凄い日差しだ。いやあ、なんでも終わってしまえばだが、コロナはやばかった。マジで間一髪だったと思う。実は今、長沼が家族で夏休み中で、もしぶち当たっていたと思うと寒気がする笑。まあフッドに友達(音楽家とかではなく)は確保しているとはいえ。
誰だって「コロナが戦場体験で、今PTSDに苦しんでいる」という風に見立てるざるを得ないだろう。PTSD概念(これはフロイドの古典的トラウマ概念と抵触するのだが、あのフロイドが、一次大戦のシェルショックを見かねて、自分の理論的根幹を修正した結果だ)によって「戦争」の意味が変わってしまったように、コロナはまだまだポストモダンだと思う。
今僕は、まあ、秋までには元に戻るであろう、「一時的な朝方」を利用して、都内を回遊しながら書いている。今、表参道のあたりで、人々は正午を待っている状態だ。人出が多いのか少ないのか全然わからない。昔日はクロコダイルやアメリカンアパレルに通うために、週二、三に近い状態で使っていた道には、歩行者ゼロだった。渋谷に着いた。カフェに入る。
陰性な気持ちが全くない上で、ちゃんと丁重にお断り申し上げたから、名前を明記するけれども、「週刊女性」と「女子SPA!」から、あの、コロナ闘病記を転載させてほしい、というオファーがあり、一瞬びっくりしたのだが、すぐに納得した。<女性誌は皇室スキャンダルと闘病記が好き>という至言を放ったのは、もちろん僕ではなく、ナンシー関である。
コメント
コメントを書くバウンサーって、ガーシー的な? 乱暴に構造的に感じるため、30万円渡し「初めまして、君とセックスをするんじゃないんだ。服は着たままで、話し相手になってほしい。話題はなんでもいい。君の好きな話をして」「ああ、そもそもガラケーだから使えないけど、あれはセコイよ。あらゆる意味で」確かに、【一番金の掛かる売春婦が妻】(談志師匠)少し前から、中国人の友達が、銚子でFBフードポルノしてたかと思ったら、何かのYouTubeで銚子に金塊が隠されてるんだとか、構造と言えば渡部恒三、福一の地主、911311安倍さん国葬ネタバレでまだ生きてる説に賭けていますが、秘密警察なんだか芝居もイマイチ太秦もAmazonプライムとかNetflixの買収間近?マジか?冗談か全く構造的な権力と裏が入れ替わり、金と愛も入れ替わり、なんちゃってオジサンとか、何となくクリスタルとか、業界リアルの無価値化とかメタバースとか、メタメタだけどリバース、PLAY/PRAY、リニアからラウンド、山手線Circleとか、奈良まで奏でる時間だと不十分なような、スローライフとコンビニエンスという重合「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」中野裕之監督「ピース・ニッポン 」ピースのような、ウォーなような、2022 SS☆AW 飽きのこない此の世、、、
ナンシー関さんの言葉で印象深いのは 「あたしなんて実はテレビだけをみている人間であって 舞台を観に行ってまでその人を批評しているわけでは無い」 薄い客観材料からの批評ですよ? みたいな言葉でした。
プロパガンダされた情報から意見を持つのではなく 自分の直感 経験 から意見を持ちなさいよ というメッセージを感じました。 そんなモードを日常的に意識していけば芯を食う人になれるんすかね? 以上、Michael Bairdを聴きながらの投稿でした。(昔 この人は芯をくっている と菊池さんが言ったので気になりCDを買いました)Download And Merge という曲が気持ちいい。
さっ!! 次回ラジオ(馬乗りの歌を聴け) 楽しみにしております!!!
>>1
何が売れるかわからんですねえ本当に。僕の「更地」感は、とにかく歴史的な体積というものは、原理的には無くならないんですけど、20世紀まではそうした体積が、ある意味過剰なまでに形質化していたのかなという感じで、とかいうとポスト構造主義とか言われそう。なんですが笑、今は、歴史的な体積が、地表に収まりきれなくなっていて、有効か無効かというよりは、そもそも、あるか、ないか、という二者択一で、「地表にはない」といった感じがしています。これも僕の作文力の低さで誤解されそうなんだけど、メタバースとかじゃないです笑。
これは、実のところ、インターネットが作られた時の理念だったような気がします。伊藤俊治先生と対談した時に、「インターネットとヴァーチャルリアリティにものすごく期待していたけれども、どん底までがっかりした。共産主義の時よりもはるかに」とおっしゃっていて、その当時(00年代)は、ほんとそうだなーと思っていたんですが、齢59にしてというか、新型の単細胞生物に乗っ取られかけたというか笑、インターネット初期のリネンみたいなものを感じていて、すごくワクワクしています。
>>2
「中野裕之監督」はそこそこなパンチラインですね笑
>>3
「自分はテレビに映っているものしか見ない。その代わりに、それを死ぬ気で見る」とも言ってました。ナンシー関の理念は僕もかなり影響受けてるんですけれども(僕は構造読みもくっついてくるんだけど)、今の消費者(オタク)の消費行動とはかなりかけ離れたなと思ってます。が、もう一回ひっくり返るんだけど笑、また、消費者がオタクで無くなってきている潮流は感じますね。この話、誰にしても「お前(菊地)は気が若いね」と言われるんですが笑。
日本の若い方々の作品を、音楽と言わず、映画と言わず、漫画と言わず、アニメと言わず、いろいろ見聞きしていくと、最近、根底に戦争への不安Juan、予感、そして期待が散りばめられているのを感じます。20数年前に、デートコースが出てきたときとは隔世の感があるように思います。そこまで、手詰まりになっているのか、とも思いますし、まあそうか、そういうモードに入ってきたかとも思っています。
いろいろと揃ってきましたね。揃って、迫ってきてますね。
かたや、我々の暮らす大陸は常に戦中でして、この前撮影していたところが翌日には、カルテルが大規模な攻撃を、広範囲(5州にまたがる)において実行しました。同時多発的に、いろいろな場所が襲撃されたわけです。
畑で撮影していたのですが、野良馬が通り過ぎたかと思ったら、一台のバギーが通り過ぎました。乗っているのは、チャボです。ですが、このチャボ、まるで畑にとうもろこしを狩りに来たようには見えないわけですね。そして、遠くの方にバギーを置いて、僕らのことをジッと見ている。私達は、ただ、とうもろこしを収穫するジーさんを撮っていたのに、そんなことが起こるようになってるんです。で、それで思うんですが、これが戦中ということなんだな、と思いました。まあ、間違いなく、伝達はされたでしょうし、もし我々がアジア人ののっぺりとした表情でなかったら、やばかったかもしれません。でも、その村の人は言うわけです。ここほど安全な場所はない、と。村の人達は、馬に乗ってスーパーやモール、はては映画館に行く生活ですから、それでも大丈夫なわけです。ただ、よそ者が入ってきたら、シェリフは北米の土産物で、こちらではビヒランテが見ています。
もしかしたら、とうもろこしを刈っていたあのジーさんなのかもしれないし、もしかしたらあの野良馬なのかもしれない。オレたちよそ者が村に入ってきたことを告げたのは。そして、チャボがやってきて確認するという。チャボは、オレたちを見ていたのか。もしかしたら、もっと別のものを見ていたのか。それはわかりません。一つわかっているのは、どうやら、あの時点では、無害と判断されたようでした。もちろん、我々は、ただそこに暮らす農民を撮りに行っただけなのですが、その農民が農民だけでない可能性は大いにあって、それがここのrealidadなわけです。歴史の体積が地表に収まりきれないというのは、すでに戦中かと思います。
>>6
「大恐慌、、」で特集、?やられてたんですね、 さっき聴きました。 寒い!俺! 1975米倉 なんですね。。 あっしも1975! ですが あまり意識してませんでした。 というより なんで年配の菊地さんが そんな細かく認識できているのか、の方が不思議でした。 桜井マッハ キーパー川口 ザキヤマくうーるうー て印象が強かったです。「タメ」は。 弟(ハマカーン)が1個下で あっしと同じ高校にいました、 あえて野暮天ですが、ウノは1974の代です。 (ナンシーさんと菊地さんの因果と一緒) 何が言いたいかというと やはりこういうツッコミは意味が無い。 つまり 精査された情報を持って喋るとロマンチックの邪魔をする、 そんな菊地さんのコメント よかったです。 ハンドルの遊び の使い分けは大事ですよね、野暮天かいい男かの 分岐点なきがします(by中島らも)
>>7
「チャボ」は、キューバ人が使うあのチャボ(男のガキ)だとしたら、ですが、そのシュチュエーションはかなりまずいですね。僕は南アにトラックメイクの友達がいるんですが、「刺すだの斬るだのは実際子供の方が強いし、仕方なく買い物帰りにヤバイ道を通るときは下腹部が怖い」と言っていて、寒気がしましたが。
おととい、玉音放送オンエア記念日(終戦記念日は別なので)に、松竹東急シネマが、いわゆる「平和への祈り特集」として、木下恵介の国策映画(松竹配給、日本陸軍局制作、44年公開)である「陸軍」と、反戦映画である「二十四の瞳」(松竹制作配給、54年公開)を、ぶっ続けでオンエアしました。
これは正直、結構なことです。「二十四の瞳」は、木下恵介のファンならずとも、日本映画ファンならば、また、日本文学、演劇のファンならば、一定の年齢さえ超えていれば「誰でも一度は見たことがある、内容も知ってるクラシックス」ですが、「陸軍」は、おそらく、BSとは言え初オンエアだと思います。僕も未見でした(そもそも木下恵介がそれほど好きじゃないというのもあり)。
いわゆる国策映画で、薩長戦争から始まり、日清、日露、一次大戦飛ばして二時大戦、太平洋戦争末期の召集までを描いた、上映時間が長いことで有名な木下恵介の、わずか90分弱の作品です。俳優も、笠智衆、田中絹代、上原謙、東野英治郎しか出てきません。
この作品は長らく、「あの名匠木下恵介でさえ(というか、名匠が故のインフルエンサーぶりで)国策映画を撮らされていた。圧倒的な反戦者だった木下は、嫌々この作品を撮影したが、ちゃんとラストシーンは(田中絹代の独演によって)、裏テーマとしての「反戦」を打ち出し、軍部に一矢報いた」と、語られてきました。
んでまあ、そういう歴史的評価を知っていてみれば、「そう見えないでもない」です。劇中、息子が召集され、国のために死ぬことをガチもガチで誇りに思っている笠智衆と田中絹代の夫婦ですが、いよいよ出征の大行進(ここは実際の出征のニュース映像を使っていてすごい迫力)となると、母親は、進軍行列の中に息子を見つけ、追いかけて追いかけて、歓喜に沸き、トランスして笑顔で国旗を振り回す群衆の中で、天皇を超えた存在であろう、仏に両手を合わせ、息子の安全を祈り、崩落する。田中絹代スンバラシイです。
と、確かにここはまあ、「一矢報いた」と言えば、言えなくもない。とは言え、最後の最後にテーブルひっくり返したわけではないです。実際、陸軍は検閲でこの作品に全く挟み入れてないんで(っていうか、陸軍自体が制作したんで)。「見ようによっては」という程度で、「いやあ、戦争賛美の国民だって、母の人情っていうのは、このぐらい深いのですよ。こうした深い愛を湛えたまま、国家が勝利するのです」程度にしか見えない、と言えば見えないです。
それよりも、僕がびっくらこいたのは、「二十四の瞳」(これは、戦前、戦時中、戦後を描いた、かなり長い作品です)よりも、「陸軍」の方が、はるかにメンタルに良い映画になっちゃっている。という、「現在」との関係性でした。
「陸軍」を今、見ると、「こうやって国民がみんな一つになって、喧嘩しても裏切りあっても、結局は仲間で、価値観を共有し、国家の目的のために一つになれるって、素晴らしいなあ」と、思わず思ってしまうんですね。もう本当にびっくらこきました。これが1980年代だったら絶対にありえなかった心理的反応だと思います。俺の心に、こんなことが起こるのかと、仰天しました。コロナの後遺症かも。
木下は、通説通り、「陸軍」を作らされた怨念から、10年後、反戦思想を「24の瞳」に、半ば狂ったように叩きつけ、どこまでもどこまでも反戦と反貧困(要するにプロレタリアートど真ん中)を呪詛し続けるんですが、思想の内容はさておき、という「さておき」さえ許されれば、テーマがポジティヴでマッシヴで共有的な「陸軍」の方が、テーマがネガティヴで、少数派意識(この、反戦やリベラリズムが「少数だ」と自認する、屈折した意識、というか、思考が、日本の戦後思想をおかしくしたと思うんですが、それはさておき)呪詛に満ち満ちた(そして、「なんとなくちゃっかり」としか言いようがない手つきで、反戦と反資本主義をちょいちょいっとくっつけちゃった、というインチキが根底にある)「二十四の瞳」よりも、見ていて爽快で気持ちが良いんですね。
「これ、並べてオンエア大英断だと思うけど、編成の人、見た人々が全員、反戦思想を強化し、つまりは<陸軍>を唾棄すべき忌まわしい映画と感じ、<二十四>を素晴らしいリベラリズム、と賛美する、と思ってのことかなあ?リスク考えなかったのだろうか?」と思ってしまいました。
僕は実は、8月14日には、故郷に帰ってライブと同窓会をしていたんです。今年はヤバイ年だ。とずっと言ってますが、今年の8月15日は、とんでもない8月15日になりました。
>>8
いやあ素晴らしい。久しぶりで、一文字も意味がわからない文章を読みました笑、もちろんこれは悪口ではないです。暗号文みたいで笑、何度も読んじゃいますね笑。
>>9
ご返信ありがとうございます。
チャボは、そうです、そのガキンチョという意味でぼくらも使っています。まあ、昨日は、その近所の市長の息子が殺られてしまって、もう、なんともはやです。
「陸軍」のお話、めちゃくちゃおもしろいですね。というのも、ちょうど、こちらで、日本の戦中映画の特集上映をしておりまして、山中、溝口、成瀬、小津などのメンツの、敗戦前までの映画だけで組んだラインナップでした。なので、今回のお話、シンクロするというか、よく分かります。なんというか、ストンと落ちてきますし、会場は満員で、特に長屋ものは爆笑でした。こちらも長屋的な住居が非常に多いので、よく染みます。今更ながら、こういう時代のものを観ると、くっきりと浮かび上がってくるものがあるように思います。