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「オタク論」の続きです。
 前回は「コミケの代表」であらせられるエラいエラい人たちがオタクの持つルサンチマンを冷酷に否定し、サブカル用語を使ってはしゃぐ様をご覧いただきましたが、今回は「その当のオタクが萌え全盛期の時にどう考えていたか」です。
 初出は2010年の11月11日。もう遙かな過去です。

「コミケの代表」様がそうであるようにラノベの編集者とか、ともかく上の連中はオタクが大嫌いで、本当はこうした作品は意に沿わぬものであったでしょうから、本作は奇跡的バランスの上で成り立っていたのだと言えます。
 それともう一つ、文中で桐乃ちゃんが「リア充として振る舞っている私は、本当の自分ではない」と語ると書いていますが、これは確か「オタクである自分も、リア充である自分も、それぞれが本当の自分だ」と言っていたのが性格だったように思います。
 桐乃ちゃん、アニメではラノベ作家として成功していますが、原作では当時流行のケータイ小説(リア充寄りの文化)で成功しており、何かこの辺、「いろんな人の思惑」が混ざり込んでいた気がしなくもありません。
 その後、オタク文化は潰され、「オタクとはアイドル好きの女を指す言葉」にもう、なってしまったのでありました。
 めでたしめでたし。
 では、そういうことで……。

*     *     *


「女性様のミカタ」でいらっしゃるインテリ様たちが同時に「セクシャルマイノリティ様」のミカタをなさること、そして返す刀で男性という名の存在悪を徹底的根源的絶対的に否定する「正義のミカタ」でもあらせられることは、拙著にも書きました。
 彼らにとって何より肝要なのは「マイノリティ認定された人」、言い換えれば「正義であると既に社会的に認定され、その価値観の揺らぐことのない人」を絶対的聖者として崇め奉り伏し拝み、彼ら彼女らと利害を異にする者を徹底的根源的絶対的に殲滅するという、正義の遂行なのです。
 そして言うまでもないことですが、彼らは男性たちの中でも悪の権化であるオタクという存在を徹底的根源的絶対的に叩いて、ついでに小銭を稼ぐネタにすることで資本主義の手先を出し抜く正義の闘士でいらっしゃいます。
 いずれにせよオタクはいついかなる場合でも決して肯定してはならぬ絶対悪だ、と言うことですね。

 さて、ひるがえって本作です。
 本作の主人公・京介はごく普通の高校生男子。彼の妹・桐乃は容姿端麗、文武両道でモデルまでやっている超リア充の女子中学生なのですが、実は重度のオタク。モデルで稼いだ金をバンバンエロゲーにつぎ込んでいます。
 妹に嫌われ、交流のなかった主人公がふとしたきっかけで妹のオタク趣味を知り、それを理解すると共に彼女と交流を持っていく……というのが本作の主題です。
 桐乃ちゃんは自らのオタク趣味を公言できない、後ろめたいものと自覚しており、当初は兄にも隠し、バレてその助力を乞うようになってからも父に、親友にオタク趣味を悪し様に言われ、兄貴はそんな妹をかばってオタク趣味を理解してあげるよう、父や親友相手に奮闘します。
 即ち、丁度のび太がドラえもんに甘えることが『ドラえもん』最大の見せ場であるように、本作の最大の売りは「桐乃ちゃんが自らのオタク趣味を京介たちに理解してもらう過程」にあるのです。
 男性読者にとっては、自分に可愛いオタク趣味の妹がいたらなあという願望を充足できると共に、「恥ずかしいオタク趣味」を持っているのが妹であるというエクスキューズを用意してもらうことでワンクッション置いて話を見ることができるという、非常に高度な仕掛けになっているわけですね。これに近い構造を持った俺のプロットを没りやがった○○○ー○○○○や○○○○○○○○○ーの編集者はチンパン脳なのでしょう、きっと。
 中でもアニメ版第5話「俺の妹の親友がこんなに××なわけがない」は圧巻です。ようやくオタ友だちを得ることができ、同人イベントを満喫する桐乃ちゃん。しかし折悪しくそこに学校の友人(言わば「リア充仲間」)あやせちゃんが通りかかります。
 せっかくできたオタ友だちを知らないわ、あんなキモい連中と呼んでまで秘密を隠し通そうとする桐乃ちゃんですが、あやせちゃんは執拗に追求。ついにペーパーバッグが破れ、中のお宝(同人誌)がこぼれ落ち、ショックを受けたあやせちゃんは絶交を言い渡してその場から去っていきます――。
 このあやせちゃんの桐乃ちゃんへの妙な(ヤンデレ的)追求ぶりは見ていて鬼気迫っており、ショックで京介に当たり散らす桐乃ちゃんの姿は見ていていたたまれません。
 作品世界では丁度、「オタクが少女にたいして起こした事件」が話題になっていたようで、それを根拠にあやせちゃんはオタクを「犯罪者予備軍」と難詰。京介は事件を調べ、ジャーナリストがフライングで事件と犯人のプレイしていた萌え系のゲームを強引に結びつけていたことをあやせちゃんに説明します。
 更に桐乃ちゃんも「あなたのこともオタク趣味のこともどちらも大事、どちらも捨てられない」とあやせちゃんを説得。桐乃ちゃんが「学内のスターである自分は決して本当の自分じゃない」とオタク文化への愛を吐露するところは非常に感動的です。ようやく二人が仲直りできたところで、大団円。
「マスコミのオタクバッシング」にたいする議論など、少々生硬さを感じさせなくもありませんが、それにしてもサブエピソードの、桐乃ちゃんから「キモい連中」と呼ばれながら、それでも桐乃ちゃんを理解してやろうとする友人たちの姿など、とにかく「わかっている人」じゃないとできない描写の連続で、単にオタクネタを日常に挟んだだけの(会話の中で「フラグが立った」と言うなど)従来の類似作からは一歩も二歩も抜きん出ています。

 ぼくが本作に感じたのは嬉しさと気恥ずかしさ、そして「とうとうここまで来たか」という感慨めいたものでした。
 というのも、元来、オタクの特性はその自己評価の低さにあったと、ぼくは考えるからです。
 いえ――自己評価、と書きましたが、自己評価=世間評価でしょう。
 オタクは自分たちが世間から白眼視されているからこそ、自己否定的であるわけです。
 80年代のアニメ誌(アニメ以外にオタク的メディアの存在しなかった当時、アニメ誌=オタク誌でした)では毎回オタクを揶揄するギャグが描かれ、オタクの「自己批判」の投書が並んでいました。こう書くと内省的で素晴らしいように思うかも知れませんが、その九割までは「俺だけはオタクじゃない」という奇妙な自意識に支えられた、ただの現実逃避のためのものであったように思います。そう、「俺はオタクじゃない」は当時のオタクの合言葉だったのです。
 オタクが自分で自分を受けとめ(まあ、「萌えキャラ」に演じさせてはいるわけですが)「萌え文化が好きなんだ、文句あるか」と言いきるまでになった本作にぼくが感慨を抱く理由、おわかりいただけたでしょうか。

 さて、ここで冒頭の話に戻りたいと思います。
 いったい、インテリ様たちはどうしてここまでオタクを憎悪するのでしょうか。
 それはオタクの属性が男性の中でも一番弱い者、であるからに他なりません。敵と戦う時は敵のウィークポイントを攻めるのは、戦術の基本ですよね。
「オタクへの憎悪」とは「成人男性がその期待された性役割を果たさないことへの差別である」と言った論調は時折聞かれるように思いますし、ぼくもそれに同意します。しかし少なくともオタクを悪しきものであると断ずる論者たちは、基本的には「だがオタクたちも凡百の男性たちと本質は変わらない」といった落としどころに持って行く傾向にあります(『男性学の新展開』参照)。
 何より、オタクをやっつけるインテリ様たちは、しかしオタク女子についての話になると必ず手のひらを返してちやほやし始め(そうしない者はぼくの知る限り一人もおりません。東浩紀「処女を求める男性なんてオタクだけ」と平野騒動に苦言(その2)参照)、もう、「オタクへの攻撃」=「男性への攻撃」であるということは火を見るよりも明らかなわけです(後、そもそも「オタク差別/男性差別」と言えばいいのですが、あまりその言葉は好きではありません。これについては長くなるので、また次回)。

 本作に関して、その意味では、主人公のオタクを美少女にしてしまったことは「一歩、退いている」という評価も可能でしょう。
 また、なまじ少女にしてしまったがため、未成年がエロゲーをプレイしているという事態にもなっています。桐乃ちゃんのオタク趣味が父親にバレ、京介が父親を説得する話があるのですが、当然、父親はそこを突いてきますし、ニコニコ動画でも本話が流されたことがありますが、父親の言葉にたいしては「正論だ」という反応が並んでいました。
 もう一つ、桐乃ちゃんの京介の扱いの非道さは半端なく、そこに不快感を表明する人もいるでしょう(兄貴が彼女の家に長居していると、桐乃ちゃんは留守の兄貴の部屋のドアを蹴りつけるなど、見ていると彼女の兄貴への嫌悪はツンデレでしかないとわかるのですが)。
 しかし、ぼくにとっては、それらはさほど気になることではありません。
 ぼくが気になるのは、「オタク」を「美少女」にする手法と、堺市立図書館におけるBL本騒動との近似性です。
 この事件はフェミニストが、「市立の図書館にエロ本を置け」とのどこからどう見ても狂っているとしか言えない主張を、「女性差別だ」とのワンワードで通してしまったというものです。
 全く、フェミニストたちはバカですねm9(^Д^)プゲラ

 ……しかし、とは言え、「フェミニズムのせいだ」と言おうとも、BLもオタク文化であり、また上野千鶴子センセイと並んで奇妙な陳情をした者たちの中にはオタクもおりました。
 フェミニズムはある種、女性のルサンチマンをエネルギーにして稼働する巨大ロボですが、一歩間違えばぼくたちオタクも彼女らのロボの搭乗者として選ばれてしまう危険性があるわけです。
 上にもご紹介したオタクの自己評価の低さを、ぼくは当時、決して快く思ってはいませんでした。
 とは言え、自らを「不当に迫害されているマイノリティ」と認識し、「一人称化」*1された自己憐憫の情をただ無反省に「チ/シキュウ化」*2して、「社会は私たちを認めるべき」という倒錯した信念を持ってしまった人々に比べれば、まだまともだったかも知れません。
 『ガンダム』シリーズにはロボット操縦の適正者を研究、時には非人道的な実験をも行う「ニュータイプ研究所」という機関が登場します。
 しかし、ぼくたちニュータイプは、断じて戦争の道具ではないのです!!

 この非人道的なニュータイプ研の魔手に囚われないよう、ぼくたちも充分に注意しなければなりません。

 むろん、本作自体はニュータイプ研では、断じてありません。

 だって、桐乃ちゃんは「オタクを(オタクにとって都合のいい形で)理解してくれ」とか「そうしないやつは差別主義者だ」とか、そんなことを言っているわけではないのですから。

 ただ、彼女はあやせちゃんに「あなたのことが大切だから、仲直りしたい」と言っているだけなのですから。

 そもそも、上に書いたように美少女がオタクである、とすることで読者にたいしてワンクッション置いてあげるという本作の戦略は、作品として商品として全く正しいでしょう(もう一つ、ついでながら指摘しておくと、オタク女子の視点で見れば本作は、「素敵な兄貴が私のために奔走してくれる」という内容になるわけで、見れば見るほどうまい構造を考えたものだ、と唸らざるを得ません)。
 そんなことは充分に理解した上で、ぼくたちは桐乃ちゃんに倣い、「志高く、誇りを持って、18禁ゲームをプレイ」しましょう。
 ですが、同時にぼくたちは世間がそれにたいして必ずしもいい顔をしないことも知り、それをも受け容れていかなければ、ならないのです。

 次回!
 マイノリティがそんなに清らかなわけがない!


*1物事を感情的、精神的問題として捉えたがる、女性に多く見られる傾向。「他人の苦しみにシンパシーを感じる」など、よい方向で発揮されていればいいのですが、一歩間違えると「痴漢冤罪問題に取り組むなんて、女が嫌いなのね」というわけのわからないリクツを言い立てるようになってしまいます。
*2女性が世の中の問題を「一人称化」して捉え、そのリクツで社会に働きかけてしまい、その結果、社会が恐ろしい災いの危険性に晒されている状況。痴漢冤罪などまさしくその代表と言えるでしょう。