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同人読者がどくさいスイッチを押すとき、あるいは「庵野、殺す!」の犯罪心理学。
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同人読者がどくさいスイッチを押すとき、あるいは「庵野、殺す!」の犯罪心理学。

2024-05-14 13:16

    「あきらめるもんか」彼は低声で言った。「聞こえるか? ぜったいにあきらめないぞ」

    スティーヴン・キング『ミザリー』

    【非論理的な妄説なのか?】

     はてな匿名ダイアリーに投稿された「同人女として、男性サークルへの毒マロが理解できてしまうので解説する」と題した記事が話題になっている。

     というか猛批判を受けて大炎上している。燎原を焼き尽くす猛火のごときいちめんの火の海、とでもいうべきか、すさまじいまでの燃えっぷりである。

     まあ、それはそうだろう、というべき内容なのは間違いない。このダイアリーの書き手、つまり「増田」は、何の権利があってのことか「同人女」全体を代表してある種の暴論を展開している。

    美しいものだけで構成された美しい作品を、現実の男が作っててその男の姿まで知ってしまったら、その絵・作品を見るたびサークルスペースで見てしまった作者男の映像が頭の中で再生されてしまって、その生々しさでオエーとなるのです。作品に没頭できなくなってしまう。
    別にこちらから積極的に作者の姿を探したわけでもないのに、ただイベントに一般参加しただけで作者の生々しいリアルな姿(醜さ)を見せられてしまい、脳内に刻まれてしまったのです。
    (くだんの男性作者さんの容姿が劣ってると言いたいのではない。女にとって男は一部の例外を除いてだいたい醜いのです)
    作り出した作者が醜くても作品に罪はないからこそ作品の世界に没頭したいのに、記憶の片隅にやきついた作者男の映像に邪魔されてしまう。これまで楽しんでいたものが楽しめなくなるという妨害行為をされてしまった。それが嫌で、そんな被害者を再発させないよう、男作者は予防してほしいのです。

     おまえは何をいっているのだ、というしかないめちゃくちゃなロジックで、あらゆる意味でツッコミどころ満載なので、批判的に分析しようと思えば簡単なのだが、ここではあえてそういう文脈では取り上げない。すでにたくさんの人がそうしているからである。

     そのかわり、ここで、ぼくはこの文章に対し、ある種の「共感」を込めて語ることにしたい。

     気でも狂ったか、といわれるかもしれない。このようなろくでもない自己中心的な妄論に共感するなど。

     しかし、この「増田」が考えていることが、じつはぼくには良く理解できるように思えるのである。それは、より本質的には「同人女」に限ったことでも、ルッキズムや男性嫌悪といった問題でもない、とぼくは感じる。

     それはむしろ、「人類のテーマ」とでもいうべき深く重い問題の一端なのであり、そして、また「創作とは何か? そして、だれかが創作した作品を受容するとはどういうことなのか?」といった問題ともつよく関係している。

     ぼくはそう思う。具体的にどういうことなのかは下記に記していこう。

    【天才作家キングと『ミザリー』という名作】

     そのキャリア50年に及び、数々の傑作を物してモダン・ホラーの巨匠とも呼ばれている天才作家スティーヴン・キングの初期の代表作のひとつに、『ミザリー』という小説がある。

     おそらく、この文章を読まれている方の多くもタイトルくらいは聞いたことがあるのではないかと思う。

     その名も『ミザリー』というタイトルの作品を書いた作家ポール・シェルダンが、その『ミザリー』の熱狂的ファンである女性アニーに監禁され、拷問されながら『ミザリー』を書き直すことを求められるという筋書きだ。

     キングがこの小説を書いた頃にはまだ「ストーカー」という概念はなかったとらしいが、キングは天才的な直感でまさに「作家につきまとうストーカー」の本質を的確に描き出すことに成功している。

     作品を熱狂的に偏愛する「ファン(この言葉は、ファナティック=狂気から来ているという説がある)」にとって、作家はしばしばただの「ノイズ」と化す。

     なぜなら、作家の生み出す作品は必ずしも自分の思い通りにならないからである。何もかも自分の願望をそのままに描き出された作品を理想の名作とするなら、現実の作家が生み出す新作はかならずその理想からズレていく性質を持つ。

     どんなに優れて天才的な作家であっても、自分とは異なるべつの人間である以上、どこかに「自分にとって都合の良くない存在」としての一面をそなえているからだ。

     しかし、どのような作品もその「都合の良くない存在」としての作家がいなければそもそも生まれないわけであり、作家を否定することは作品を否定することでもある。

     あたりまえといえば、これ以上ないくらいあたりまえの話だろう。しかし、それこそ作中作としての『ミザリー』のような超絶的に優れた作品と出逢ったとき、ぼくたちは(とあえて書くが)、しばしばそのあまりにもあたりまえのことがわからなくなる。

     自分の好みの作品を描いてくれない作家を恨み、憎み、攻撃しさえするのである。そのとき、ぼくたちはシェルダンに作品改変を要求するアニーと化しているといっても良いだろう。

     とくに現在のインターネットでは、このような「アニー」の姿をたくさん見ることができる。

     キングはほんとうに慧眼だった。かれには作品を愛する一方で作家を憎む「ファン」の真実がわかっている。また、日本にもこういった「アニー」的な心理を傑出した表現力で描写した作品がある。たとえば、庵野秀明監督による『新世紀エヴァンゲリオン』である。

    【インターネットの「アニー」たち】

     1997年に公開された『エヴァ』の劇場版には、ほんの一瞬、「庵野、殺す!」という言葉が映し出される場面がある。

     「アニメファン」というが人種がときにいかに傲慢で醜悪になりえるかが端的に表現されたセリフであり、また、「ヒトとヒトがどれほど理解しあえないか」を象徴する言葉でもあるのだろう、きわめて印象的な一場面だった。

     庵野監督はのちに、NHKの取材を受けて、この頃、インターネットで庵野秀明の殺し方を議論する掲示板のスレッドを見て、何もかもどうでも良くなり自殺を考えたという趣旨のことを語っている。

     インターネットに集まる「アニー」たちは、庵野というシェルダンをまさにあと一歩で殺害するところまで行っていたのである。

     庵野が天才的な映像作家であり、『エヴァ』が超絶的な傑作であったからこそ、たくさんの人が自他を分ける境界線(まさに『エヴァ』作中におけるA.T.フィールド)を認識できなくなり、人をひとり殺しかけたのだ。

     もしかしたら、そこに書き込んだ人たちはちょっとしたジョーク、あるいはストレスの発散のつもりだったかもしれないが、そういった悪意をぶつけられる側はたまったものではない。

     ぼくはひとりのファンとして、庵野監督が生きのびて新作を作ってくれたことを感謝するばかりだ。

     ただ、『ミザリー』や『エヴァ』の場合は極端な例ではあるが、古来、このようなことはくり返しくり返し起こってきたのだろう。ファンによる作家殺人事件。

     もちろん、その動機は「作品愛」である。作品をあまりにも深く愛しているがゆえに、作家の存在が邪魔になってしまったのだ。

     いや、待て。ほんとうにそうだろうか? このように身勝手に作家を攻撃するような人物、即ち「インターネットのアニーたち」が、ほんとうに作品を愛しているといって良いのか。

     それは、かれらの主観では愛であるかもしれないが、実際にはもっと自分勝手な心理なのではないだろうか。ぼくは思う。それはどこまでいっても作品を鏡像として自分自身を見つめているだけの自己愛(ナルシシズム)の域を出ないのではないかと。

     
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