希蝶さん のコメント
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第436号 2022.5.24発行 「小林よしのりライジング」
『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりが、Webマガジンを通して新たな表現に挑戦します。
毎週、気になった時事問題を取り上げる「ゴーマニズム宣言」、『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成してもらう読者参加の爆笑企画「しゃべらせてクリ!」、著名なる言論人の方々が出版なさった、きちんとした書籍を読みましょう!「御意見拝聴・よいしょでいこう!」、読者との「Q&Aコーナー」、作家・泉美木蘭さんが現代社会を鋭く分析「トンデモ見聞録」や小説「わたくしのひとたち」、漫画家キャリア30年以上で描いてきた膨大な作品群を一作品ごと紹介する「よしりん漫画宝庫」等々、盛り沢山でお送りします。(毎週火曜日発行)
【今週のお知らせ】
※「ゴーマニズム宣言」…新型コロナなんか罹ったって大したことのない病気だということは、もう明確にわかってしまった。だがその一方で、罹ってしまったら一大事となる病気があることもわかった。この病気の感染が広がったら、国まで丸ごと危なくなる。その病気の名は、「謝ったら死ぬ病」だ。コロナ問題でも、皇統問題でも、外交問題でも、どんなに国を危うくしようと、決して自分のしたことを直視せず、反省せず、謝罪もできない「謝ったら死ぬ病」患者、そんな奴が多すぎるのだ。なぜ彼らはそんな病気に罹ってしまったのだろうか?
※泉美木蘭の「トンデモ見聞録」…令和4年4月20日に行われた、第81回新型コロナウイルス感染症対策アドバイザリーボードで、ワクチン接種歴別の新規陽性者数を示したデータが発表された。そのデータを見ると、一般的には「12歳から90歳以上まで、どの年齢でも、コロナに感染すのはワクチン未接種者に多く、2回、3回と接種するごとに感染しにくくなる」というふうに解釈され「やはりワクチンは有効」という結論になるだろう。しかし、この発表されたデータそのものが、実は真っ赤なウソだったのだ!!
※よしりんが読者からの質問に直接回答「Q&Aコーナー」!?芸能人の自殺が相次いでいるのはやはりコロナ禍が原因?2025年の大河ドラマ「光る君へ」は見る?このインフォデミックが原因で友人関係が壊れたことをどう捉えれば良い?自分が好きになった女優が生涯未婚を貫いた場合はどう思う?生命至上主義のリベラル・左翼が堕胎には肯定的なのは何故?竹田や八木らには失望しても、藤井・施らには一縷の望みを持っている理由は?前回のライジング「ゴー宣」の内容は表現規制につながりかねない主張では?…等々、よしりんの回答や如何に!?
【今週の目次】
1. ゴーマニズム宣言・第464回「謝ったら死ぬ病」
2. しゃべらせてクリ!・第392回「ぽっくんVS多分田吾作、世紀のアホ対決ぶぁい!の巻【前編】」
3. 泉美木蘭のトンデモ見聞録・第258回「厚生労働省、『ワクチン効果あり』と見せかけるデータ水増し」
4. Q&Aコーナー
5. 新刊案内&メディア情報(連載、インタビューなど)
6. 編集後記
第464回「謝ったら死ぬ病」 新型コロナなんか罹ったって大したことのない病気だということは、もう明確にわかってしまった。
だがその一方で、罹ってしまったら一大事となる病気があることもわかった。
この病気の感染が広がったら、国まで丸ごと危なくなる。
その病気の名は、 「謝ったら死ぬ病」 だ。
たけし社長が、新たな意見広告を作成して各地方紙に展開している。
これは究極的に分かりやすい出来である。
https://www.worldofgosen.com/
この意見広告に掲載された図を見れば一目瞭然。諸外国に比べ、日本の死者数は全く微々たるものでしかなかったのだ。
しかも 新型コロナで死亡したとされる人の平均年齢は東京都発表で82.2歳であり、これは男性の平均寿命を上回る。
そして、一見70代以上の死亡者が多そうに見えるが、日本では「1年で」140万人前後が亡くなっているけれども、 新型コロナ感染死とされる人は「2年2ヶ月間の累計で」2.8万人に留まる のである。
データを見れば、日本においては新型コロナによる被害なんか出ていないに等しい。何も起こっていなかったのだということは、あまりに明白である。
ところが最初にスタートした時点で、これはパンデミックだと政府が判断し、専門家がお墨付きを与えてしまった。
感染症学者は、「ただの風邪ウイルス」の研究をしても全然注目されないが、人類の存在を脅かすウイルスが出てきたとなれば、たちまち脚光を浴びる。 そのウイルスが危険であればあるほど、世間の注目度は爆上がりとなる。
こうして、それまで地味で日陰の存在だった専門家が、ついに一世一代の出番が来たと思って舞い上がった。 そして、危機を煽れば煽るほど「時の人」になっていくものだから調子に乗って、どんどんエスカレートしていって、全国民を巻き込む大騒動にしてしまい、自分がその渦中にあって救世主にでもなったかのような快感を覚え、これに酔いまくったのである。
さあ、そこまでやっちゃったら、もう後戻りはできない。今さらこれが「ただの風邪」程度のウイルスでしたと反省するわけにはいかない。「実は日本では何も起こっていなかった」なんて、絶対に言えない。 「私が間違ってました、ごめんなさい」だなんて、死んでも言えないのである。
そんな「専門家」と共犯関係になって危機を煽りまくり、日本の社会・経済・文化に大打撃を与え、自殺者を増加させる結果を招いた 政治家も「ごめんなさい」が言えないし、官僚も言えないし、マスコミも言えない。
そこで 自分たちの失敗を糊塗するためには、ワクチンの普及によってコロナが撃退されたという「神話」をつくるしかないということになり、そのために誰でも彼でもワクチンを打て、子供にも打てという大宣伝を繰り広げるしかなくなってしまった。
ところがこのワクチンがまた大問題だった。 従来のインフルエンザワクチンでは、副反応疑いの死亡者が多くても年間4~5人程度なのに、この治験も済んでいない未知のワクチンでは、既に厚労省発表だけで1700人以上もの副反応疑いの死亡報告が上がっている。
しかし、こうなっちゃったら、もう後戻りはできない。今さらこれが 「危険なワクチンだったかもしれません、ごめんなさい」 だなんて、死んでも言えないのである。
そこで自分たちの失敗を糊塗するためには、 ワクチン接種とその後の死亡の因果関係は「不明」「評価できない」として一件も認めず、さらには死亡例の報告自体が上がって来ないようにして、事実を隠蔽するしかないわけである。
免疫学の権威といわれた大阪大学の宮坂昌之のインタビュー記事が、17日配信の「東洋経済ONLINE」に載った。
常識を見失い、堕落し劣化した日本の言論状況に闘いを挑む!『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりのブログマガジン。小林よしのりが注目する時事問題を通じて、誰も考えつかない視点から物事の本質に斬り込む「ゴーマニズム宣言」と作家・泉美木蘭さんが圧倒的な分析力と調査能力を駆使する「泉美木蘭のトンデモ見聞録」で、マスメディアが決して報じない真実が見えてくる! さらには『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成させる大喜利企画「しゃべらせてクリ!」、硬軟問わず疑問・質問に答える「Q&Aコーナー」と読者参加企画も充実。毎週読み応え十分でお届けします!
>>135
いちおう「皇太子」・「立太子」という言葉について解説します。
言はずもがなですが、「皇太子」は「天皇、あるいは皇帝の後継ぎの皇子」という意味で、「皇太弟」・「皇太孫」という言葉もありますが、身分上は同じであり、「令」の規定によると、三后(皇后・皇太后・太皇太后)よりは身分は下であり、敬称は「殿下」、文章中では「東宮」・「皇太子」・「殿下」の語を用いる時は一文字分の空白を設けること(闕字(欠字)にすること)、皇太子に関する職務は「春宮坊」が行うこと、天皇が行幸しているときには天皇にかわって「留守官」として「監国」(代わりに政治をとること)を行わなくてはならない、となっています。称徳天皇崩御時の白壁王(光仁天皇)や、桓武天皇崩御時に安殿親王(平城天皇)が皇太子の身分のまま天皇の権限を代行したのはこれによるものと言われています。
「皇太子を冊立する」ことが「立太子」です。
その起源は『日本書紀』によると、神武天皇の時に行われたということになっていますが、古代においては「大兄」という制度があり、継体天皇以後、大王の長男などを複数人「大兄」とし、その中から皇嗣を選ぶというもので(山背大兄王とか、中大兄皇子とか)、いわゆる「皇太子」が登場するのは、信憑性の高い説によると、持統天皇の「飛鳥浄御原令」以後だとされ、『釈日本紀』という書紀の注釈書によると、具体的には持統天皇が孫である軽皇子(のちの文武天皇)に、持統11年2月16日(697年3月13日)に「立太子」したというのが始めだとされています。ただし、この時に立太子礼が行われたかどうかは不明で、その後も立太子は天皇の「詔書」で行われたことが分かっているだけです(例:聖武天皇が神亀4年9月(727年10月)に生まれたばかりの基王を11月2日に立太子したことなど。ちなみに基王は翌年薨去しています)。
平安時代に制定された「貞観儀式」によると、立太子の儀は内裏の正殿である紫宸殿の前庭で、親王以下百官の参列のもと行われるもので、宣命大夫が立太子の宣命を宣することとなっており、この宣命宣制の儀は立太子の儀の中心として近世まで行われたそうです。
さらにこの時に皇太子に仕奉する「職員」(しきいん)を任命し、拝覲(はいぎん、高貴な人に対面すること)や節会(せちえ、ありていに言えば、行事などのある日の宴会。相撲節会・踏歌節会など)が行われ、さらに天皇家の山陵に立太子が行われたことが奉告されたそうです。さらに醍醐天皇の御代である延喜4年(だいたい904年あたり)に保明(やすあきら)親王(朱雀天皇の前の皇太子で、その後病没しています)の立太子以降は「壺切の大刀」と呼ばれる一種の「神器」のようなものを与えることにもなったそうです。
ぐだぐだと述べましたが、要は、「立太子礼」という形になったのは、平安時代からであり、奈良時代あたりは天皇の「詔」があればOKだった、ということです。
こりゃ馬さんが述べられているように、南北朝時代の後小松天皇から江戸時代の後西天皇の時代の300年間にわたり、立太子礼は中断されましたが、霊元天皇の天和3年(だいたい1683年、徳川綱吉の初期あたり。「元禄」の前の前)に復活し、この時に立太子儀に先立ち、「儲君治定(ちょくんちてい)」が行われるようになったそうです。明治22年(1889年)の旧皇室典範により、皇位継承の順位が規定され、立太子礼は形式上のものになった、ということです。
ざっと調べてみた感じではこんなところです。説明不足だったり、蛇足でしたらごめんなさい。(_ _)
なお、少し補足しますが、孝謙天皇(称徳天皇)は(位を譲ったとは『続日本紀』には記されてはいるのですが)、自分が「重祚」したという意識はあまりないと思います。というのは、淳仁天皇、大炊王(おおいおう)は恵美押勝の乱の後、母親ともども内裏から強制退去させられ、「廃位」されており、上皇にはなっていないからです。これにより、事実上孝謙上皇は「復位」したことになり、その後「称徳天皇」と呼ばれているわけです。当然、その後、即位の儀式を行ったという記事も『続日本紀』には存在しません。
淳仁天皇は、『続日本紀』では「廃帝」と記されており、長いこと歴代天皇には含まれておらず、明治になってから初めて「承認」されています(陵墓指定だけは似た境遇の光仁天皇がやってくれた)。ちなみに、孝謙天皇は仲麻呂政権から「宝字称徳孝謙皇帝」という称号を与えられており、諡号はそこから来ています。
以上、長々とすみませんでした。
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