
さて、金曜日の続きです。
未読の方はまず、そちらからお読みいただくことを強く推奨します。
『みいちゃんと山田さん』――最終回と炎上を読み解く
一時期危ぶまれていたアニメ化も進行しているようで、まずは一安心といったところですが、今回は『みい山』がフェミ漫画であり、アンチフェミ漫画でもあることを語った上で、総論に入ります。
では、そういうことで……。
・Colaboの本で会った人だろ
『Colabo攻撃』という、仁藤夢乃師匠の著作があります。
要は自分たちの活動を正当化し、攻撃は不当だと言い募る書なのですが、そうした本筋は措きます。
同書では田中優子という人物が寄稿しています。法政大学の総長と言うから、随分エラい人なのですが、ここでこの人は以下のように言っています。
2016年から始まった「私たちは『買われた』展」は、直近では2025年3月22日、23日に一橋大学で開催された。この展覧会に足を運んだ方々は、そこに自分を見なかっただろうか? 親の精神的・物理的暴力が中高生を家の外に向かわせる。
仁藤夢乃さんは著書の中でご自身の母親について書いているが、私の母も似たような人だった。幸い父が権力を誇示しない穏やかな人で、わが家は出ていかねばならないほどではなかった。しかし父の競争心のなさと収入の低さ(父は貧困ゆえに戦前の小学校しか出ておらず、検定で高校卒業資格を得た)に母親は苛立っていたし、その競争心を私にも求めたが、私は父に似て「競争心」が腑に落ちず、一度も身につけたことはなかった。
母親が悪くて父親が悪くないなら、フェミニズムになんてハマらなければいいじゃん! 何やってるんでしょう、この人たち。
いえ、少なくともこれって、日本のフェミにとっては「あるある」です。
田嶋陽子師匠もそっくり同じことを言っていましたしね。
恐らくですが母親を恨みつつ、どこかで憎みきれず、一段階抽象化された男性という存在に責を押しつけることで、彼女らは精神の安定を図っているのでしょう。
そして先にも書いた女流漫画家あるあるを考えた時、これは(少なくとも日本の)女性にとって普遍的な世界観であるとしか思えません。
そう、『みい山』はやはりフェミニズム漫画としての一面を有していたのです。
既に動画などで繰り返していることですが、本作では「男」が漠然とした「夷狄」、つまり他所から来たワルモンとして描かれます。
彼らは(ごく一部のイイモンを除き)醜悪奇怪なモンスターのような容貌を持ち、女に害をなす。ツバサ君が出て来た時、さすがによくこれが発表できたなと驚いたものの、考えれば本作に出て来る男って基本、こいつと大差ないわけです。
そしてこれは、フェミさんの男性に対する解像度がとんでもなく低いことと共通しています。それは丁度、小学生がエロ漫画の女体の股間に、想像で女性器を描き加えたものの、本物を見たことがないためにわけのわからないことになっているような、そんな光景です。
本来の本人のリアルな不遇感は、母親への不満に端を発している。それでもまだ見ぬ男性こそが自身を苦しめている元凶であって(自分の苦しみは、男性から求められているが故であって)欲しい。
フェミニズムの教科書は、そうした妄想の描き込まれたエロ漫画であり、本作もまた、しかりであった。
・フェミになれなかったフェミたち
最終回、過去の自分を懐かしみながら歩く山田さんが、若い女の子から「ブタ」呼ばわりをされるというシーンがあります。
そこで彼女は鏡に映し出された「現実が見えてき」ます。
それは山田さん自身が本当に若い時期に一瞬だけ、夜職で「女」となることができ、しかしそれは仮初めのことであり、彼氏を得るなど叶わなかったことを示しています。
作者は夜職経験者であるような、実はそれが嘘であったかのような、発言のブレがあり、どうだったのか判然としません(し、そんなことはどうでもいいのです)が、例えばほんの一瞬、キャバ嬢をやったけれどうまく行かなかった、或いはそれこそりりちゃん的な夜職の女の子に取材したけれど、羨望と共に違和をも感じたとか、そうしたことがあったのではないでしょうか。つまり、夜職(に象徴される女子力)に対しての屈折した感情が作者をして本作を描かしめ、そしてそれを1pで表現したのが先のシーンであった。
みいちゃんは高橋の子供に襲撃されて反撃し、そしてそれがきっかけで殺されてしまいます。
当初の予想では、そもそも夜職をやっていたわけだし、レイプなり何なり性的な要素の絡んだ死であることが想像されており、ここもまた一部の読者にとっては肩透かしだったようです。
しかし、考えてみれば彼女は男に殺されたのだから似たようなものです――否、彼女を殺したのは、「家族」でした。家庭を持ち、子供まで持った、憎んでもあまりある「リア充」にこそ殺された。これは丁度、フェミニストが本当に憎んでいるのが男性ではなく、その男性に愛された女の方、その女の得ることのできた家庭であることと、相似形です。それは先のColaboの本を見れば、自明です。
山田さんが歌舞伎町で若い少女に「ブタ」呼ばわりされるのもそれと同様で、女子力を持った「リア充」に自らを否定されるという、これは「小さな死」のシーンだったわけです。
ギャングエイジという言葉があります。
小学校の中学年くらいから、子供は親の引力圏を抜け、同性同士の友人関係に強い意味を見出します。
繰り返すように、本作のテーマはみいちゃんと山田さんの友情であり、山田さんにとり、この友情は遅れてきたギャングエイジ的関係性であり、母親の引力圏から離脱するために、どうしても必要なものでした。
しかし、その友情は歪なものであり、同棲も破綻してしまいます。
これはまた、フェミさんがよくシスターフッドだのレズビアン共同体だの言うものの、それが浮っついた空論で、そもそもこの人たち、男に文句言う前に女同士の関係性を、女社会での距離の取り方をまともにわかってなくね? と思わせることと非常に似通っています。
それも道理です。男がどうこう言う前に、否、女同士の連帯がどうこう言う前に、彼女らはママからの独り立ちがいまだ、できていない存在なのですから。
本作は浮っついたことを言いつつ、いや、その「浮っついたこと」を親友との友情パワーで完遂しようとした、しかしそれは結局、挫折してしまったという物語でした。言うなら、本作は一面ではフェミ漫画でしたが、同時にアンチフェミ漫画でもあったのです。
だから、山田さんの魂はみいちゃんの魂に迎えられ、二人の関係はこれから、空の向こうで再構築されることとなったのです。
・それでも「私達の日々」はあった
ちょっと、本当なら不要なのですが、念のために付言しておかねばなりません。
この最終回に意味を見出せないアンチが、相当数いるように感じるからです。
アンチにとり、本作は(自身の差別心を引き出した作品である以上)差別を意図した物語でなくてはならなかった。そうした人たちは本作がみいちゃんと山田さんの友情の話であるとすら理解できず、「山田さんはみいちゃんを見下しているのだ」などと強引な解釈を重ね、それ故、本当に最終回が何を語っているのかすらも、理解が及ばなかったように思われます。
繰り返すように本作自身がバズりを狙い、みいちゃんへのヘイトを煽っていた側面はありました。が、宮城編という最終章に入り、その辺りは仕切り直されたと思います。
山田さんは終始、みいちゃんを恋しがっていますし、「自分で追い出しておいて何だ」という批判もわかるのですが、ともあれ彼女がみいちゃんを好きなのは、間違いがありません(ここは『神聖モテモテ王国』でファーザーを追い出した後、寂しげにしているオンナスキーのことを思い起こさせます)。
またあまり言われませんが、みいちゃんも妙に前向きになり、農家の手伝いの時にも「山田さんと会った時に褒めてもらうため、ちゃんとしたい」と語っています。
もちろん結果的には死が目前に迫っている中、その前向きさも無為なもので終わってしまうのですが、むしろだからこそみいちゃんにこうした発言をさせ、「悪いばかりの子ではない」と作者は強調した。ところが、既にファン(というよりアンチに足を踏み入れている層)はそれすらも認めることができなくなっていました。
恐らく作者にしてみれば「え? ここまでわかりやすく描いてもわからないんだ!?」といった気持ちだったんではないでしょうか。
そして最終回では、山田さんはみいちゃんが殺されてしまった理不尽さに憤り続けます。これは正直、描写としてはいささか生硬とも感じましたし、本来なら「自分にとってみいちゃんは何だったのか」が問われるべきだったかと思います。ただ、それでも、作者にしてみれば更にわかりやすさを重視して、思うところを言葉にしたのでしょう。
しかしそれすらも、多くの読者には届くことがなかったようです。
・『みい山』は令和の『エヴァ』である
みいちゃんは山田さんを解放する役割を担い、それは何割かは成功しました。
だからこそ山田さんは一応、漫画家として長期連載を勝ち取ることもできました。
みいちゃんは、「カヲル君」だったわけです。
そう、本作は令和の『エヴァ』でした。
もう、ご存じない層も多いかも知れないのでごく簡単にご説明しましょう。
『新世紀エヴァンゲリオン』は当然、庵野秀明総監督による、長期に渡って人気を博した作品ですが、元は94年に放映されたテレビアニメです。
本作、テレビシリーズの初期を見ていくと実のところよくできているとは言え、ある意味では王道のロボットアニメとも言えたのですが……その最終回で、大荒れに荒れたのです。
最終回(と、その手前の一回)は今までのストーリー展開の全てを放り捨て、冒頭に「尺がないので要点だけを描写する」と(本当にテロップで!)宣言し、キャラクターたちが延々、思うところを語り始めるのです。
同作には「人類補完計画」とは何か、「使徒」とは何かといったSFガジェットが巧みに仕込まれ、その謎がどう明かされるのかがポイントとなっていましたが、そうした展開を全てほっぽり出して、ドラマであることも放棄して、黒バックを背に、キャラクターが直接自らの心理を語ることで、主人公シンジの成長を最低限、描いて見せたのです。
当然、当時のオタクたちは怒り狂いました。
これって、『みい山』に似てはいないでしょうか。
『みい山』の最終回はドラマとしての体裁を崩したわけではないし、最低限のストーリーは語られましたが、それでも主人公たちの内面にのみ話を絞ったという意味では、やはり『エヴァ』的ではありました。
また、SNSにおける受け手からの悪評に反応した箇所があったのも、旧劇場版的です。
もっとも、ここは断っておかねばなりませんが、別にオタクたちはキャラたちの内面や成長といったテーマ、言うなら文学性が理解できなかったわけではありません。サブカル勢がそのようなデマを流し、また庵野に擦り寄ったせいで庵野自身、それに近い語りをしたこともありましたが、オタクは最終回も充分に理解して、その上で作品をまとめきれなかったことに怒ったのです。
が、今回の炎上はそうではなく、アンチは本作の文学性を端から理解することを放棄し、怒っているように思われます。
よく言うように、この十数年、ネットの影響で日本の文化は本当に壊滅的な打撃を受けました。
そもそも近年、『エヴァ』自体がシンジ君がなよっちい自分を反省し、田舎やマイルドヤンキーがエラいという、逆『みい山』のようなコンテンツに書き換えられてしまいました。
なろうなりYouTube動画なりソシャゲなりは本当に受け手の快感中枢を刺激する要素のみで成立する、工業製品となりました。受け手たちもただ、電気刺激を受け反応するカエルの足のような存在に成り下がりました。
小山晃弘氏は本作を「私小説」と評しましたが、そうした文学性、込められた作者の「内面」と対峙しようとする読者は本当に限りなくゼロに近くなっているように思います。それは、例えばエロゲ全盛のゼロ年代にはネットに溢れていた、オタクコンテンツの「考察サイト」などがほぼ壊滅していることからも、窺われます。
ファンが妙に、ココロたちにラブコールを送るのも、本来であれば「内面を持たない、損得勘定だけで世を渡る世間の連中」の代表として、ぶっちゃけ敵として描かれている彼女らにこそ、ファンたちが近いからでした。
『みい山』は受け手たちの『シンエヴァ』みたいなのにしてくれとの要求に振り回され、確かにそれに乗っかった部分もあれど、最後に『旧劇』足らんとし、しかしそれは受け容れられなかった。
テレビシリーズの『エヴァ』が「オタク(≠内面)の時代の到来」を告げた作品であったとするならば、『みい山』はその終焉を告げた作品であったのです。