magomeさん のコメント
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第59号 2013.10.22発行 「小林よしのりライジング」
『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりが、Webマガジンを通して新たな表現に挑戦します。
毎週、気になった時事問題を取り上げる「ゴーマニズム宣言」、よしりんの心を揺さぶった“娯楽の数々”を紹介する「カルチャークラブ」、『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成してもらう読者参加の爆笑企画「しゃべらせてクリ!」、漫画家キャリア30年以上で描いてきた膨大な作品群を一作品ごと紹介する「よしりん漫画宝庫」、珍妙な商品が盛り沢山(!?)の『おぼっちゃまくん』キャラクターグッズを紹介する「茶魔ちゃま秘宝館」、読者との「Q&Aコーナー」、作家・泉美木蘭さんが無限に想像をふくらませ、とことん自由に笑える「日本神話」の世界を語る「もくれんの『ザ・神様!』、秘書によるよしりん観察記「今週のよしりん」等々、盛り沢山でお送りします。(毎週火曜日発行)
【今週のお知らせ】
※戦前をどう捉えるか?戦争をどう捉えるか?近代をどう捉えるか?日本的なるものをどう捉えるのか?男女の関係性をどう捉えるか?そして死生観と職人の業をどう捉えるか?今週の「ゴーマニズム宣言」は、映画『風立ちぬ』を通じて読み取れる製作者や観客の心理背景を分析します!
※ウィキペディアの記事を徹底的に添削しちゃう大好評「よしりんウィキ直し!」。今週は、前回の「死闘・オウム真理教事件」から、息をつく暇もなく始まった次なる闘い「薬害エイズ」編に突入!薬害の加害者と、左翼市民運動家という異なる敵を相手にする二正面作戦を強いられた「薬害エイズ事件」、今明かされる真相とは!?
※『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて、一コマ漫画を完成してもらう読者参加の爆笑企画「しゃべらせてクリ!」。今回は少しひねったお題!毎回、快作を生み出す猛者たちは、果たして見事にひねり返すことが出来たのか!?
【今週の目次】
1. ゴーマニズム宣言・第61回「『風立ちぬ』をどう見るか?」
2. しゃべらせてクリ!・第20回「ぽっくんと柿野くんを見くらべて…?の巻」
3. よしりんウィキ直し!・第8回「ゴーマニズム宣言④:『新・ゴー宣』開始・薬害エイズ編」 4. よしりん漫画宝庫・第53回「『しんすけ』追記」
5. Q&Aコーナー
6. 新刊案内&メディア情報(連載、インタビューなど)
7. 読者から寄せられた感想・ご要望など
8. 編集後記 第61回「「風立ちぬ」をどう見るか?」 映画の感想は人それぞれで、正解があるわけではないが、その感想を通じて製作者や観客の心理背景を探ることは出来る。
宮崎駿監督最後の長編アニメ映画となった 『風立ちぬ』 ほど、賛否両論、観客に多様な感慨を抱かせる作品も珍しい。
それは戦前をどう捉えるか、戦争をどう捉えるか、近代をどう捉えるか、日本的なるものをどう捉えるか等々の命題が、製作者が意図せぬままに映画に込められてしまったからであり、観客の側も戦前・戦後の評価が定まらぬままに分裂しているからでもある。
リベラル・サヨクの評論家が、ゼロ戦に「 暗黒の時代の殺戮兵器 」とレッテルを貼ったが、なにしろ宮崎駿本人が、ゼロ戦の設計者・堀越二郎を主人公にすることに躊躇いを感じているのは明らかだ。
わしの小学生の頃は、『ゼロ戦レッド』『ゼロ戦はやと』『ゼロ戦太郎』『紫電改のタカ』などの漫画が大人気で、日本の戦闘機が米英機を撃墜する痛快さが少年漫画誌で堂々と描かれており、子供たちは無邪気にそれを楽しんでいた。
ゼロ戦や戦艦大和への憧れは、現在の子供たちのガンダムやエヴァンゲリオンなどへの憧れと通じており、子供の頃はわしもゼロ戦のプラモデルを作って楽しんでいたものだ。
少年漫画誌から戦時中のパイロットの活躍が消えるのは1970年代くらいからであり、朝日新聞や朝日ジャーナルが「日本の戦争責任」を追及し始め、旧日本軍の加害行為を過剰に報道するようになり、学生運動が過激化し、団塊の世代が急激に左翼化していった時代からである。
兵器マニアの宮崎駿が、テレビアニメにもなった『ゼロ戦はやと』を知らないはずはなく、ちばてつやの名作『紫電改のタカ』を知らないはずもなかろう。
兵器マニアは宮崎の童心であり、ゼロ戦を「殺戮兵器」と捉える感覚は、70年代以降に芽生えた宮崎のイデオロギーのはずである。
もちろんリベラル・サヨクの最近の言論人も、70年代以降に形成された空気に汚染された頭脳で、相変わらず自虐史観を唱えているだけのことだ。
「ゼロ戦はカッコいい!」それは単なる童心であるから、誰に恥じる必要もない。子供アニメを作ってきた宮崎が、大人向けのアニメを作った途端にイデオロギーに嵌ったというのが残念なことだ。
そもそもゼロ戦を「 殺戮兵器 」というのは間違っている。 ゼロ戦は 戦闘機 であって爆撃機ではない。
「殺戮」とは民間人を無残に殺す場合に使う言葉だが、 爆撃機は民間人を殺戮する可能性があるものの、戦闘機は敵戦闘機と決闘する兵器であって、民間人殺戮には使われない。
戦闘機が戦時国際法を違反する可能性は極めて低いのである。
したがってゼロ戦を描くことに罪悪感を持つ必要などないはずなのに、『風立ちぬ』には堂々たるゼロ戦の勇姿は描かれない。妄想の中のヘンテコな飛行機ばかりが描かれるので、童心を失わないわしとしては物足りない映画である。
それでも多くの大人が感動したと言うのは、日本人の職人的な気質と、控え目で節操のある純愛が描かれるからであり、戦前の人々の礼節と美しい風景がノスタルジーを誘うからであろう。
近代化されない美しい風景や、童心でしか見えない日本的な神々や精霊を描くのは、宮崎アニメの特徴なようだが、それが今まで大人の観客も増やしてきた要因となっている。
ところがまさにその前近代的なものへの憧憬が、近代主義者であるリベラル・サヨクの論客の反発を誘う原因でもある。
近代主義的なサヨクは、資本主義や情報社会を、「 時代を支配する重力 」と考えている。だからグローバリズムへの反発も、原発推進への反発もない。それは戦前回帰であり、前近代へのノスタルジーに過ぎず、そんなことを唱えている者は、「 重力に抗って飛ぼうとする 」ジジイとしか映らないのだ。
だがそもそも飛行機も鳥も重力に抗って「揚力」で飛ぶのであり、もし重力に抗わなければ、墜落して地上に叩きつけられるだけである。
グローバリズムも原発も重力ではないのだが、もし重力なら、抗って自然の力で軽やかに飛んだ方が良いに決まっている。
近代主義サヨクは『風立ちぬ』の二郎と菜穂子の関係性も、前近代的なマチズモ・男性優位だと非難する。これは大きな勘違いだろう。
常識を見失い、堕落し劣化した日本の言論状況に闘いを挑む!『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりのブログマガジン。小林よしのりが注目する時事問題を通じて、誰も考えつかない視点から物事の本質に斬り込む「ゴーマニズム宣言」と作家・泉美木蘭さんが圧倒的な分析力と調査能力を駆使する「泉美木蘭のトンデモ見聞録」で、マスメディアが決して報じない真実が見えてくる! さらには『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成させる大喜利企画「しゃべらせてクリ!」、硬軟問わず疑問・質問に答える「Q&Aコーナー」と読者参加企画も充実。毎週読み応え十分でお届けします!
今週のライジングを読んで、真っ先に思い出したのが「わしズム」で小林師範が描いていた「卑怯者の島」に登場する矢我欣也少尉と少尉の妻、弥生でした。なぜなら、「風立ちぬ」に登場する二郎の妻、菜穂子も矢我少尉の妻、、弥生の妻も病状は違えど、不治の病に侵され、余命幾許もない人だったからです。ただし、「卑怯者の島」と「風立ちぬ」で決定的に違うのは、「卑怯者の島」では妻、弥生は矢賀少尉に結婚を申し込まれた時に、不治の病を理由に「心身壮健な欣也さんに相応しくない女なのです」といったん拒絶する一方で「風立ちぬ」の妻、菜穂子は自身の病を伏せて二郎の結婚申し込みをそのまま受け入れて結婚が成立する所にあります。さらに、「卑怯者の島」では、結婚申し込みを断る弥生に対して矢我少尉は「俺も必ず御国のために死ぬ男だ!これほど釣り合う夫婦はなかろう。死が二人の媒酌をしてくれる。」と答え、結婚が成立します。そして、「二人の間に子供もなく、時を得ずに二人とも死んでこの世には何も残らない。今、この瞬間の生をひっそりと輝かせて、あの世で再び寄り添うのだ。」という解説が流れるのです。そして、矢我少尉は遠い戦地で最期を迎える直前に矢我少尉の母に看取られながら病床にて、死を迎える弥生を見て、「一緒になれる」と涙を流しながら死を迎えます。
「風立ちぬ」のように一人が死に、一人が生きるのとは対照的で共に死ぬことで多くの読者に感動と衝撃を与えたことが読者感想文からも読み取れましたし、生命至上主義がまるだしの「風立ちぬ」よりもはるかに印象に残った場面であり、小林師範の力作の名場面でもあったと思いました。もし、「風立ちぬ」が宮崎駿が当初計画していた最終場面のまま上映されたら、「卑怯者の島」と同じく、だれも予想していなかった衝撃的な最終場面を見たことにより、多くの人々に今よりもはるかに話題を呼び、人気も今以上に合ったであろうと思います。なぜならば、思いもよらぬ登場人物の最期ほど、視聴者や読者の脳裏に衝撃を与え、深い印象と残すからなのです。しかし、残念なことに、私を含む多くの人々が小林師範以外に、従来の宮崎駿が提案していた「風立ちぬ」のような最期や零戦で戦うアニメや漫画作品を求めることはもはや不可能であり、宮崎駿にそれを求めること自体、酷であるという、自分にとって最も憎むべきである、一種のあきらめでもある虚無主義が、無意識の内に我々の心を支配していたのかもしれません。情けない話ですが。また、宮崎駿の思想からして小林師範の「戦争論」や「卑怯者の島」などの力作を書き上げる発想は浮かばないと思いますし、これまでの宮崎作品からして小林師範の期待するような作品を作ることを周囲の人々が許さないか、期待しないだろうということでもあります。要するに、「風立ちぬ」は宮崎駿の作品である以上、あの内容が限界であるという一種の妥協と諦めが蔓延っていたのではないのかと思います。それは我々部外者に止まらず、「風立ちぬ」の最期を書き換えた制作者からして宮崎駿に作品を作る自由度に対する足枷となっていったのかもしれません。宮崎駿が監督を引退したのも高齢もさることながら、「風立ちぬ」の最期に対する改変を含む、製作者や周囲が行う足枷に対して拭い去ることのできない一種の限界が来たからなのではないのかと思いますが如何でありましょう。
物語における予想だにしない登場人物の最期ほど、物語の価値を向上させる場面はないと、今回のライジングで感じました。これは「生」だけにとどめる「生命至上主義」ではなく、「生と死」が上手く混在し、時には予想だにしない「死」が物語を完結させる為の名場面となるのだという意味でもあります。
なお、今回の本意見で取り上げた「卑怯者の島」の場面の詳細は「わしズム vol.25 (わしズム 2008年 2/29号)」に書かれています。また、矢我少尉と弥生の最期も「わしズム vol.28 ( わしズム 2008年 11/29号)」に描かれていますのでご興味のある方はそちらを購入して見ていただけたらと思います。
時浦師範代の「wiki直し」ですが、「戦争論」から「天皇論」にかけてが本格的な直しになると予想されます。なぜなら、wikipediaの皇室関係は「天皇論」も含めて荒廃状態になっていて、とても見れたものではなく、さらには「戦争論」もまるで、カルトのような扱いだったのを覚えています。精神衛生上、見ていて毒だと思い、それっきりこれらの関係はえwikipediaでは見ていませんが、何卒、ご注意願います。
岸端編集長のライジングは来週は休みではありますが、HP解説や道場と色々とご多忙であったと思われますし、読者も熟考するために、時には二週間の空きが必要と思いますので、一週間のライジングの休みはむしろ、我々読者にとっても好機なのではと思います。なにとぞ、よしりん企画の無謀に振り回せずに次回のライジングのために鋭気を養っていただければと思います。
小林師範に「足枷」は不要。
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