Dr.Uさん のコメント
このコメントは以下の記事についています
号外 2020.12.29発行 【目次】
1. ゴーマニズム宣言・第403回「戦中の老人、戦後の老人」
2. 泉美木蘭のトンデモ見聞録・第197回「“PCRを拡大すべき”の欺瞞を問い質す」
第403回「戦中の老人、戦後の老人」 『コロナ論2』は早くも2度の増刷がかかり、順調に売れている。
それと同時に、前作の時をはるかに上回るバッシングが巻き起こっている。「批判」と「バッシング」は違う。「批判」は本を読んだ上で、間違いを指摘したり、根本的な思想(ウイルスは進化の要素)(死生観)などの再考を迫るものだ。
「バッシング」は読みもしないで一コマを抽出して、曲解を拡散したり、「権威主義」で、漫画家だからダメとか、専門家じゃないからダメという「偏見」で断罪する姿勢である。
今のところ、「批判」に値するものはなく、「バッシング」しかないというのが、コロナ脳の非科学性を証明している。
しかし、そのバッシングの質が、興味深いことに、現代日本人の病理を如実に炙り出しているのだから、無視もできない。
バッシングの中でよくある言い回しに、 「小林だって、基礎疾患のある高齢者じゃないか!」 というのがある。
そう言われても、わしとしては 「ええ、その通りですが、それが何か?」 としか言いようがない。
この文句の主は「高齢者」なのだろうか?高齢者なら、 「自分は高齢者だから怖い。小林よしのりだって高齢者じゃないか!しかも喘息という基礎疾患があるくせに!」 と言ってることになる。
それなら 「おまえはお化け屋敷を恐がってる老人に過ぎない。わしは知性ある老人だから、幻想に怯えるより、この世の快楽を求める方がいいんだよ。」 と言ってやるしかない。
さらに 「恐いなら、おまえが自宅に閉じ籠っていろ!若者や子供を巻き込むな!」 とも言ってやりたい。
だが、どうやら 「高齢者なら怯えるべし」 というバッシングは、必ずしも老人が言ってるわけでもなく、わしより若い連中までが言ってるらしいのだ。
自分が怖いなら、そう言うべきであって、「敬老精神」で言ってるふりをするのは偽善であり、卑怯である。
来年1月1日午後1時に放送される、藤井聡氏の番組『東京ホンマもん教室SP』(TOKYO MXテレビ/スマホアプリ・Webサイト 「エムキャス」 でもリアルタイム配信)の収録で、わしがこの1年、喘息が収まらなくて大変だったと言うと、藤井氏は 「小林さんは基礎疾患があって高齢者じゃないですか。もろ被さっているじゃないですか。それでこういう意見を言っているわけでしょ」 と言った。
コロナに罹ったら重症化して死に至るかもしれない条件をもろに被っているにもかかわらず、それでもコロナは怖くない、コロナ恐怖は嘘だと言っていることを、恐怖感に囚われない、勇気のある態度だとして評価しているのだ。
普通はそんなふうに、好意的に捉えてくれるものと思っていたのだが、 「小林も基礎疾患のある高齢者じゃないか」 とさえ言えば、わしに最大の打撃を与えられると思い込んでいる者がいるのだ。それもかなり多数。
これは一体どういうことなのだろうか?
要するに、こんなことを言ってくる者は、 「誰だって自分の命が一番大切なはずだ」 と信じ切っていて、それを絶対的な前提として、一切疑ってもいないのである!
だから 「命よりも尊い価値がある」 ということが全く理解できないし、ましてや、世の中には 「自分の命よりも優先すべきことがある」 という価値観を持って生きている者が本当にいるということなど、想像すらできないのだ。
そんなわけで、小林よしのりだって本当は自分の命が惜しいはずで、もともとコロナが重症化する危険性が高いんだから、もしも感染したらきっと取り乱して泣き叫ぶに違いないと、勝手に決めつけているのである。
だから、 「お前だって基礎疾患持ちの高齢者じゃないか!」 とさえ言えば、ものすごい攻撃をしたような気になれるというわけだ。
常識を見失い、堕落し劣化した日本の言論状況に闘いを挑む!『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりのブログマガジン。小林よしのりが注目する時事問題を通じて、誰も考えつかない視点から物事の本質に斬り込む「ゴーマニズム宣言」と作家・泉美木蘭さんが圧倒的な分析力と調査能力を駆使する「泉美木蘭のトンデモ見聞録」で、マスメディアが決して報じない真実が見えてくる! さらには『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成させる大喜利企画「しゃべらせてクリ!」、硬軟問わず疑問・質問に答える「Q&Aコーナー」と読者参加企画も充実。毎週読み応え十分でお届けします!
rockyさま
先ほど、西浦博氏が山中伸弥氏とネットで対談する動画や、プレスの前で自らの理論を説明する動画などを見ました。そこで感じたのは、彼は良くも悪くも、大学の研究者らしい人間だなということでした。
機械をいじることが大好きだった少年が、大学では医学部に入り、やがて感染症・疫病の研究者の道を志すようになり、国内外の有名な大学院で学ぶ。30歳を前にして博士となり、東京大学の研究者となり、その後、北海道大学では教授に就任する。
つまり西浦氏は、子供のころから勉強がよくできて、人生の大半を学校の建物の中で過ごし、大学関係者という特殊な人々の間で生活し、そこで論文を書いたり研究発表をしたりすることで、他者の承認を受け、自己を確立するという、世間一般の人々とは少し異なった人生を送ってきた人間だということです。
大学の研究者も様々でしょうが、西浦氏について言えば、この人は大学という世界の外では生きていけないタイプの人間のような気がします。そんな彼が、クラスター対策班の中心メンバーになりました。そこで彼に出来ること、彼に望まれていることは、ウイルスの流行の仕組みを明らかにする「数理モデル」を構築して、感染拡大の防止をはかるというプロジェクトの、中核を担うことでした。
そのとき、40代前半の気鋭の研究者として、この任務を全うすることは自らの存在を証明することだという意気込みを、彼は持ったのではないでしょうか。そうである以上は、このプロジェクトは必ず実現しなければならない。彼の「数理モデル」を基に構築されたプログラムが、人やモノを大きく動かし、それにより感染が収束するというプロセスが、機能しなければならない。
2月から4月上旬くらいまでは、状況は(彼にとって)望ましい方向に進みました。この間、感染は拡大し続け、彼は自らのプロジェクトの実現に全力を傾けることができました。そしてついに、4月15日、あの「接触8割減ができなければ42万人が死ぬ」という衝撃的な《予言》を、世に公表するに至ったのでした。
このときが、彼のプロジェクトの――もしかしたら彼の人生の――最高潮だったのかもしれません。なぜなら、この数日後には、彼はある重要な情報を知らされることになるからです。それは《いわゆる第一波は(本格的な対策を打つ前の)3月末にピークアウトしていた》という情報です。西浦氏は焦ったはずです。なぜなら、それが本当なら、彼のプロジェクトは存在意義を一挙に失ってしまうからです。
このとき、西浦氏には二つの選択肢がありました。一つは自らの《予言》が外れたことを認め、コロナに対しては例年のインフルエンザ並みの感染対策で十分であると、公にアナウンスすること。もう一つは、この情報を積極的に表に出すことはせず、様々なもっともらしい理由をつけて、強力な感染対策は継続されなければならないと主張し続けること。彼が選んだのは、後者でした。
西浦氏は、おそらく、その人生において《経世済民》という言葉を使ったことはないと思われますし、その深い意味を考えたこともないはずです。彼は、研究者として評価されること以外に、自らの社会的価値を確認することが出来ない人間だと思われます。だから、コロナはインフルエンザ並みの病気であるとは、うすうす感じてはいても、決して口にすることができない。それを口にすれば、今、自分が上っている華々しい舞台から、降りなければならない。ここでフェードアウトしてしまうと、人々は、自分のことを役立たずの人間だとみなすかもしれない。
…ここまで書いてみて、さすがに想像力を働かせすぎてしまったような気もします。しかし、大枠では、事情はだいたいこんな感じだったのでないでしょうか。
ちなみに、西浦氏と山中伸弥氏との7月10日のネット対談を見ていて、一つ、興味深いシーンがありました。山中氏は例の《42万死亡説》について、次のように言っています。世の人々はこの予測が大きく外れたことで西浦氏を強く非難しているが、しかしこれは不当である。なぜなら「そうならないのは当たり前で、何も対策をとらないのが前提ですから」(動画・7:53ころ)。これに対して西浦氏は、《はい、本当に困ったものです》と言わんばかりの苦笑いのような表情で応じています。実際、このような釈明は西浦氏自身も行っていて、例えば6月9日の『ニューズウイーク日本版』では、42万死亡説は「非現実的なシナリオ」であり、一種の「極論」であると述べています。
さてところが、話がその後で、いわゆる《ファクターX》の話になったとき、様子が少し変わります。そこで西浦氏は、たとえ《ファクターX》なるものが存在しようとも、これからも「何万人、何十万人という被害は、日本でも十分に想定されうる」と、強い口調で主張しているのです(動画・11:50ころ)。
これはどういうことなのでしょう。自らの42万死亡説について、かたや、それは「非現実的なシナリオ」だと自ら認めておきながら、かたや、顔色を変えて「それは十分に想定されうる」ことだと力説する。私はここに西浦博という人物が抱えている、ぬきさしならぬジレンマ、あるいは精神の分裂のようなものを見出します。
自らの《予言》が当たらなかったことに対しては、それはあくまでもサイエンスの次元での話だと自己弁護しつつも、もしその一方で、本当に42万人も死ぬということは「非現実的」であると言いすぎたら、どういうことになるか。それが可能性としてはあるにはあるが、実質的にゼロ%に近い数字の可能性であることを明確に認めてしまったら、つまるところ、多大な社会的コストをかけて彼の壮大な《プロジェクト》を実施することの大義名分が、失われてしまうのです。このようなジレンマに、西浦氏は今も苦しんでいるのではないでしょうか。
rockyさま、以上が、私が西浦氏の精神状態について考えるところです。貴兄は、彼の言動が「殺人犯の供述」に似ているとおっしゃいました。そうですね…、彼は決して、周りの人に暴力をふるうような人間ではないと思います。たぶん、彼は、同僚として先生として家庭人として、いい人です。しかし、正当化できないものを無理やり正当化しようとしているという意味では、その精神状態は、殺人犯のそれと似ているのかもしれません。
以上、ウサギでした。
蛇足・もし彼に《経世済民》の考えがあったならば、確固とした《公》の感覚を自らの内に養っていたならば、日本社会は今のような惨状を呈することはなかったかもしれません。
*西浦氏と山中氏のネット対談動画/https://www.youtube.com/watch?v=5dmWnpLwaKA&t=1923s&ab_channel=potato%26tea
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