りゃんさん のコメント
このコメントは以下の記事についています
江戸時代「番町で目明き盲に道を聞き」とい川柳がありました。ここで「盲」と言われたのは塙保己一です。この塙保己一は『群書類従』刊行を行う大事業を成し遂げています。「道を聞き」は道路案内だけでなく、学問の道をも意味しています。
かつて「千代田区三番町 24 には、「塙保己一和学講談所跡」の標識がありました。
しかし、もし、この標識が「この地にて、明治初代首相伊藤博文が幕末、塙保己一の息子
塙忠宝を暗殺」となると、訪れる人もあるのでないでしょうか。
「坂下門外の変」に関連して、伊藤博文は一段と過激な行動をとりました。
すでに「坂下門外の変」に関与した人々が、「斬奸趣意書」を書いたことを死崩壊しました。この中に、「天子之御讓位を奉釀候心底ニテ既ニ和學者共へ申付廢帝之古例ヲ調候」という記述があります。つまり、幕府は、孝明天皇を廃位させるために、学者に故事調べさせたと指摘されてます
そのときに理論的支柱になったのが、いわゆる大攘夷論、すなわち、国内分裂を回避し、
富国強兵をはかり、列強と対等に対峙する力をつけることを優先するという考え方ですね。
伊藤自身も1863年から英国に渡航し、かの文明をみて、開国論に転向し、やがて近代化と富国強兵の一翼を担うようになります。それでも、日本が関税自主権を回復したのは、なんと1911年でした。
いまふりかえると、攘夷をつらぬかなくて本当に良かったと思います。薩英戦争、下関戦争のような戦争が全国各地に広がれば、その結果日本は簡単に英米仏等の植民地になってしまい、そこから回復するのに塗炭の苦しみがあったことでしょう。ひょっとしたらアジアに今現在でもまだ欧米の古いスタイルの植民地が残っていたかもしれません。(中国の植民地はまだ残っていますが)。
将来攘夷の結果を得るために、いま攘夷をしない、というこの考え方は、いまの日本にもおおいに参考になるとわたしはおもいます。米国のもたらした平和のなかで、ゲンパツのデンキを日本史上最大にくらいまくりながら生きてきて、いま、口先だけの反米反原発をほざいている爺さんたちには、それがわからないのでしょう。
なお、伊藤が韓国併合をすすめていたと勘違いしている馬鹿がときどきいますが、はなしは逆で、伊藤は、朝鮮のような貧乏国をできるだけ併合したくないと考えていたのです。
ところで、伊藤と同じ頃を生きて、思想としての攘夷をつらぬいた朝鮮の政治家・思想家に崔益鉉という人がいます。この人は、朝鮮が無力に右往左往し、時には浅はかな政治工作にかまけていたがゆえに、かえって個人としては思想の純粋さを貫けたという、まことに朝鮮の思想家らしい人です。その生き方を知れば、一種の感動を感じはしますが、日本がそういう人を生み出す国でなくて本当に良かったと思います。
Post