小野ほりでい
『オモコロ』や『トゥギャッチ』などのサイトでイラスト入りのコラムを連載中。特に『トゥギャッチ』の連載に登場するエリコちゃんとミカ先輩はネットの人気者。

小野ほりでいの暮らせない手帖  いつか、オセロの角を取ったみたいに日常の鬱屈がぱたぱたとひっくり返って、全て好転するような日が来るという淡い期待を捨てきれないでいる。それは青臭い葉っぱを黙々と食べ続けた芋虫が蛹(さなぎ)になり、そして蝶に変身するように唐突に訪れなければならない。今はこうしてただひたすら味のない寒天のようなこの日常を黙々と消化しているが、たった一本の鍵を見つければ、突然視界が開け、全てが薔薇色に包まれる日がやってくるのである。

 もちろんそんなことはないのだが、その「鍵」が何だと思っているのかは別にして、そういうふうな極端な救いの切り札を待って生きている人は私でなくてもたくさんいる。たとえば(そういう人というのはひと目見ればわかるけれど)、誰かに愛されれば全てが解決すると思い込んでいる女の人がいる。自分が不幸なのは愛されないからだ、と彼女は考えている。もし誰かに愛されても、不幸が解決しなければ、それは本当の愛ではないのだと考える。だから、恋人をとっかえひっかえしても満足しないのだ。
「こんなことが起これば幸せになるのに」という考えは、言い換えれば「これがないから自分は不幸なのだ」という当て付けでもある。自分の考え方とか行動はいったん棚に上げて、私が不幸なのはこのせいですよと打ち出す、一種のスケープゴートのようなものを私たちは必要としているのだ。

 だが、いつも同じことでくよくよしている人を見て、彼や彼女が本来の姿よりも幸福だというふうに感じる人は少ないだろう。私はそういった人たちが、そうすることで気休めを得ているというよりは自分を呪っているように感じる。
雪の結晶はホコリを核にしてできているから汚いとか、そんな話を聞いたことがないだろうか。塩の結晶にしても、大きなものを作るには種結晶を放り込んだりする。核を中心に結晶は大きくなる。それと同じように、自分が不幸なのはこのせいだ、という根拠が一つあると、日常的に起こる些細な問題が全てそれに関連付けられて処理され、しまいには元の姿など思い出せないほどに肥大してしまうことがあるのだ。

 だからといって私は、そういう考え方をする人たちにやめろと言ったりはしない。言われてやめられるくらいならとっくにやめているだろう。肥大した不幸の結晶が、もとをたどれば取るに足らないホコリのようなものだったとしても、それで救われるというわけではない。ただこの世には、もっとましな暇つぶしがあるということも忘れないでおこう。

 


※本記事は週刊アスキー4/07号(3月24日発売)の記事を転載したものです。

関連記事

RSS情報:http://weekly.ascii.jp/e/323939/