「わりぃ、もうお腹いっぱいかも…」

 箸を置きながら彼が言う。

 仕事の関係で夜に家を空けがちな親に内緒で、私たちはほぼ毎日一緒に夜ご飯を食べていた。毎日私が献立を考えて、スーパーに食材を一緒に買いに行き、彼がゲームをしている間に作ってあげるのが日課だった。ちょっとした新婚生活だ。

「味、合わなかった? 苦手だった?」

 私が申し訳なさそうに聞くと、彼は慌てて首を振る。

「すげー美味いよ。本当、料理上手だよな。でも最近、夏バテのせいか全然食欲がなくて…わりぃ…」

「そっか、じゃあ明日はしっかりスタミナがつきそうなご飯にするねっ」

 私が言ったのを聞いたのか聞いていないのか、彼はどこか心ここにあらずといった表情のままテレビの前に寝転んでしまった。

 最近、そんなことが増えた。毎日毎日一緒にいるから、マンネリなのかと不安にもなったが、それとはどうも違うのだ。明らかに彼の元気がない。

「ねぇ…」

「…どした?」

 ワンテンポ遅れた返事と共に彼が振り返る。私の不安は頂点に達した。

「最近おかしいよ。何かあったの?」

 はっとしたような表情をする彼。だが、それも一瞬のこと。いつもの柔らかい表情に戻って言う。

「なんでもないよ。ごめんな」

「なんでもなくないよ」

 言い終わるか言い終わらないかのタイミングで彼の言葉を遮る。口を噤んでいる彼に対して、ついつい感傷的になってしまったのだ。かつて感じたことのないぐらい、距離を感じる。

「思ってることがあったら言ってよ! 絶対おかしいじゃん、出会ったころと違うじゃん」

「ごめん…」

 一旦火がついた不満は止まらなかった。次から次へと、彼を責める言葉が出てきてしまう。

 彼を失いたくない。変わらずずっと大好きだ。この幸せが続いてほしい。

 その気持ちが、逆に私を焦らせる。感情的になるなんて嫌われるとわかっているはずなのに、なぜか止まらなかった。

「何も話してくれない。付き合ってるのに、おかしいよこんなの。毎日一緒にいるのに、どうしてこんなに距離を感じるの…」

「わりぃ、心配かけて。…ちょっと体調悪いかも。今日は帰るわ」

「えっ…ごめん、ちょっと待ってよ…」

 そそくさと帰り始める彼を追いかけて慌てて私も家を出る。怒らせてしまったのだろうか。彼の寂しげな後姿からは、怒りの感情は感じられなかった。しかし、そんなに私に言えないことがあるのだろうか。

 いつも出かけるときは繋いでくれていた手もポケットの中。街灯も少ない住宅街、生ぬるい夏の夜を二人で無言で歩いていく。お互い思うことはあれど、言葉にするきっかけを失ってしまったような、そんな感覚だ。

「さっきは、ごめんね…」

「…いや、いいんだよ。さびしい思いさせてごめん」

 彼も素直に謝ってくれた。それでも、やはり事情を話してはくれない。彼はいったい何を一人で抱え込んでいるのだろうか。

「信じるって決めたから…だから…あのね、よろしくね」

 足を止めて、私は彼に言った。精一杯の強がりだ。信じることしかできないなら、私は彼を信じよう。

「ごめん…」

 彼がそう言いながら抱きしめた、瞬間だった。

 チャリン、と鈴の音とタイヤの滑る音。

「危ない」

 夜道の向こうから自転車が来たのを見て、彼が私を抱き寄せてくれた…筈だった。

 ドサッ。私を守ろうとして、不意に左右のバランスを外した彼が倒れ込む。

「危ないっ」

 キキーッ。ブレーキを踏んで急停止する音が閑静な住宅街に響くと、自転車が彼を大きく迂回する形で通り過ぎて行った。危ねぇよ、なんて言いながら自転車の主は夜道に吸い込まれていく。

「どうしたの? 大丈夫?」

「痛っ…よろけちゃったよ、ごめんな。気にしないで」

 そう軽く言いながら立ち上がろうとしたものの、また足がふらつく。必死で誤魔化していたが、私は気づいてしまった。

 不安は確信に変わった。彼は、私に隠し事をしている…。食欲がなかったり、何もないところで何度も躓いたり。

 彼がいなくなってしまうのではないか。不安で不安で、涙が溢れるのを止められなかった。

「ねぇ…どうしたの…不安だよ…」

 泣き出した私を見て、いたたまれないような顔をしながら抱きしめる彼。

「大丈夫、大丈夫だから…」

 まるで自分に言い聞かせるように、彼は何度もうわごとのように繰り返した。何度も何度も、私を強く抱きしめながら。

 脳裏にあの海の日が蘇った。さめざめと泣きだす私と、何も言わず私をただただ抱き寄せる彼を、もうすぐ秋を迎えようとする月夜が照らしていた。