11月24日に行った第7回アニメレビュー勉強会の結果発表です。お題は『ねらわれた学園』。ゲストは大山くまおさんで行いました。発表は第1位~第3位と、「逆」を一番多く集めた「逆KING!」です。ちなみに「逆」というのは「これはヒドい」もしくは「これはヒドい(笑)」といった強いインパクトを残した原稿につけられるスペシャルな採点です。
第1位
原稿【12】/磯部正義/想定媒体:映画雑誌
(タイトル)
さらば青春の光
(本文)
さらば青春の光
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劇場アニメーション作品『ねらわれた学園』(2012年公開/監督:中村亮介)は、1973年に刊行された眉村卓の同名小説を原作としている。1981年に公開されヒットを飛ばした薬師丸ひろ子主演・大林宣彦監督による実写映画版をはじめ、幾度も映像化されたタイトルだ。
海辺の中学校にある日転校してきた謎めいた少年と、その日を境に少しずつ校内を覆いはじめる不穏な影……。よく知られた物語をいまいちど語り直すにあたって繰り広げられるのは、オリジナルのそれに大胆な翻案をほどこした独自のストーリーである。そこにはしかし、原作の内容を知っているファンならば「続編」として見ることも可能な布石(キャラクターの名前、劇中で語られる過去のエピソードなど)がそれとなく配されていて、本作はそうした愛情あふれる目くばせによって「『ねらわれた学園』であること」を――その大幅な改変にもかかわらず――踏襲したものになっている。
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「自分の気持ちが相手にうまく伝わらない」……。本作にはこの、普遍的といえる苦しみの只中にいる少年少女たちが、さまざまな立場で登場する。携帯電話をめぐるトラブルによって登校拒否となり、投身自殺を試みようとするまでに追い詰められた少女はいうまでもなく、その一件により学園内で持ち上がった、携帯電話の持ち込みをめぐる生徒たちのかまびすしいやりとりは、本作の目線のありかがどこにあるかを示すものだ。だからこそ「テレパシー」というダイレクトなコミュニケーション能力は、生徒たちに対する甘美な罠として勢力を拡大しはじめる。そして、そのたくらみと戦おうとする主人公たちもまた「自分の気持ちが相手にうまく伝わらない」という苦悩を抱えている。ナツキは幼馴染のケンジに対する恋心を打ち明けられずにいるし、ケンジはそんなナツキの挙動がどうしても理解できない。……そしてそんな二人を描く語り口のあまりの過剰さが、この映画の大きな魅力のひとつとなっているのだ。
幼馴染であるケンジの無神経な言動に腹を立てたナツキがおみまいする、軽い怒りの表現といったものを大きく逸脱した、殺傷能力の高そうな平手打ち。いっぽうのケンジはケンジで、口をきこうとしない隣家の幼なじみを呼びだそうと、彼女の住む隣家の窓ガラスに向けて空気銃で放った木の実はガンスモークを発しながら彼女の部屋の窓硝子を破壊し、射殺したのではと見まごうほどの勢いで部屋のあるじに命中する。
そしてそんな登場人物たちの常軌を逸したふるまいに負けじと、その周囲をいろどる世界もまた、一貫して過剰な語り口で描写されている。映画が始まるやいなや、ひとひら舞ったかとおもいきやみるみる画面いっぱいにしきつめられていく桜の花片。あるいは物語中盤、悪意とともに境内をおおいつくすまでに増殖するシャボン玉……。本作を強烈に印象付けるこれらの過剰さは、たんなる〈劇場版にふさわしいリッチな描写〉という域をこえた、明確な意図に満ちている。その最たるものが、本作を通底して支えている「光」へのこだわりだ。桜の木漏れ日の光、校内に差しこむ光、ペンシルをくるりと回す瞬間に反射する光、時を司るクリスタル状のアイテムが放つ光……海辺で、灯台で、散歩途中の田舎道で、光は執拗に描写される。劇中で何度も演奏されるピアノ独奏曲のタイトルは"月の光"(ドビュッシー作曲『ベルガマスク組曲』(1890)の中の一曲)。それは未来から来た京極リョウイチにとって、もっとも切実な動機を形作る「光」でもある。画面において、また主題において、この映画は光に満ちているのだ。
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「ほんとうに伝えたい想いのない気持ちが、相手に伝わるわけないじゃん!
ほんとうに知りたい想いのない人に、相手の気持ちが解るわけない。携帯なんて関係ない、テレパシーも関係ないよ!」。テレパシー能力に目覚めた生徒たち首謀のもと、カンガルー・コートよろしく吊し上げをくらう中でナツキはそう叫ぶ。他人とのコミュニケートに失敗することが、どれほどむごく人の心を切り裂くか。しかし、その不安を打ち消してくれそうな安易さにとびつくのではなく、不安の存在を否定するのでもなく、その不安から逃げないこと。ナツキの口にしたのはたぶんそういう決意で、そしてその決意は、誰しもがその過酷さを引き受け、下すしかないような決意だ。
過剰で執拗な光の描写により、あまねく光が差しこむこの映画の世界はとてもまぶしい。このまぶしさは、あるいは作り手が若い彼や彼女らに向けて込めた、エールであるのかもしれない。思春期に遭遇した過酷さや決意や、冒険や恋や傷心や未来が、このまぶしい光のもとにあってほしいというエールであるのかもしれない。だとするなら、この映画に感情移入することは、そのエールを共有することでもあるはずだ。
第2位
原稿【33】/大山くまお/想定媒体:cakes
中村亮介監督のアニメーション映画『ねらわれた学園』で、まず観客の目に飛び込んでくるのは、大量に舞い散る鮮やかな桜吹雪だ。桜の花びらは、主人公たちが教室にいようが、電車の中にいようが、いつ何時でも降り注ぎ続ける。
それだけではない。常に画面を覆うレンズフレア、夕日を浴びて七色の光を放つステンドグラス、「砂時計」から溢れだす光の奔流、必要以上に星が瞬きすぎる夜空、そして世界を覆い尽くさんとばかりに輝くたくさんの花火……。過剰で大仰でロマンチック。それがこの映画のファーストインプレッションだ。
同時に、筆者はこんなことを考えていた。大林宣彦が今、アニメーションを自由に操ることができたとしたら、こんな作品を作るんじゃないだろうか? と。
ここで、もう一度『ねらわれた学園』という作品について整理しておこう。
原作は1973年に刊行された眉村卓のジュブナイルSF小説。過去に何度も映像化されているが、1981年に大林宣彦監督、薬師丸ひろ子主演によって映画化されたものがもっとも有名だろう。大林監督はその後、若手女優を起用した青春SF映画というジャンルを築きあげた。代表作に原田知世主演『時をかける少女』(83年)などがある。
主人公の少年少女たちが通う学園を、超能力者である未来人・京極が生徒会を操って支配しようとするが、主人公たちの抵抗に遭って撤退する――。『ねらわれた学園』の大まかな物語は、原作も大林版も中村版も変わっていない。ただし、中村版はSF色・サスペンス色が大幅に薄められており、思春期を迎えた中学生のナツキ、ケンジ、カホリ、そして謎の転校生・京極との恋愛や友情を描くことを主眼にしている。
冒頭で触れた中村版『ねらわれた学園』を覆う画面全体のキラキラ感は、CM出身で“映像の魔術師”と称された大林監督の作品世界を思い起こさせる。実際、大林版『ねらわれた学園』の画面は、当時としては異例なほどカラフルな光学処理が施されていた。
今思えば、大林版『ねらわれた学園』は、どうにも気恥ずかしい映画だった。キッチュでカラフルな画面はもとより、ヒロイン相手に「私は宇宙!」と大見得を切る京極など、登場人物のオーバーアクションやポエム風のセリフ回しなどは、公開当時から見る者をモジモジさせていた。
これらの要素は、よりスタイリッシュになったとはいえ、中村版にも共通している要素だ。いついかなる時でも吹き込んでくる桜吹雪や、ナツキの桁外れの身体能力、なにかと吹っ飛ぶケンジのアクションなどは、いわゆる“リアルさ”からはかけ離れている。
中村監督は光の使い方などで「登場人物たちの心象を描きたかった」と語っている。リアルさから離れたキラキラした画面は、そのままケンジたちのキラキラした青春を表しているのだ。しかし、思春期の頃のキラキラさ加減は、直視しようとすると気恥ずかしいもの。大林版が、まさにそういう映画だった。中村監督は、それをアニメーションの技術を使って実現しようとしているように見える。
中村版『ねらわれた学園』のテーマは、コミュニケーションだ。
携帯電話どころか、言葉で説明しようとしてもなかなか伝わらないことが、言葉以外の部分――たとえば手をつないだり、抱きしめたり、キスをすること――で、つながっていく。それがこの映画での中村監督によるメッセージだろう。映画そのものからも、説明は極力排されている。
また、京極は未来からやってきた存在でありながら、カホリと思いを交わす。ナツキとケンジは生と死を交錯させつつ、気持ちを通じ合わせていく。時を隔てた者同士、あるいは生死を隔てた者同士でさえも、人と人はつながることができるということを描いているのも見逃せない。
「いてほしいと思う誰かがいるから、俺もお前もこの世界にいるんじゃないのか」――物語の最後でケンジが京極に語りかける言葉だ。
そして、これは大林監督が多くの作品を通じて語っていたテーマでもある。
未来と現在のボーイ・ミーツ・ガールである『ねらわれた学園』、『時をかける少女』をはじめ、壮年の男性が子供の頃に死んだ両親と交流する『異人たちの夏』(88年)、死別した姉が妹に寄り添うファンタジー『ふたり』(91年)、最新作『この空の花―長岡花火物語』(12年)は現代の人々が花火によって戦争での死者たちを鎮魂する物語だ。いずれも時を隔て、生死を隔てた人々同士の絆を描いた作品である。
中村監督がどれほど大林監督のことを意識して作品をつくりあげていったのか、インタビューなどでの言及が少ないので、正確なことはわからない。一方、大林監督は、中村監督にこうエールを贈っている。
「僕が昔、実現を願っていた、映画の夢の断片が、今、若い才能によって、未来の映画としてよみがえった」。
やはり、大林監督はこういう映画が作りたかったのだろう。中村監督が、新しいジュブナイルSF映画の巨匠になる日も、近いのかもしれない。
第3位
原稿【21】/Y.O./想定媒体:映画雑誌のアニメ特集号
(タイトル)
※なし※
(本文)
春河さんはなぜあんなにぽかんとした顔で、ラストシーンを迎えなければならなかったのか。転校生の制服をまとうのが、ぼんやりと記憶しているような気がするあの人ではないからか。
春河さんは、優等生の正統派美少女。ヒロインのスポーツ少女、ナツキと対照的に描かれる。主人公、ケンジは春河さんが好き。それが不満なナツキは春河さんを見つめるケンジをはたいたり殴ったりする。春河さんはいつもその息の合ったやりとりを羨ましそうに、また、あたたかく見守っている。ケンジが発言しかけた瞬間にナツキのハリセンが飛び、春河さんがくすくす笑う描写が繰り返される。二人を見守るまなざしは応援でもあり、あこがれでもあるのだ。
だから恋に恋する少女が謎の転校生、京極にひと目ぼれしても不思議はない。目で追っているのを本人に気づかれ、視線を返されて、飛び上がって狼狽する。驚きのあまり飛び上がるアクションはこの後何度か繰り返される。
音楽室から春河さんの進度ではちょっと難しい『月の光』が流れてくる。階段を登ると弾いていたのは京極だった。驚愕しつつこっそり聴き入りながら、気になっていた人をはっきり好きだと自覚したことの幸福と、奏でられる音に浸る愉悦がないまぜになる。こんなにすてきな特技もある人で、それを私だけが知っていて、好きになってしまったのだという事実。片思いのもっとも幸福な瞬間だ。髪から耳がのぞき、毛束から離れた数本の髪が乱れ、口元がうっすら開く。優等生然としたきりっとした姿よりも、鄙びた感じに見える忘我の境地だ。
「好きなんだ」という言葉に極端に反応し、あとに続くのが人名でなかったことに安堵する。好きな人が発する「好き」の持つ意味の大きさ。その後「好きなんだ、月が」を回想するとき、またも忘我の表情になる。「彼は月が好きなのだ」という自分だけが知り得た秘密を改めて胸に刻む。本人になりかわってその言葉をなぞり、一体化するかのように錯覚する。自分が聞いたときの驚きと安堵を再現し反芻する。ありうるかもしれない、自分に対しての好き、の予言のように口にする。もしもそう言われたら、と空想を導く。春河さんの声のなかに現在、過去、未来の複数の声が交じり合い反響している。姿がなくて落胆していたら、楽譜を持って現れた京極に、『月の光』をいつか聞かせてほしいと言われて、その約束の甘美さにうっとりするシーンを含め、一連の片思いの幸福感を描く場面は、春河さんのもっとも印象的な表情を露呈させ、ナツキの片思いによる不機嫌顔と好対照をなす。
生徒会の専横を見かねて、直談判に来た春河さんに正体を明かし、自分は魔法をかけにきた妖精のようなものだと言って、キスをし、妖精だって恋をすることがあると思うよ、そんな物語なかったっけ、それとも自分の魔法が自分にかかってしまったのかな、と告白する京極。謎めいたな王子様にあこがれていた少女の夢をあっさりかなえてしまうかに見える台詞が、虚構的に響くのには重要な意味がある。京極はテレパシーが通じない相手に、気持ちを伝えるのに知ったばかりの演劇の様式性を借りて、その枠のなかで今という瞬間を演じきったのか。それとも「夢なら覚めなくてもいい」と本人が言うように、本当に夢、空想なのか。
片思いは甘美だが、相愛はある意味面倒で退屈なものだ。自分ひとりの幸福な妄想からひきはがされて、他者に向き合わなくてはならない。好きな人が自分を好きだという事実は嬉しいはずなのに、軽い幻滅と畏怖と、語られた正体への驚愕と、得た瞬間に失うことがわかってしまった恋の残酷さが一度に押し寄せ、髪は乱れ、春河さんはおよそ美しいとはいえない表情で茫然自失する。
海水浴の終盤、京極は魔法が解ければ恋も忘却されると予告して、別れを告げる。このときありたけの勇気をふり絞って、春河さんは差し出された手を握り返さず、身体に飛び込んでいく。誰かの台詞の引用や譬え話でなく、はっきりあなたが好きと言うのは実は春河さんだけだ。しかしあなたは目を覚ますというマジシャンや京極自身の予言どおり春河さんは記憶を失う。ナツキが持つアリアドネの糸電話はない。ケンジはナツキに行こう、(自転車に)乗ってよと誘うが、京極は春河さんを連れて行けない。ナツキは待っていてと頼まれるが、春河さんは待つこともできない。ナツキはケンジを思い出し、ケンジはすべてを覚えている。ラストシーンでは春河さんだけが蚊帳の外で、ぽかんとしているのだ。人生のある時点で、人は自分のためだけの物語を夢見ることもある、しかし夢は夢でしかないという話だと読み替えることもできるだろう。しかし春河さんの恋の顛末が全部空想だったとして、どうして悪いことがあるだろうか。観客は春河さんが確かに輝いた瞬間を知っていて、それを記憶するのだから。
逆KING!
原稿【29】/磯村智典/想定媒体:渡辺麻友オフィシャルブログ ? AKB48 TeamOgi Blog
(タイトル)
アニメ映画『ねらわれた学園』
(本文)
こんばんは!まゆゆです。
アニメ映画の『ねらわれた学園』、見てくださいましたか~??
『ねらわれた学園』というと、大林宣彦監督の角川映画が有名かもしれませんね。原作は73年に刊行され、映画は81年に公開されました。
その後も何度か映像化されたのですが、今回は、初のアニメ化なんですよ。
監督は中村亮介さんで、京極夏彦さんの長編小説を原作にした『魍魎の匣』だったり、青い文学シリーズでは、太宰治さんの『走れメロス』を監督された方です。
今回、初めてお会いしたのですが、ものすごく本がお好きな方で、永遠の文学少年といった感じの素敵なお兄さんでしたよ*(op´∀`q◎)。:゚
それで、どんなお話なのかといいますと、主人公のケンジくんは、クラスメイトのカホリさんのことが気になっているのですが、幼なじみのナツキは、そんなケンジくんのことが気になっています。そこに、謎めいた転校生がやってきて…、という青春の甘酸っぱい恋模様がすごくリアルで、キュンとする作品です♪
理想の初恋とか妄想することってたまにあって、今までは、相手が王子様とか、貴族とか、お城が出てくるような極端なのがいいなぁ、って思っていたんだけれど、今回、演じてみて、どこにでもあるような普通の学園生活での恋もいいなと思いました。
ちなみに、私が演じるナツキは、とっても活発で元気な子。運動神経が抜群!
私は運動が苦手なのですが、声だけでも、そこに近づけるように頑張りましたよ┗(`・∀・´●)
今までにもTVアニメでは、『クレヨンしんちゃん』を初め、『AKB0048』など、何度か声優のお仕事をさせていただいてきましたが、今回は劇場版アニメということで、お仕事が決まったときはとてもうれしかったです。
でも、同時にプレッシャーも物凄くあったから、移動中の合間にも、時間があればアフレコの練習をして、家ではお母さんに練習相手になってもらったりもしました。
お母さんが演じるケンジくん、とても絶品だったんですよヾ(@⌒ー⌒@)ノ
でも、演じたナツキは、喜怒哀楽がいろんな場面にあって、それを声だけで表現するのは、ホント、難しかったです。
監督さんには、変に作り込まず、自然に演じて欲しいと言われたので、なるべく自然に台詞を喋れるように心がけました。
それで、アフレコが終わって、完成したこの映画を見たときは、映像が綺麗ですごいなと思いました゚+。*・。゚(゚ノД`゚)゚。・*。+゚
きっとみなさんも、見たら驚くと思いますよ♪
だから、みんな、見てねー!
よろぴこっ
まゆゆより
※補足 磯村さんは、ブログや各種インタビューでの発言のコラージュで書いたそうです