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 さて、久し振りのレッドデータコンテンツ図鑑ですが……レッドだ何だと言っているうちに実際に滅亡種が出てしまいましたよ、本当に。
 戦隊シリーズ、終了です。
 もっとも次回作は刑事物の特撮とも言われ、そう考えると規模を縮小しての継続と考えることもできましょうが。
 とは言え、よほど『ライダー』と差別化しないことにはどれだけ人気を得られるかは疑わしく、数年だけ続けて、結局はアニメに取って代わられるんじゃないかなあ、否、子供向けアニメが受ける時代でもないし、もうバラエティか何かになっちゃうかも知れませんね。
 まあ、ともあれこれを機に、ちょっと感じたことなど書き留めておきましょう。

・パロディ期

 その前に、戦隊初期の作である『ゴレンジャー』(1975)、『ジャッカー』については以前、記事にしたことがあります

 その時も同作の本質を「価値相対主義」だと述べました。観ていた方はおわかりでしょうが、本作の戦闘シーンはコントと化していたのです。怪人とのバトルはほとんどギャグ。必殺技が敵の怪人の弱点へと変形、怪人が間抜けな最期を迎えることはご存じの方が多いでしょうが、キレンジャーなんかは戦闘員とのバトルでもギャグをやっていたんですね。
 そもそもヒーローが五人いるという時点で、そこにデブやガキや(ミドレンジャーは原作では本当に子供として描かれました)女がメンバーになる。それによって「正義」を一人の超越的ヒーローが背負うのでなく、ある種の相対化、「誰もがヒーローになれる」世界観を形成したわけです。
 さて、ところが『ジャッカー』の後、『スパイダーマン』の一年を経て、復活した戦隊はロボに乗って戦うとか、石森章太郎の原作ではないとか、いろいろと前作までとの違いがありましたが、一番大きいのは「SF色が強まった」(これは『デンジマン』(1980年)からですが)、「パロディ色がより強まった」ことこそが、一番の変化ではないでしょうか。
『デンジマン』の敵は宇宙からやってきたベーダー一族。これは『ゴレンジャー』の黒十字軍が宇宙忍団と手を組んだと自称したり、『ジャッカー』のクライムが宇宙から来たシャインによる組織であると明かされるのと違い、当初より(そもそも正義の味方からして)宇宙由来であると前提して始まっている点がSF的であり、これは作品にある種のファンタジー性を与えていました。『仮面ライダー』や『キカイダー』が改造人間、人造人間というSF的設定を与えられつつ地上的であったのとは違い、作品のムードがやや現実離れしたものに変わってしまったのです。

 さらに顕著なのが「パロディ」性。
 やはり『デンジマン』など『ゴレンジャー』のパロディという印象が強かったことでしょう。『ゴレン』そのものもある意味では『仮面ライダー』のパロディという側面を持っていましたが、その『ゴレン』を真似たことで、よりパロディ性が高まったわけです。
 さらに、『ゴレン』はある意味、八〇年代的価値相対主義、ニヒリズムを先取りした作品と言えましたが、『ゴーグルV』(1982)でそれがさらに徹底されるようになったということに、目下なされているYouTube配信で強く感じました。
 先にも書いたように戦隊ではそれまでもギャグをやっていましたが、「キレンジャーのようなギャグ要員ではないメンバーが道化を演じる」、「敵の女幹部が子供におばさん呼ばわりされて怒る」といった描写は、これ以前のシリーズには見られなかったことです。
 正直、『ゴーグル』は初めてメインライターを受け持った脚本家、曽田博久氏の習作といったムードが強く、当時のオタクライター富沢雅彦氏にも「ブラックとピンクの人気だけでもっていると言ったら言いすぎか」と評されるなど、あまり評価の高い作品ではありません。しかし同時に、それこそ『タイムボカン』シリーズほどにまで正義の相対化をするでもなく、ある種「ひねりはないが、子供のための明朗な勧善懲悪劇」を書き上げた作品とも言えました。

・オタク期

 さて、ところがです。
 先にも挙げた、そして『キカイダー』の時にも言及した脚本家、曽田氏が戦隊のメインライターとなり、次第に作家性を発揮するようになります。

 顕著なのが『超電子バイオマン』(1984)。本作は初めて女性メンバーが二人になった戦隊として知られますが、これは(アナウンスでは女児向けとされているし、半分はそうでしょうが、もう半分は)オタク向けを狙ってのものでしょう。
 この頃からオタク世代のデザイナー、出渕裕氏がキャラクターデザインを担当し、敵幹部もいわゆる美形キャラ、美少女キャラ的なものが出てくるようになりました。『バイオ』の前作の『ダイナマン』で敵の女幹部が水浴びしている間に正義側がそのコスチュームを持ち帰ってしまい、ピンクに着せてしまうというおふざけ回があったのですが、これはもう、マニア狙いでしょう。
『バイオマン』では敵が人類に失望したマッドサイエンティストと設定され、しかし自分の生き別れた息子を忘れることができず、にもかかわらずその息子はレッドの父親である正義の博士が後見人となり、一丸となって戦いを挑んでくるなど、ドラマティックな展開が描かれました。
 脚本家の曽田氏は全共闘世代で、古いと言えば古いのですが、例えばその翌年の『チェンジマン』において戦隊の隊員が「女の子にモテたくて防衛隊に入った」と吐露するなど、(まあ反体制と言うことではあるのですが)それまでの四角四面の正義漢ではなく自らの欲望を持った、血肉を持ったヒーローというものを描き出したのだと言えます。
 ぼくは近年、オタク敗北論をよくぶちます。
 それは八〇年代から九〇年代に至るまで、オタクというものが疎まれ蔑まれつつ社会へと影響力を持ち、その文化を拡張させてきたという実感があるからであり、八〇年代の戦隊もまた、そんな機運のまっただ中にいた、と言えるのです。
 そんな中、八〇年代の曽田戦隊は(当時のアニメと異なり)決してオタク自身が作り手に回ったオタク謹製の文化ではないとは言え、若者文化としての広がりを持つに至ったのです。

 さて、その傾向は『ジェットマン』(1991)で極まることになるでしょうか。バブル期、いわゆるお洒落な男女の恋愛ドラマ、「トレンディドラマ」が流行した時期に、同作は井上敏樹氏をメインライターとして、「戦うトレンディドラマ」と呼ばれる作品となりました。
 井上氏はオタク嫌いだと伝えられますし、作風もオタク的というわけではないのですが、ある意味、目線がマニア世代にほぼ重なりだしたのがこの時期と言っていいでしょう。企画書などを見てもやたらと設定などが凝ったものになり(この傾向は「ミノフスキー粒子」という設定を配した『ガンダム』から十年遅れではあったのですが、ともあれ)「大人の鑑賞に堪える作品」が現出したわけです。
『ダイレンジャー』(1993)ではある意味でそれがさらに推し進められ、メンバーのモチーフが中国の神獣(リュウレンジャー、シシレンジャー)、関係者の名前も『三国志』から採るなどやたらマニアックな作風に。恐らくですが、この頃から作り手に若手(オタク世代)が流入したんじゃないでしょうか。すみません、この辺りになると裏事情についてもあまり詳しくなくなるのですが。

・主婦期

 はい、こっからさきはあんまり愉快な話じゃなくなります。
「ある時期から戦隊シリーズは子供といっしょに見てるお母さん受けをよくするため、イケメンを起用するようになった」。
 これは事実です。その事実を、客観的事実を指摘しただけで、(近年はSNS全体にの反フェミ的気運が強くなりましたが、一昔前まで)人でも殺したかのように集中砲火を食らうというのがネットのお約束でした。
 何故かとなると、rei氏の新記事「女性は何故真実や証拠を憎むのか?」を見ても了解が可能になることと思われますが、同時に目下再録中の『トクサツガガガ』関連記事を見てもおわかりになるかと思います。

 女性の欲望の本質はその欲望自体を隠蔽することにあり、ぼくは拙著において「女のセクシュアリティの本質は男を悪者にすることそのもの」だと表現しました。そしてフェミニストがそれを立証し続けていることは、みなさんが毎日目撃している通りです。
 さて、まあ、そんなわけで『ギンガマン』(1998年)辺りから今に至るまでイケメンライダーならぬイケメン戦隊が続くことになります。勢いお話は女性に快を与えるものとして作られるようになり、これはまた、『タイムレンジャー』『トッキュウジャー』(2014年)など多くの作品を女性脚本家の小林靖子氏が手がけるようになったことも、一助となっているように思います。
 Xでも書いたし、大昔、動画でも採り挙げたことがありますが、『トッキュウジャー』に出て来た怪物のお姫様など、最たるモノですね。
 悪の帝国のお姫様が、(何しろ人外の存在なので)醜悪奇怪な怪物だが、箱入り娘的存在なので、本人は悪者ではない存在として描かれたのです。この、「バトルと関係ないキャラ」というのがよく考えればヒーロー作品としては不純物(出すなというわけではないけれども、考えてみれば扱いの難しい存在)なのですが、近年の戦隊ではそうしたキャラが味方側にも異常なまでに増えました。
 何故か。
 言うまでもなく「自分は何もしなくても男が戦って自分を守ること」が女性にとっては何より大事だからです。その意味でモモレンジャーを元祖とする「戦うヒロイン」は今の特撮においては本当に、存在理由のない厄介者となってしまったわけです。
 さてこの怪物、化け物のくせにふりふりのドレスを着て、日高のり子の声で話すというキャラ。しかも、それが(悪の)イケメン王子とフラグを立てるのです!
 このキャスティングには恐れ入りました。「日高のり子に無様な化け物を演じさせ、その姿に『可愛い』と声援を送る」という構造を成立させた辺りに、女性たちの南ちゃん的女性へのおぞましいまでの憎悪というものを、作り手が知り抜いていることが窺えます。
 いえ、こう書くと反発を覚える人もいるでしょう。
「いや、あれは姿は醜くとも心は美しいキャラとして成立しているのだ」と。
 しかしそれこそが、このキャラの上手いところなのです。
 もちろんそうした見方ができるようにちゃんと作られていたし、女性も(表面上の心理では)健気なその怪物に声援を送っていたに違いない。
 ですが、それではそこに醜い女を下に見る心理がなかったかと言えるでしょうか。
 その意味であのシリーズは「女向けのブスキャラ博覧会」の様相を呈していた。正義側の婆さん含め、よくぞここまでと感心させられる「ブス運用」をしていたわけです。

 八〇年代からゼロ年代辺りまで、悪の組織には色っぽいおねーちゃんがいるのがお約束でした。九〇年代以降、作品が『パワーレンジャー』としてアメリカに輸出されるようになると、撮影の便を図って(海外にも着ぐるみを送れば撮り足しができるよう)悪の組織に人間のキャラはいなくなりましたが、「お色気ねーちゃん」はそれでも一応、配されていました。
 また、この種の作品ではお色気ねーちゃんが悪の組織の一員として女性のネガティビティを表現し、戦隊の女性メンバーがポジティビティを表現するといった具合に使い分けがなされていたわけです。
 が、いつからかお色気ねーちゃんの登板もなくなり、要は戦隊には「女戦士」と「ブス」という二種の女性キャラが配されるようになったのです。
 先にも述べたように、別に絶対に「戦いに関わらないキャラ」を出すなと言っているわけではないし、『トッキュウジャー』のキャラも、ドラマの中で上手く描かれた、よいキャラだったでしょうが、ぼくが言っているのは本来、男の子(これは大きなお友だち含め)向けに作られた作品が、(高齢)女性にそこまで配慮していることは、やはり健全ではないのではないか、ということなのです。
 これも幾度も書いていることですが、七〇年代の変身ブームの時期は核家族化が進み、また主婦がヒマになり子供の教育に熱を入れるようになった時期であり、そうした母親が「ママゴン」と怪獣呼ばわりされることもありました。
 同時にヒーローたちは(忙しい父親に代わり)ママゴンから男の子たちを男性原理の世界へ誘う王子様の役割を担っていました。
 この時期には「教育ママが怪獣や悪の組織の存在を信じてくれないが、ヒーローは信じてやる」、「息子を防衛隊に助けてもらいながら、母親が『あの人たちは仕事なんだから当たり前だ』と不遜に振る舞う」といった描写がよくなされておりました(後者など、左派寄りで軍隊を否定したいはずの円谷プロがしていたのが可笑しいというか、よほど母親に対して腹に据えかねていたのかと思います)。
 しかしもし、現代において脚本にこんな描写を入れたら、そいつはただちに死刑でしょうね。
 そうした状況がそんなにも好ましいモノか、ということが、ぼくの疑問なのです。

・最末期

 ……と書きましたが、すみません、ここしばらくはHHDに録り溜めてのざっと見で、『ゴジュウジャー』に至ってはそのHHDが壊れて、観てません。何か歴代戦隊を蔑んでいるという話も聞こえてきて、あまり観る気もしなかったのですが。
 ただ、戦隊の終了に関しては少子化が一番の理由とされますが、となるとそれは同時に少母親化でもあります。
 前回記事「ショウジョマンガガガ(再)」においては本シリーズを、「息子のつきあいという言い訳を用意してあげて、ママにホストを鑑賞する楽しみを与える番組」と定義し、(女がいかに「言い訳」を必要とする存在かを考えれば)少母親化の昨今、そうしたビジネスモデルが成り立ちにくいんではないかなあ……といった説を提示しました。
 基本、それが正しいと思うのですが、せっかくなのでもう一つ、説を提示してみましょう。
 変身モノ、勧善懲悪モノは女性にとってまたとない「言い訳」を用意してくれるジャンルになり得るのです。「女は善悪の区別はつかない、快不快で物事を判断しているだけだ」などと言った説が喧しい昨今ですが、何、女性に逆らう者を絶対悪として描けばいいだけなのですから無問題です。
 悪者側の男性が正義側の「戦わないエラい女」に言い寄ってくる。正義の男性が悪者をやっつける。何なら断末魔に求愛を続ける悪者に、エラい女が何か辛辣な一言を見舞ってやる。
 そうした描写――まあ、子供の教育にはよくないでしょうが――を繰り返せば、女性たちの支持を得ることができるでしょう。
 この世に負の性欲のある限り、ヒーローは不滅です。