。しかしこれは、異業種の「経済権力」を批判しているにすぎず、一流マスコミ業界自体が市場原理でうごく「経済権力」であるという事実を隠ぺいするためにおこなっているにずぎない。

日本マスコミは出版メディアが中心的であり、放送、映画、音楽はそれに追従している。ここでいう「経済権力」を持つマスコミとは主に出版メディアで ある。市場原理主義系の出版メディアで批判されたものは、間違いなく現代の日本ではドロップアウトさせられてしまうのだ。さらに、マスコミ業界は先に業界 内にいる人間たちが、自分達と考えの違う人間に仕事をまわさないようにして業界から追い出してしまうという異分子排除もあるようであり、多元主義とはほど 遠い。

マスコミはパターナリズム的に、市民のパーソナリティや市民生活のプライベートの部分に干渉する流行を次々にしかけた。そうやって市民を精神的に拘束しているのである。



転載終了)


資本主義(お金主義)と民主主義(言論の自由)が融合する自由民主制では、
圧倒的な宣伝能力を持つマスコミが、社会に「真理」という名の情報を与える役割を果たしている。


しかしこの真理なるものが、マスコミの支配者である金持ち達(国際銀行家)に
握られているのだ。

ロイター通信(ロスチャイルド系)、AP通信(ロックフェラー系)などの通信会社による
情報を日本のマスコミは仕入れて国民に向けて発信している。

マスコミの宣伝力をより有効に機能させるのが、価値相対主義の蔓延だ。

正義を否定する価値相対主義になると、明確な価値観が社会から消滅するため、
価値と真理の分裂が起こる。

人は価値を持つから、重要な情報とそうでない情報を判断できる。
価値がなければ、必要な情報の定義が無くなり自ら情報を取捨選択することが出来なくなる。

価値の消滅した社会では、真理はマスコミなどによって与えられるものとなる。

これが価値相対主義が蔓延する民主主義社会において、資本主義経済を支配する
お金の支配者が人々の精神を管理できる仕組みなのだ。






国際銀行家はニーチェの述べる「支配への意志」に突き動かされて、
この仕組みを作り出してきた。

価値相対主義による民主主義の原理の分裂と、市場原理主義による真理の
操作は連動しているのだ。


ナチスのように民主主義を否定する観点から民主主義の弱点を分析することは行われてきた。

そのためナチスの国際銀行家と自由民主制に対する批判は鋭く、本質をつくものもあり、多くの人の支持をえた。

しかし、ナチスの目指す方向性は、ニーチェの述べる力への意志であり、ゲルマン民族による世界支配であった。


民主主義の批判は民主主義を肯定する観点から行われなければ、非民主的なもの
にならざるをえないのだ。


まとめると、ニーチェ思想に対する評論記事を参考にして善悪、愛、正義、真理、
民主主義について分析してきた。


・人間の自然性について

ニーチェの思想→力への意志。支配への意志の称賛

ルソーの思想→性善説。

民主主義の思想→原罪説。人間が持つ悪を減じ、善を伸ばすイデオロギーの必要性。



・愛について(自然性を克服するためのイデオロギーの基盤になるもの)

ニーチェの思想→特定の愛の称賛。ナチズム(民族主義、国家主義)や市場原理主義など

民主主義の思想→人類愛


・正義について(愛から生まれる実践)

ニーチェの思想→特定の愛に基づく力への意志による他者の支配の実践

民主主義の思想→人類愛に基づく実践


・真理について

ニーチェの思想→価値相対主義に基づいた不明瞭な真理

民主主義の思想→人類愛に基づく価値(個人の尊厳の実現)からみた真理(現状認識)


・方向性について

ニーチェの思想→力への意志、支配者になることへの努力

民主主義の思想→誰もが支配されない社会の実現に向けての努力


以上で、反民主主義的なニーチェの思想から、民主主義の特徴を浮き彫りにすることができた。

対比するものがあると、両方の性質が明らかになる。


拝金主義、権威主義、カルト宗教、エゴイズム、国家主義、民族主義、などを
ニーチェ思想は「力への意志」と称して全て肯定する。

否定するのは、他者への思いやりをもった良心であり道徳である。これがリバタリアニズムの方向性だ。


民主主義は、上記の全てを「言論の自由、表現の自由、思想信条の自由」などから認める。

一方で、他者への思いやりをもった良心と道徳を最大限肯定する。これがリベラリズムの方向性だ。


つまり、言論の自由のある民主社会において、ニーチェ思想と民主主義は共存するが、向かう方向性は真逆なのだ。


国際銀行家による富の格差と金権政治はニーチェ思想の具体的な現れである。

我々市民は、民主主義に立脚し、真に自由で平等な支配者のいない社会を実現しなければならない。


そうするには、人間の悪の本性を減じ、善の本性を伸ばす健全なイデオロギーを持ち実践することだ。

そのイデオロギーとは「人格と民主主義の原理の融合」である。

(記事終了)

 

 

 

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