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菊地成孔さん のコメント

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菊地成孔
>>7

 僕的には「戦争」は基本的に、個人的な闘争ではなく、小は集団的闘争、中は国家間戦争、大は世界大戦の事を指しています。国家間戦争は古代より現代まで、いろいろ形を変えて続いていますが、20世紀に核兵器が使用されて以来、方法論的には最終戦争(極大戦争)の形が決定しているので、語義の範疇を最大に取れば、二次大戦以降の全ての戦争はオルタナだということになりますが、ご指摘の、経済形式的な対立、宗教的対立、人種的対立等々は、戦争のオルタナティヴというよりは、戦争の原因なので、戦争視はしていません。

 僕がアルターウォーと考えるのは、新種の実質的な戦争のことで、個人的な闘争とは異なりますが、具体的な姿は、まだわかりません。日記中にある「平和ボケ」というのは、我が国が、二次大戦以降、国家間戦争に巻き込まれなかった、という具体的な事実に加え、過去、一億総中流とか一億総白痴化とか言われた、貧富格差の少ない社会によってもたらされる、日常的な危機意識の低下の事で、現在、日本は平和ボケから脱したなあ。と思った。という内容です。

 ウィルスとの「闘い」それ自体が、アルターウォーだとはあまり思いません。戦前から戦中にかけて現れる蝶子の多くが出ているとはいえ、現状ではまだまだ「個人的闘争」である側面が強いと思っています(コロナによって健康面でも経済面でも上向いた。という人々もいる状況ですし)。ただ、今「仕事をし、子育てをし、寝食する以外は、コロナの情報と、それ以外の情報、という2ウエイの情報、あるいは最悪、コロナの情報だけを採る=1ウエイ情報と生活行為のみの日々」という市民も多いと思います。日常的思弁のほとんどがコロナに関することになってしまっている市民も数多いでしょう。この状態と「闘う」という道は茨の道だと思いますが、この状況から「逃げる」のは、絹の道とは言いませんが、平板な道程度には有効だと思います。

 昔から「現実逃避」という言葉があ理、これも人間の重要な属性ですが、「逃避」というのは、何か別の場所に安住するようなイメージがありますよね。僕は「逃走」つまりランニングアウェイが良いと思います(自転車はダメ笑)。

No.8
41ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 今、睡眠導入剤を貰いに&ドクターと世間話をするために、精神科に来ており、順番待ちでこれを書いている。同じく順番待ちをしている患者さんたちは、街に出ても、全く目立たないだろう。    先日、コメ欄のアンサーに書いたが、それこそ4~50年前から日本は「平和ボケ」と云う言葉が一般語化している。そしてそれは、繰り返しになるが4~50年も使われながら、4~50年間、あまり効力(「平和ボケしている人々の蒙を啓く、といった意味では)を発揮できなかった。    理由はなんてことはない、実際に平和ボケていたからで、話者も受話者も、環境も世界も一律同じ状態で、その状態に客観的に言及し、客観視を促すのはかなり難しい(実行することはできるが)。    歓楽街を抜け、ある静かなバーにたどり着いて、席に着き、話者が受話者に「ここは、、、静かな店ですね」と云うのは容易い、さっきまで喧騒の中にいたのであろうから。  
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