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実はこの手の質問、驚くほど多く寄せられるので、いっそのこと一度ちゃんと答えておきますね。
長くなりますが、お付き合いください。

影響を受けた作品は?と聞かれても、正直これといって思い浮かばないのが本音です。
本は好きです。ですが読書を本格的に始めたのはつい最近のことで、
それまでは「読む」という行為そのものに、どこか苦手意識すらありました。
理数系の気質が強かったので、文章を構成することにもさほど関心がなかったのです。

学生時代の知的好奇心は、もっぱらPC関連の技術やクリエイティブな分野、
あるいはそこに紐づく経済の構造に向いていて、
本や映像作品を「受け取る側」として楽しむ時間は、ほとんど存在しませんでした。

では、自分の語彙や表現はどこから来たのか。
そう考えると、たぶん「映像」という形で触れてきた世界に端を発しているような気がします。

最初に僕は、テレビを一切見ません。
どれほどかと言えば、「どうやって生きたらこの芸能人を知らないの?」と呆れられるレベルで、
芸人や俳優の名前にもまったく明るくありません。
ドラマやバラエティにも縁がなく、何かを見るとしたら、自分の審美眼にかなった作品だけになります。

つまり僕は、受動的に「人の言葉」に触れる機会がほとんどないまま育ってきた人間です。
だからこそ、一度自分で選んで観た作品は細部まで記憶に残っていますし、セリフのひとつひとつも、明瞭に思い出せます。
その言葉がどういう場面で使われ、どういう間で、どういう温度で語られたのか
そういった選び抜いてこそ得られたその記憶が、そのまま僕の言葉の根っこになっている気すらします。

映像作品の中には、日常生活ではまず聞くことのないような表現や語彙、美術的な言い回しが散りばめられていて、そういう発見に出会うたびに心を撃ち抜かれます。
「こんなにも美しい言葉が存在していたのか」と、素直に感動しますね。
お涙頂戴には泣きませんが。言葉が美しければいいよ。

そして、それを自分の中に棲まわせたいと思うね。
理由は単純で、かっこいいしその方が美しいから。
そういった言葉の美への憧れが、今の僕の表現の輪郭をつくってきたのかもしれません。

逆に。。って別に、テレビを悪く言う気は本当にないんだけど、
たまにテレビを目にして驚くのは、学びたくなるような言葉の表現がほとんど無いこと。
むしろ、語彙の粗さや無意味な罵倒、響きの悪さにおののいてしまうよ。

そういった言葉が耳残ってしまうタイプなので、もしそれらの言葉を日常的に浴びていたら、うっかり真似てしまっていたかもしれません。
だから正直、テレビに触れなかったのは「楽しそうでうらやましい」と思うと同時に、「見なくてよかった」とも思っています。
SNSがあまり得意でないのも、言葉選びの乱暴さ・汚さに耐えられないせいです。

ここまで読んでくれたあなたなら、もうお分かりだと思います。
僕は、美しく洗練された表現が、ただ好きなだけです。

いくら物語が面白くても、脚本が美しくなければ、その作品とは最後まで付き合う気になれない。
「語られるべきものは、語り方によってこそ生まれる」
僕にとって言葉とは、そういうものです。

そういう感情で、僕の言葉はどんどんはぐくまれているのかもしれないね。
(舟を編む・聲の形 この2作品好きですよ。)