僕が選挙に行かなかったり、投票を民主主義的な政治参加として完全な正義の名の下に勧める勢力を心の底からバカ扱いしているのは、生活が苦しいことが政治によって変わると思っている点で、生活の苦しさや将来の見通しを明るくしたくなったとして、それは全く構わないが、政治がそこの役に立つわけがない。という、基本的な絶望をも知らない(=政治とは、「そういうことのため」にあるのではない。全く別の意義のためにあるのである)、甘ったれた平和ボケ低脳の戯言だからだが、そこにもっと敵意をaddするのは、現代日本人が、民主主義における投票行動や応援行動の練習を、政治ではなく、AKBの総選挙やM-1などによって練習したからである。まあまあ、メインは<テレビニュースではなく、SNSから勉強したアメリカ大統領選>だと思うが、AKB総選挙とM-1とTwitter日本版は検索すればすぐわかるが、微妙にすれ違っているとはいえ、21世紀最初の20年間に於ける影響力を不動のものとした。
現代音楽やジャズの勉強を、娯楽映画や特撮映画から学ぶのは全く構わん、マルクスの政経理論に基づく社会主義革命を、理論理解もしないまま起こそうとしたり、吉田茂がサンフランシスコ講和条約を締結したその足で、一人だけでサインした日米安保条約を破棄させようとしたのも全く構わん上に、それが大学制度ができてから生じた「大学生」という、欲求不満と自己実現不全の若きケダモノによる祭りだったとしても、一向に構わんどころか、むしろそれしか正しくない。20世紀最大の美徳の一つと言って良い。
僕は秋元康が09年に「総選挙」と言い出した時も、島田紳助が01年に「M-1」と言い出した時も、僕は、政治行動やオリンピックのパロディの形を採った、株式市場の遊戯化だと思い、なかなか面白いな。とは思った(なので、そこから株という意識をインストールし、今トレーダーである人々には文句は一切ない)。
コメント
コメントを書く菊地さん、こんにちは。今年晩夏のチャンネル入会以来、『大恐慌へのラジオデイズ』バックナンバーを通勤や料理中ずっと聴かせていただいております(楽理動画を後回しにして笑)。そのなかでも第125回の放送内で、菊地さんがソシュールの vital organ (?) について言及しておられましたので、それについて遅ればせながらお尋ね申し上げたいことがございます。
ソシュールについて何も知らないまま来た私にとって、この vital organ (?) という概念表記が正しいのかどうかすら解りませんが、菊地さんがVOと略記して用いておられたこの「(後世に豊かな意味の拡大が到来することを期待しての)積極的な語意の誤用」ですが、私はかねてより菊地さんの文面や発話から気になっていたことがございました。それは、フロイト派の精神分析用語である「オイデプス(・コンプレックス)」を「アンチオイデプス」と表記もしくは発話しておられることです。より正確には、「己の運命を知らないまま、父を殺し・母に子供を産ませ、それらをやってしまった後で神託のままに動かされていた自分の運命に悲嘆して眼を潰す」というギリシア悲劇の筋書に基づく「息子による父殺し」の概念(これを仮に「正調オイデプス」と呼称します)を、「アンチ」と接頭されるドゥルーズ=ガタリの同書名(で展開された反フロイト派的解釈のほうを意味する諸概念の名称)で呼んでおられ、このことを私はちょっと不思議に思っていました。
これはネット編集者的な、ちょっと検索しただけの知識で「こっちが正しいでしょ」と言いたいだけの身振りではなく、むしろ菊地さんのVO的用法には文字通りフロイト的な豊かさが孕まれていることを指摘したいがためのコメントです。
まず低級な仮説として、「菊地さんには単純に “アンチオイデプス” という語感に関するフェティッシュがあるのかな? この概念を発話または表記するときは専ら “オイデプス” を使っていて “オイディプス” または “エディプス” とは言わないし、そのあたりに鍵があるのかも」と思っていましたが、こちらの線は無理筋として破棄しました。というか、「もっと何かあるよな」と曖昧に思っていたところ、ラジオデイズ第125回で紹介されたVO概念と・その「(後世に豊かな意味の拡大が到来することを期待しての)積極的な語意の誤用」を菊地さんが日頃から実践しておられることを知り、新しい仮説を立てるに至りました。
それは、「21世紀日本人としてはとても珍しい純フロイディアンである菊地成孔さんは、かつて20世紀にフロイト派的解釈を打倒しようとしたドゥルーズ=ガタリの政治哲学的態度、つまり “19-20世紀精神分析を父的存在と定めて反抗したがる知識人たちの態度” こそが根本的にオイデプス的であった」と見越しているがために、単なる「正調オイデプス(・コンプレックス)」を「アンチオイデプス」として用いているのではないか? という仮説です。つまり「『アンチオイデプス』を書いた時点でのドゥルーズ=ガタリは精神分析に対してオイデプス的」であり、菊地さんはドゥルーズ=ガタリ側(つまり若手知識人)が1世代前の知的権威を失墜させるとまでは言わずとも少なくとも揺さぶりをかけたい欲望を持っていたことのほうに着目し、その「『アンチオイデプス』はオイデプスである」という倒錯(どころか、思春期的には順当な発達?)への着眼を言外に含んでいたために、ネット知識人からは “「正調オイデプス」を「アンチオイデプス」と誤用している” などと文字通りオイデプス的な指摘を呼びかねないVO的用法を敢えて行っておられたのではないでしょうか。
この仮説を補強するものとして思い出されるのは、いつでしたか菊地さんが「(父殺しをやりたい人たちにとっては)倒さなきゃいけないオイデプスがたくさんいる」という発言をしておられたことです。この言を聞いて私は、「ギリシア悲劇に基づくなら、オイデプスは “(神託に気づかずに)いつのまにか父を殺してしまっていた” 立場じゃなかったっけ? ならオイデプスは父として殺されるのではなく専ら父を殺す側なのでは?(オイデプス関連作の続編でも、オイデプスの息子や娘たちは専ら “父が犯した過ちを清算する運命” のために屠られる存在として登場するし)」と思ったのですが、前段落の仮説を踏まえると別の意味で理解できます。それは「フロイト派精神分析という “父” を仮に打倒できたとして、それに代わる次代の王たるドゥルーズ=ガタリも別の権威として別の息子から殺される運命を辿らざるを得なくなる」帰趨を菊地さんは前提として踏まえていて、むしろギリシア悲劇に依拠する「正調オイデプス」ではなく・20世紀に フロイト派 VS 新進知識人 との間で演じられた「知的権威の推移=かつて父殺しとして出てきた者らが新たな権威として引きずり下ろされるまで」にまつわる権力関係(およびそこで働く心的機制)のほうを指して「アンチオイデプス」と呼称しておられたのではないか、という線です。現に、『アンチオイデプス』を契機に一定以上の読者層を獲得したドゥルーズ=ガタリが、アラン・ソーカルというだいぶ出来の悪い新たなオイデプスによって首を狩られなくてはならなかった、あの一連の20世紀末的流れへの批評的視座をも含んだ用法として菊地さんのそれは理解できます。
ここで見出される最も面白い洞察は、「知の集団性・単にその集合の大きさだけで言えば、フロイディアン>ドゥルージアンかもしれない」というものです。どの本で読んだかは忘れましたが、第二次世界大戦後ネオフロイディアンの急先鋒であったジャック・ラカンがドゥルーズ=ガタリに対して「実のところ、私にとって必要なのは彼らのような協力者なのだ」と発言したという話があり、ここでのラカンはいつものようにヘーゲル的に自身の対立物を止揚しているだけのようにも思えますが、私はこのラカンの発言に、文字通り健全に父親的な愛情と庇護の念があったと考えます。ラカンは第一次と第二次両方の世界大戦を目撃した世代ですが、ドゥルーズ=ガタリとは(奇遇にもというか、当然にというか)世の一般的な父親と息子と同じ程度の年齢差があります。「実のところ、私にとって必要なのは彼らのような協力者なのだ」というラカンの発言は、近年のリベラリストたちが軽はずみに(文字通りオイデプス的に)告発する「パターナリズム」ではなく、むしろ「父親の首を狩りたいだけの者はいずれ狩られる側に回ってしまうよ。それよりもっと多様な世代が共同で携われる知的作業があるはずじゃないか」という正しいアンチ権威主義へと導くものであったと思います(現に、フロイト=ラカンとドゥルーズ=ガタリ双方の知的遺産に通暁する思想家は、両陣営が共同で問題視していた系を改めて明らかにする目的の本を多く書いているように思われます)。
ここで私が行なっている、70年代あたりのラカンをアンチ権威主義として見る可能性(もちろん後年、ラカン本人は国家に是認される精神分析として徒党を組んだことで立派な権威にされてしまいましたが)は、菊地さんがかねてより実践しておられる「音楽による戦争状態の積極的発生、まさにそのことが平和につながっている」という Hard Core Peace と直接に響き合うものだと思います。たとえばかつてTABOOレーベルに所属していた平仮名5文字のデュオの男性作曲家も、そのような実践をしておられる菊地さんを父権視しなければもっと別の未来もありえたはずで(とはいえ、wikipedia 上に記載されている彼のプロフィールを読む限りでも、凄まじいほどの父権に脅かされる少年として発育する諸条件を見出すことができ、そのような父や叔父を持つ青年が音楽家として自己実現する過程でオイデプス的にならずにいるのは大層難しかったろうとは思いますが)、20-21世紀を貫通して群発する「知的権威の推移=かつて父殺しとして出てきた者らが新たな権威として引きずり下ろされるまで」のメカニズムがもたらす不毛とは別の路上での和平、その個別的実現を可能にする知恵がここにはあるように思われてなりません。
以上、菊地さんの「アンチオイデプス」に関するVO的用法に触発されて、思いつく限り書いてみました。おそらく、「菊地さんの用法を解釈する私の語法」という構造によって、私自身の失策や転移や投影が多分に含まれた文になっているとは思いますが、これら一連の思考にはとても刺激を受けたので、文字通り私の解釈そのものを被分析対象として、菊地さんのもとに提出させていただこうと思います。
(日記の内容に直接関連することも書かせていただきたかったのですが、すでにここまでで十分長いので、ご返信を頂けたあと追記として書かせていただければと思います笑)