昨日Twitterでフォロワーたちがやっているのを見かけた
「私を構成する9つのゲーム」
https://my9games.com/
単に「好きな」とか「思い入れのある」とかではなく、【私を構成する】という言葉に惹かれた。
【構成する】ということは、自分の体や頭(考え方、感じ方)やプロフィールの一部になっている、ということである。
「今の自分のものの考え方、感じ方に決定的な影響を与えたゲーム」
「このゲームなくしては今の自分はありえないというゲーム」
そういうものを指すはずである。
完全な自己満足であるが、これを知って幾分か考えてみた結果を発表したい。
①スーパーマリオブラザーズ(任天堂、1985)
言わずと知れたTVゲーム界の金字塔。原点にして頂点。
私は1983年生まれの42歳(43歳になる年)であるが、人生で初めてプレイしたゲームがこの『スーパーマリオブラザーズ』だった。
(本当はゲーム&ウオッチの「ファイア」が先だったかもしれないが、なんせ2歳の頃なのでそのあたりの記憶は曖昧だ)
これはTVゲーム界隈ではけっこう知られた話なのだが、
この『マリオ』の最初のステージ・1-1のデザインは本当に秀逸である。
ゲームを始めると、画面の左端で、右を向いて立っているマリオ。
何の説明もないのに、ほとんどのプレイヤーは右に向かって進み始める。
実はこれ、開発者の計算通りの現象だというのだからすごい!
少し右に進むといきなり出てくるクリボー。
Aボタンでジャンプできるということを知らなければ問答無用でやられてしまう。
(1-1の最初に出てくるクリボーが、これまでに世界で一番プレイヤーを倒したTVゲームのザコキャラらしいという話を聞いたこともある)
ジャンプを覚えたプレイヤーがクリボーと同時に目にするのは、【?】と書かれた光るブロック。
これは何かあるだろうと思わざるを得ない。
先ほど覚えたジャンプでこれを叩くと、中からスーパーキノコが登場。
「これは体に触れても大丈夫なものか??」
疑心暗鬼のまま、目の前に迫って来るキノコに触ってみると、なんと体がでかくなる!!
※ちなみに当初、マリオはでかマリオがデフォルトのサイズだったが、
「いや、マリオは小さくしよう、そのほうが面白いだろう」
と開発中に閃いた宮本茂さんの案によって
スーパーキノコを取ることで ちびマリオ→でかマリオ とサイズが変化するようになったらしい。
さすが世界のMIYAMOTO。
その後は、
・少しずつ高くなる土管(大ジャンプしないと越えられない)
・落ちると即死の穴(大きく横移動しながらジャンプしないと越えられない)
・ファイアマリオ(第3形態)
・10コインブロック(コイン100枚で1UP)
・ノコノコ(踏んでも甲羅が残る敵)
・スーパースター(一時的な無敵状態)
と、慣れれば1分もかからない短いステージの中にこのゲームの基本要素のほぼすべてが登場する。
そして実は隠れ1UPキノコブロックや地下ボーナスステージも仕込まれている。
「基本コンセプトは1-1で示しました、あとは応用編です」
という感じだ。
最初にこの基本コンセプトを、なるべく言語的な説明に頼らず自然な形で示して、
その後に応用編が様々なパターンでいくつもやって来る、
というのは任天堂のアクションゲームのDNAとして40年以上受け継がれている要素であると感じていて、
これは例えば近年の『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』の祠などでも顕著に表れている。
任天堂のゲームをプレイしていると、コンセプトゲー、コンセプト面(ステージ)、という言葉を私はよく言ってしまうのだが、
それだけ至るところに《基本コンセプト→応用編》という構造がちりばめられているということなのだと思う。
『マリオ』1-1のデザインの秀逸さについての話は初プレイ時からだいぶ後になって、
高校生活も後半の頃に知ったものだったが、
2~3歳の子供の時にそれを肌感覚で感じ取っていた、そういう素晴らしいゲームに出会えたということが大きかった。
こういった様式の大事さ、構造的に美しいという感覚を私の体と脳に植え付けたゲームということで、
今回の9選でこの『マリオ』は絶対に外せない1作だ。
②FINAL FANTASY VII(スクウェア、1997)
1996年、中学1年の冬。
次世代機はニンテンドー64しか持っていなかった私に毎日しつこく
「プレステ買おう」「プレステ買おう」
と勧誘してきた同じクラスの2人組がいた。
「プレステ買わないの?」「なんで買わないの?」
彼らのあまりの圧に私は折れ、1996年内にプレステことPlayStationを購入し、
冬休み期間、64の『マリオカート64』のタイムアタックに精を出す合間で
別の友人から借りた『パラッパラッパー』を少しプレイしてみた。
※この時たまたま手に取った私にとっての初のプレステソフトは、史上初の音楽ゲームとも言われる、ゲーム史的に重要なものだったりする。
冬休みが明けて1997年1月。
「FF7は買うよな」「FF7はもちろん買うよな」
まあそのためにプレステ買ったようなものだからな…
「もう今月末だぞ、予約はしたか?」「もう今月末だぞ、わかっているのか?」
うるせえなあと思いつつ、しかしそんなに言うならばと『FF7』のソフトをデジキューブで予約し、
発売日の1月31日、まだ夜が明けきらぬ早朝6時台に家を出て、凍てつく寒空の中を駆け抜け、7時ジャストにセブンイレブンで受け取った。
そして31日、学校が終わって帰宅後の夜と、2月1~3日の入試休み期間で計15時間ほどプレイした。
じっくりやっていて、コレルプリズンを抜けたあたりだったかと思う。
2月4日、例の『パラッパラッパー』を貸してくれた友人にプレイ時間を聞いたところ45時間と言った。
「よ、45時間!?」
嘘だと思って学校終わりに彼とともに家におじゃました。
プレステを起動してもらってテレビ画面に表示されたのは、本当にプレイ45時間、全クリ後の謎の雪の大地に立っているクラウドの姿。
聞いたところ、2月1~3日は睡眠時間以外は全部FF7をやっていたらしい。
「飯は?」
「そりゃ食いながらできるじゃん」
なかなか狂気に満ちている。
こういうやつが身の回りに普通にいたというエキセントリックな中学校生活。
『FF7』の内容についてはいろいろなところで散々語り尽くされているのでここでは語らない。
私もかなり好きなゲームであることは間違いない。
だがしかし、この『FF7』が大きな分水嶺となり、
「映像で魅せるゲーム」が日本のTVゲーム界隈の主流となっていった。
プレイヤーにどれだけ美麗なグラフィック、高精細なムービーを見せて驚かせられるかに命を懸けているようなゲーム作品が増えてきたのである。
セガサターンからドリームキャスト、プレステ1からプレステ2へと
ハードスペックが上がることによってその傾向はより顕著となり、
ゲーム性は二の次とされてしまっているように当時の私には感じられた。
「だったら映画でいいじゃないか!
ゲームをいったい何だと思っているんだ!」
当時よく通っていた大型ゲーム店で怒りにも似た感情を抱きながら、JR秋葉原駅から総武線に乗って帰る日々を過ごしたことを鮮明に覚えている。
生粋の任天堂っ子だった私は、美麗化が進むプレステやドリキャスのゲームはほどほどに、
同時期に出ていた64の
『スーパーマリオ64』『ウエーブレース64』『マリオカート64』『スターフォックス64』『F-ZERO X』『ポケモンスタジアム』『ゼルダの伝説 時のオカリナ』
などをプレイして楽しんでいた。
こういったゲームは、本当に落ち着くし、わくわくするし、プレイ後の納得感・すっきり感もひとしおだった。
世の中にはたくさんのゲームが出ているけれど、
「本当に面白いゲームってどんなものだろう?」
「ゲームでしか味わえない体験ってどんなものだろう?」
「自分はなんでゲームをやっているんだろう?」
おそらく『FF7』自体にはそれほど罪はないはずなのだが、
そんな疑問を抱くきっかけとなった、私の心に強烈な印象を刻みつけている作品だ。
③ポケットモンスター 赤・緑(ゲームフリーク:任天堂、1996)
②と発売時系列が逆になっているのは、私がかつてプレイした順が③が後だったからだ。
『ポケモン赤緑(初代ポケモン)』の発売からすでに2年近く経過しようとしていた1997年、中学2年の11月。
ひょんなことから唐突に
「ポケモンって面白いのかなあ」
と思い始め、学校で聞いてみたところ意外とプレイしているやつが多いことがわかり、
ゲームボーイポケット緑と『ポケモン緑』をセットで購入。
最初の仲間はもちろんフシギダネ。
ストーリーを進めているだけでも面白かったのだが、
友人たちとの通信対戦の沼にハマってしまったらもう後戻りできなくなっていた。
対戦に出てきやすいポケモンの能力値と技、タイプ相性表を覚えることはもちろん、
セレクトバグでふしぎなアメやポイントアップ、わざマシン14・24・29などを増殖させ、
努力値を振るために四天王を周回し……などなど、
年明け頃にはすっかり廃人ゲーマーとなっていた。
私はそれまでゲームをそれなりにやってきた人間ではあったが、
1人で集中して黙々とプレイするか、あるいは
逆に友人の家に集まって誰かがプレイするのを見ながらわいわい喋る(ゲームはついで)
というような感じのどちらかだったため、
「ゲームを通じて人と密に交流する」という経験がなかった。
『ポケモン』はそれを容易に可能にしてしまったのだ。
『ポケモン赤緑』は私のゲーム体験に1つこれまでとは明らかに別の基軸を作り上げた点で
とても大きな意義のあるゲームである。
また、実は私が現在名乗っているセピアという名前の名づけ親は、この頃によくポケモン対戦をやっていた友人だ。
というより、その彼がゲーム内で名乗っていた名前がセピアだ。
初心者の私にいろいろと優しく懇切丁寧に教えてくれたのだが、
私がゲームに慣れてポケモンがまともな戦力として育ってきた後でも
彼はどうにも強くて私はなかなか勝つことができず、
自分の中で理想のゲーマー像の1人として強烈に刻まれたのだった。
いわば私はセピア2世なわけである。
しかし自分自身がセピアと名乗ることになるのは、もう少し後のことだ。
さらに、初代から最新作のスカーレット・ヴァイオレットまで全世代の作品に触れてきている者として、
ポケモンというものがこれだけ老若男女に広く愛されるものになったことを本当に微笑ましく思っている。
私が初代をプレイしていた頃は、ポケモンは完全に子供のおもちゃというイメージで、
先ほど私の学校でプレイしているやつが意外と多かったとは言ったものの、
みんな「恥ずかしいけど実は年甲斐もなくやっている」という感じでひっそりとプレイしていて、
中3、高1あたりになると「お前まだポケモンとかやってんのかよ」という軽蔑の眼差しで見られることが多かった。
また、中学生の私や友人が東京八重洲にオープンした《ポケモンセンタートーキョー》
(ゲームやCDのほか、ポケモンのぬいぐるみ・文房具・日用雑貨などの各種グッズを販売するリアル店舗。東京八重洲が1号店だった)
に行くと親子連れのちびっ子たちが多くて、
「大きなお友達」の我々はけっこう浮いていて肩身が狭い思いをしたものだった。
大人のポケモンファンの皆さん、今はどうでしょう?
少なくともポケモンをプレイしたりポケモンセンターに行ったりするだけで
「幼稚」「恥ずかしい」と見なされることはほぼなくなったように思う。
不遇の時代を耐え抜いたオールドファンとしては嬉しい限りだ。
今では親子2代、あるいは親子孫3代でポケモンファンというご家庭も少なくないだろう。
これからもポケモンが世代を超えて長く愛されるものであってほしいと心から願っている。
④beatmania 2nd MIX(コナミ、1998)
私は中学高校で、吹奏楽(ブラスバンド)と合唱(コーラス)を両方やるという
今考えるとなかなかに摩訶不思議な部活に入っていた。
『パラッパラッパー』を私に貸し、『FF7』を3日間で45時間プレイした例の彼はこの部活でフルート吹きの同輩だった。
部活の環境は恵まれていた。厳しくも優しい、そんな先輩や同輩たち。
はじめて後輩を持った時、人間関係的なものをちゃんと考える機会となった。
音楽のことでも人間のことでも、よく泣いてよく笑い、よく怒ってよく喜んで、
酸いも甘いも高密度で経験していた1998年、中学3年の10月。
学校帰りの電車内で、例のあいつが
「beatmania買ったから今度ウチでやろうぜ~」
と言ってきた。
『beatmania』
その名を聞いたのはこの時が初めてだった。
先に言っておくと……
これまでの①②③は、自分のゲーム観や娯楽観、美的感覚に大きな影響を与えたものの、
仮にやっていなかったとしてもインターネットお喋りマン・セピアは生まれていたかもしれない。
しかし『beatmania』をやっていなかったらきっと今のセピアは生まれていなかった。
それほど私にとって大きな意味のあるゲームだ。
『beatmania』は、降ってくるオブジェクトを音楽に合わせてタイミング良く押してその正確性を競う、
いわゆる音ゲー(音楽ゲーム)のパイオニアのようなゲームだ。
これ以前にも『パラッパラッパー』などの音ゲーは出ていたものの、
世の中の多くの人が音ゲーというジャンルを認識するきっかけとなったのはこのbeatmaniaだった。
beatmaniaは最初、ゲーセン(ゲームセンター)用のアーケードゲームとしてリリースされ、
約1年後に家庭用(PlayStation)移植版が発売された。
私は友人宅でこの家庭用に最初に触れたわけだが、
まもなく本場のゲーセンにも足を運び、派手なモニター演出と大音量サウンドの空間を体験することとなった。
ゲーセン文化の歴史を考える時、
beatmaniaはプリクラ(プリント倶楽部)と並んで欠かすことのできないものである。
1995年のプリクラ登場をきっかけとして、
それまで治安の悪い不良の溜まり場というイメージの強かったゲーセンが
次第に明るい遊び場・喋り場へと変わっていった。
そしてゲーセンのイメージが好転しつつあるタイミングで登場したbeatmaniaは、
それまでとは異なるゲーマー層を大勢取り込みながら
ゲーセンを単なる遊び場に留まらない文化の一大発信基地へと変えていった。
私もそうして取り込まれた人間の1人だ。
家庭用は2nd Mixだけど、ゲーセンには最新作の3rd Mixがあるらしい……
例の友人に聞けば、
「お前んとこの最寄り駅のゲーセンにもbeatmania入ってるんじゃね?」
まさか、目の前を毎日通っているあの場所に??
親や親戚に連れられてデパートの屋上プレイランドに行く機会は幼少の頃からそこそこ頻繁にあったものの、
ゲーセンに1人で行くという経験はそれまでには全くなかった。
そのゲーセンも、そこがゲーセンであるということは知っていたものの自分が行く場所ではなく、
別世界のお兄さんやおじさんたちが行く場所だという認識だった。
急転直下。
今日、自分が行く場所になった。
本当にドキドキしながら、正面玄関の手動ドアを押し開けて入った。
ゲーセンはやっぱり怖い場所かもしれない、
やっぱりここにはbeatmaniaは稼働していないんじゃないか、
そんな2つの不安が自分の脳内で交錯する。
直後、耳をつんざくような爆音で聞こえてきたHIP-HOP『s.d.z.』のシンセ音。
知らない曲、知らない音だけど、これがbeatmaniaの最新作に違いない、そう確信させるに十分なインパクトだった。
音の出所を探して奥へ奥へと進む。
プリクラの筐体を通り過ぎ、格ゲーコーナーやドリンク自販機を通り過ぎ、
一番奥に、beatmania 3rd Mixはあった。
「おおこれが、これが本場のbeatmaniaか!! すげえ!!」
(今これを書いていて改めて、この時の映像と音の感覚は
まるで昨日のことのように鮮明に残っているなと思う。
20年以上経っているのにこれほど鮮明な感覚を伴う記憶というのも珍しい。)
それからゲーセンなり、ゲームショップのフリープレイコーナーなりで、beatmaniaを毎日のようにプレイした。
1週間ほどした後、部活の朝練でドラムを叩いていると、
例の初プレイの時に一緒に集まったサックス吹きの友人から
「何かお前、最近リズム感変わったよな。すげえ生き生きしてる。」
と満面の笑みを浮かべながら言われた。
どうやらbeatmaniaの効果は覿面であるらしい。
beatmaniaはリズムを動体として可視化しているというのがとても革命的だった。
私の中で、それまでピアノやエレクトーンの経験だけではあやふやだった
リズムの「枠」のようなものがここでカチッと嵌ったような感覚がした。
結局高校2年の春休みに部活を引退するまで、
beatmaniaで培ったリズム感が自分が音楽をやっていく上で重要な柱となり続けた。
またbeatmaniaには様々なジャンルの楽曲が収録されているが、
10代の若い時にジャンルをまたいで様々な音を浴びた経験は、確実に財産となった。
そして何より、beatmaniaからポップンミュージック、ダンスダンスレボリューション、
ギターフリークス、ドラムマニア、キーボードマニアetc.と続く音ゲーを追いかけるために
高校生の頃に「ゲーセンに通う」ということが習慣化されたことにより、
その後のクイズマジックアカデミーとの出会いが必然となった。
果たして出会ってよかったのか、出会わなければよかったのか。
その意味で、beatmaniaは私にとって人生を変えた大きなゲームである。
⑤ゼルダの伝説 ムジュラの仮面(任天堂、2000)
(現在執筆中……)