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ゲストさん のコメント

ナンシー関さんの言葉で印象深いのは 「あたしなんて実はテレビだけをみている人間であって 舞台を観に行ってまでその人を批評しているわけでは無い」 薄い客観材料からの批評ですよ? みたいな言葉でした。
プロパガンダされた情報から意見を持つのではなく 自分の直感 経験 から意見を持ちなさいよ というメッセージを感じました。 そんなモードを日常的に意識していけば芯を食う人になれるんすかね?  以上、Michael Bairdを聴きながらの投稿でした。(昔 この人は芯をくっている と菊池さんが言ったので気になりCDを買いました)Download And Merge という曲が気持ちいい。 
さっ!! 次回ラジオ(馬乗りの歌を聴け) 楽しみにしております!!!
No.3
28ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 凄い日差しだ。いやあ、なんでも終わってしまえばだが、コロナはやばかった。マジで間一髪だったと思う。実は今、長沼が家族で夏休み中で、もしぶち当たっていたと思うと寒気がする笑。まあフッドに友達(音楽家とかではなく)は確保しているとはいえ。    今、「後遺症」が流行語みたいになっていて、「コロナそのものではなく<後遺症>で鬱病になった」とか「コロナそのものではなく<後遺症>で、仕事を続けられなくなった」という例が、身近にさえ押し寄せていて、ことの解釈はひとまず置くとしても、「ものすげえ現代的」と思わざるを得ない。  誰だって「コロナが戦場体験で、今 PTSD に苦しんでいる」という風に見立てるざるを得ないだろう。 PTSD 概念(これはフロイドの古典的トラウマ概念と抵触するのだが、あのフロイドが、一次大戦のシェルショックを見かねて、自分の理論的根幹を修正した結果だ)によって「戦争」の意味が変わってしまったように、コロナはまだまだポストモダンだと思う。     今僕は、まあ、秋までには元に戻るであろう、「一時的な朝方」を利用して、都内を回遊しながら書いている。今、表参道のあたりで、人々は正午を待っている状態だ。人出が多いのか少ないのか全然わからない。昔日はクロコダイルやアメリカンアパレルに通うために、週二、三に近い状態で使っていた道には、歩行者ゼロだった。渋谷に着いた。カフェに入る。    陰性な気持ちが全くない上で、ちゃんと丁重にお断り申し上げたから、名前を明記するけれども、「週刊女性」と「女子 SPA! 」から、あの、コロナ闘病記を転載させてほしい、というオファーがあり、一瞬びっくりしたのだが、すぐに納得した。<女性誌は皇室スキャンダルと闘病記が好き>という至言を放ったのは、もちろん僕ではなく、ナンシー関である。  
ビュロ菊だより
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