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こうちゃんさん のコメント

戦争って、フェイクでしょ? 意見が違うのは、宗教でも、趣味趣向でも、立場とか、経験とか、目指す理想、目標、夢が決まっているとも限らないけど、まあその違いがあるし、同じって無理だし、同調は『圧』力だし、だけど、机上論として、言葉や数字に於いて、認識の道具として、それぞれに使っているので、混沌や無限を無視して、抽象化された、思考空間の中、強引に合意しゴーイングマイウェイということで、菊地史上、glee『人類は皆エイリアン』星々のように、星々から来て、欲しいの欲しくないの、なんのかんの、、、まあ、garçon的には不協和音だか違和感、セルフでトリートメント、取り留めもなく、ズレズレなる儘、成坊ママ、マンマのマンマで、サンマと同じ体癖?アティチュード?beat?美と?人OTO人、ビットの時代、びっとしてる人々、ビビットって、意味知らないけど、篠山の鬼神亡き、写真はeyephone、音は観るもの、絵は聴くもの、だのなんの、、、
No.17
9ヶ月前
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<1月22日(月)>   ガラケー 2 つ持ちは我ながらいかついと思うので気に入っている(データ移送をしないで、古いガラケーを電話帳として使っている)。何せ、恐るべきことに、としか言いようがないが「電話番号を暗記する」という、もうとっくに萎縮して使えなくなっていると思い込んでいた脳の一部が活性化したのである。   0×0 ××××   ××××   という、たった11の文字列の暗記が、高校生の頃までは、100近く暗記していた。最初のガラケーを買った時から、その能力は徐々に落ちて、そのうち、完全になくなってしまった。   長沼に電話しようとして、五十音の「な」段でサッと探って、隣にある「長尾」(美學校のスタッフ)に電話してしまい、笑いながら「長沼と間違えた笑」と何度謝ったか知れない。   どんな能力だって、使わなければ衰え、やがて失ってしまうものだ。そのほとんどは、テクノロジーの恩恵によってである。   だからまあ、前のガラケーで番号を引いて、それを一個一個打ち込んだところで、もうあの力は戻って来はしないと思っていた。子供の頃は屋根の上に登って、歌を歌ながら足元も見ずに瓦から瓦へステップを踏んで行って(ターンも楽勝で入ってましたよ。学童用の登校靴で)、一度も屋根から落ちたことがない。今いきなりやったら墜落死するだろう。僕が96キロだった頃、100キロ超の友達がいて、話が盛り上がると、奴は僕にヘッドロックを仕掛け、僕は奴のレバーを狙って思いっきり左でボディを連打していた。今いきなりやったら肩が抜けるか肘を壊すだろう。   子供の頃は皆、超人だったし、僕も超人だった。フリスビーというものが日本に入ってきた時、後ろを向いて「投げて良いよ」と言うと、友達は皆笑ってゆるく投げてきたが、投げても投げても僕が後ろ手ではたき落とすので、みんな全力で投げるようになった。  
ビュロ菊だより
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