
何かと話題の漫画、『みいちゃんと山田さん』が先日、衝撃の最終回を迎えました。
本稿では最終回の展開の意味、炎上させていた人たちの正体とその心理、そして本作のテーマや本質。その全てを解き明かしていきます。
もっとも、論考としては大変長いものになってしまったので、今回は前編。
後編は日曜にでもうpしようと考えております。
また、性質上、オチなどは全てバラしてしまいますので、未読の方は、以降はお読みになりませんようお願いします。
また、本作については動画やcoki様の記事でも語っているので、それも併せて見ていただければ幸いです。
――さて、「衝撃の最終回」とは言うものの、ネット上の感想を見ると、その衝撃はあまりいい意味ではなく、「肩透かし」という名の「衝撃」であった感が、少々強いようです。
展開の唐突感、消化しきれなかった各要素を考えた時、それも道理です。
「高橋たちはあのまま放置か」といった声も、気持ちとしてはよくわかります。「祖母はどうなったのか」、「ムウちゃんのママの意味ありげな描写は何だったのか(少々無理にでも「見て見ぬフリをした」という描写をしたかったのでしょうが)」など、疑問は多い。
ただ、本作はタイトルが示す通りあくまでみいちゃんと山田さんの話であり、高橋たちも祖母もどうでもいい……わけではないけれども、二の次三の次ではあり、その辺りの描写がなかったのは仕方のないところではありましょう。
一方、みいちゃんの顛末を知った山田さんの様子が描かれなかったのは物足りない、といった感想は非常によくわかります。そこはもう、言わずもがなで飛ばしちゃったのかもしれませんが。
内容に目を向ければ、あの山田さんの唐突な死と、そして冒頭から太って出てきたその辺りの描写があまりに予想外で、また読者にしてみれば意味を受け止めきれず、「何でそんな展開に」といった唐突感に一役買っていたように思われます。
まずはその辺りから見ていきましょう。
・体型変化と死の意味
山田さんは何故、太ったのか。そして死んだのか。
それは本作が『みいちゃんと山田さん』だからです。
さらに言えば「山田さんはみいちゃん」だからです。
みいちゃんとの別れの時に発せられた山田さんのセリフは白抜きで表現され、謎とされていたのですが、何と言っていたのか、本話で明らかにされました。それは山田さんの本名と、その本名故に、彼女もまた「みいちゃん」と呼ばれていた、ということでした。これ自体はまあ、大方の予想通りであり、逆に言えば読者たちもこの時点でもう、山田さんとみいちゃんが相似形の存在として描かれていたことを、何とはナシにでも読み取っていたということになります。
では、山田さんは何故、太ったのか。
それはみいちゃんがデブだからです。
この「デブ」というのは、(劇中で言及もされるとは言え)ぼくとしては漫画家がキャラを描いていくうちにその絵は自然と変わっていくものだから、「何となく、自然とそう落ち着いた」のではないかと想像していました。しかしこうして見ると、或いは「可愛くなさ」の表現として、計算の上でそうしていたのかもしれません。
みいちゃんは萌え絵で描かれているから「可愛い」けれども、「現実が見えてきた」ら、決して可愛くないただのデブチンである。
劇中でも男性に人気があったので、それなりに可愛いはずなのですが、作者としては「愛されない」存在としてのみいちゃんは、「可愛くない」「可愛くあるはずがない」という思いがあったのではないでしょうか。
それと同様に、「若い一時期だけ、夜職で男にちやほやされた山田の真の姿」はあのデブチンでなければならなかった。だから山田さんもまた歌舞伎町で鏡に映った自分の「現実が見えてきた」わけです。
もっとも、それは女故の甘ったれです。だっていかにみいちゃんが「疎まれる」存在だと言おうとも、じゃあツバサ君とどっちがマシでしょうか。それは丁度、女がよく「男が女の人生は楽だなどと言うが、それは美人を基準に言っている」という誤認をしていることと、「完全に一致」していますが、まあ、それは措くとして。
もう一つ、では、山田さんは何故、死んだのか。
それはもちろん、みいちゃんが死んだからです。
みいちゃんが死んだのは、彼女が「愛されない存在」であり、「この世に居場所が見つけられない存在」だからですが、「山田もまた」というのが本作の出した答えです。
ぼくは動画において、本作の最終回を「山田がみいちゃんの魂を受け継ぐ」というものであると想像していました。山田はみいちゃんを漫画に描くことでプロデビューしたのだから、これは「当たった」とも言えるはずですが、同時に「それによりある種の成長をする」と言った想像は「外れた」と言えましょう。
二人は成長できず(逆に言えば太るという間違った成長の仕方をしてしまったがために)死んでしまったのです。
・完遂されなかった自立
ちょっとここで話が遡りますが、みいちゃんの最期についても、触れねばなりません。
ぼくは動画において、みいちゃんの最期を看取るのは、山田さんだと想像していました。いまだ、ホントならそうあるべきだったと考えています。
しかし実際の展開が異なっているのは、ご存じの通り。
そして――すみません、また話が遡りますが――動画でも述べた通り、女性の描く漫画ってもうとにもかくにも年がら年中母親と葛藤していて、「お前らそれいつまでやってんの?」感があり、本作で山田母が現れた時も、「エロアニメで触手が女に絡みついているのを見た時」同様の「ああ、またか」感を覚えました。正直、あんまりいいと思わなかったんですね。
ところが宮城に帰ったみいちゃんが母に自分の宝物である衣装を奪われ、ケンカを始めた時は意外でしたし、期待感も持ちました。「あ、みいちゃんもやるんだ、それ(母親からの自立話)」と感じたからです。みいちゃんは一種のトリックスターで、彼女自身の内面話は描かれないかと思っていたら、そうでもなかったのかとちょっと感心したわけです。
事実、みいちゃんは家出をし、本当に一日ばかりの「自立」をしますが、そこで殺されてしまいます。そして――先にも書いたように、山田さんではなく母親が現れ、彼女の最期を看取ります。
ここについても母親が今までとは人が変わったようにあまりにもまともに描かれており、戸惑いもなくはありませんが、ともあれ母の背に負われ、愛を囁かれての穏やかな死を、作者はキャラへの愛情故に与えたのかもしれません。
しかしそれは同時にみいちゃんの母親からの自立を否定し、母親にある種の象徴的な「子殺し」をさせる展開を選び取った、ということでもありました。母親が刑に服したのも、象徴的であれ「子殺しをしたから」なのです。
みいちゃんは母親から自立叶わず、母親に殺されたのです。
そしてそれは、山田さんも同様です。
彼女はみいちゃんとの同棲を解消し、実家へと身を寄せました。考えるとそれ自体が非常に不自然な展開なのですが――さらに、それからも漫画の連載を続けた九年間に至るまでを、彼女は母の元で過ごしていました。何故、せめて仕事場と称して別宅を借りるなどの選択をしなかったのかがよくわかりませんが、いずれにせよ最終回で彼女は母の愛を留保つきであれ受け容れることで、自立を断念しています。
そこで摂食障害を抱え――むろん、母親は「頼むから何か食べてくれ」と繰り返していたものの――母との葛藤で彼女が異食症を患っていたことを考えると、やはりこれはその延長戦にある描写と取っていい気がします。つまり山田さんもまた、母に殺されているのです。
あるノーターさんが、ここで山田さんの作品の最終回が絶筆になっていることを指摘していました。つまり山田さんは漫画家になることで自立するはずが、ぎりぎりでそれが叶わなかったとも言えるわけです。
もっとも、ノーターさんはこれを「山田さんがみいちゃんとは何だったのかとの問いに、答えを見出せなかった」ことの象徴としていました。それが本作の未完とも言える消化不良な最終回との、メタ構造を有しているとも言えましょう。
そしてそれは――これもまた別に指摘していたノーターさんだか何だかがいた気もしますが――炎上に深く関わっていることでしょう。
本来の山田さんが抱えるべき問いは「みいちゃんとは何だったのか」「何故私はみいちゃんが好きだったのか」だと思うのですが、最終回の彼女は専ら「何故みいちゃんは殺されなければならなかったのか」という問いに拘泥し続けます。
それは作者が「何故本作は炎上しなければなららなかったのか」を問い続けている姿にも、見えます。
・誰が本作を炎上させたのか
ここでちょっと、ここしばらくの本作の炎上について考えを巡らせましょう。
そもそも、本作は今までもネットなどで常に話題となっていましたが、その時に見られた論調はみいちゃんに対する不快感の表明であり、話が進むにつれそれは過激化していきました。
確かにみいちゃん(そして山田さん)は話が進行するにつれ「困った子」といった描写がなされるようになり、そうした感想も故のないところではないのですが、そこでは「害獣」「植松は正しかった」など一線を越えた物言いが、普通になされていました。
そしてこれについて、ぼくは動画で「炎上」させていたのは女性である、と推測しました。まず第一に、本作自体が女性向けと言えますし、みいちゃん自身が「知的能力の欠落故にセックスについてあまり考えを巡らせないままに奔放に性行為を行い、それ故に男性にモテる」という女にとっては羨望と憎悪の対象となる存在だからです。
しかし、アニメ化の報を境に、「炎上」の性質が大きく変わりました。「この作品自体が差別的コンテンツであり、アニメ化は許せない」といった論調になってしまったのです。
以降、便宜上、この前期の炎上を「ファンによる炎上」、後期の炎上を「アンチによる炎上」とします。しかしそうは言っても、(そもそもが元から、ファンとアンチが結構入り混じっていた印象があることもあり)この「ファン」と「アンチ」とは、層が被っていると、ぼくは考えます。もちろん、きっかけとなった署名運動を始めた者など含め、一部は異なるでしょうが、おそらく多くの層は以前と変わっていないのではないでしょうか。
ネット上のことですし、真相は藪の中とは言え、例えばですがふたばちゃんねるなどではずっと本作のスレッドが立てられ続けており、アニメ化発表以前と以降で急にがらりとその参加者が変わった、というのはちょっと、考えにくいのではないでしょうか。
この炎上について、もちろんぼくは肯定的に見ていません。署名でアニメの制作が中止させられるなどあるべきことではないし、そもそもそうしたアンチたちの物言いはリクツとして成立しているとは言い難いからです。
炎上の理由はいくつかありましょうが「本作がまず、差別的コンテンツである」というのが第一義であり、それに付随して作者や編集者の行状が槍玉に挙げられている、といった印象です。作者が女衒だとか反社と関わりがある、などとも最近言われていますが、それってスカウトをやっていたとか、頂き女子りりちゃんとかと(それも逮捕前に)会っていたってだけのことですよね?
しかしアンチが前提視、自明視している「本作は差別的コンテンツである」という見方は、本当に正しいのでしょうか。
そこはもう、はっきりと間違いであると言っていいでしょう。
これはむしろ以前には自然に見られた論調ですが、例えばムウちゃんは(その辺りがぼかされているみいちゃんと異なり)明らかに障害を抱えているが、一応は社会に適応しており、みいちゃんにそそのかされて悪いこともしているものの、基本はいい子として描かれています。
つまり本作がみいちゃんをして「障害者などみな、こうした悪辣な人間なのだ」と描いた作品であるとは、相当のひねた見方をしない限り言い難く、アンチの主張はもうここで破綻しているわけです。逆にその言い分を受け容れると、よく言われるように、障害者なりマイノリティなりをフィクションに登場させる場合、全員全く悪いところのない聖者として描くしかなくなるわけで、そんなことは到底認められません。
もっとも作者や編集者なども、そうしたファンの言説(みいちゃんは害獣)に「乗っかった」面は少なからずあります。編集者の「みいちゃんが堕ちていくところを見たい」発言などはその代表ですし、そこは確かに軽率だなあとは思います。しかし重要なのはそうした言説はまず、ファンにこそ端を発していたということです。
さらに言うなら――今回、話があっちこっち飛んで恐縮ですが、しかしそうしたファンなり編集者なりの言は、「絶対に許されないこと」でしょうか。
ぼくが中学生の頃、教師から聞いた話があります。事故か病気かで腕だか足だがかが不随になった人物がいて、その人物を見舞った時、当初はその人物が「腕が動かなくてさ。切り取って捨てちゃうか」など軽口を飛ばすのに対して、何一つ言えなかった。だが、そのうち、「おう、そんなモノ捨てちまえ」とリアクションできるようになった。
こういう話、どっかで聞いたことがあるんじゃないでしょうか。伊集院光もラジオで、障害者の草野球チームが「おう片腕野郎」「義足のクセにエラそうに言ってんじゃねーよ」などとじゃれあっていたことを話していました。
彼らにとっては障害は日常そのものであり、日常であるが故にそうした軽口も出てくる。軽口で笑い飛ばすのはある種、当たり前なのです。
本作のファンの悪口も、ぼくも積極的には好ましいと思いませんが、近いところがあったと思います。ぼくたちは、みいちゃんの友だちでした。だから友だちへの軽口としてみいちゃんへと非道いことも言った。でもそれはおそらく、愛情――ばかりでなく愛憎半ばの、しかしそれでも友だちだからこそ口から出た言葉でした。
・炎上の与えた影響
さて、ぼくは先にファンとアンチが被っていると書きました。
先に指摘したように、「本作は差別的コンテンツである」という主張を考えた時、この推察は奇異に映るかも知れません。「差別的」なのは作中描写と言うより、ファンのリアクションそのものだからです。作り手が「乗っかった」面も多々あるとは言え、仮にファンとアンチが同一人物ならば「お前が言うな」ではないのか。
もちろんそうなのですが、以下のように考えてはどうでしょう。
「アニメ化の報」は彼女らをして、こっそりとした楽しみを覗かれたような、暴かれたような心情に至らしめた。言うなら男子と女子で集まって、こそこそとエロ動画を見ていたら、先生がやってきた。慌てた女子は「男子に騙されて、無理矢理こんなものを見せられた!」と言い出した。
本作の炎上の本質は(仮にファンによるものとするならば)ぼくにはそのようなものであると思われます。
女性は往々にして、自分がホストクラブ通いをするのは「ホスト君が待ってる」から、推し活をするのは「推しに望まれているから」といった世界観を持っています。責を自身で引き受けることがたいそう難しく、「外界が私へとそのように強いた」と解釈してしまう。
本作自体がある種、そうしたポルノとしての側面を持ってもいます(だって、男は全て外界から、害をなしにやってくる存在として描かれるのですから)。
「私たちは障害者差別をさせられられられられられられられた」というのが彼女らの心象風景なのではないでしょうか。
誰によって?
もちろん、作者と出版社によってです。
アニメ化の報が、彼女らには世間の目(上の比喩で言う先生の乱入)に見えた。
そこで今までみいちゃんに(愛情もあれ)過度な行きすぎた罵倒をしていたファンに、「スーパー賢者タイム」が訪れた。
本作のテーマは山田さんとみいちゃんの不器用で歪んだ友情でしたが、炎上もまた、同様でした。いずれも「クレイジーサイコレズ」だったのです。