映画批評、というか、映画音楽視線を映画評に導入した変種の映画批評として『ユングのサウンドトラック~菊地成孔の映画と映画音楽の本』という拙著がありまして、所謂「著者自身によるベスト」みたいな企画があったら必ず1位にしようと思っているほど愛着があるのですが、こーれがもう、Jホラーもかくや(あまりにも怖くて、1本も観てもいないのに死ぬほど怖い。我が国に怪談や恐怖映画の連綿とした歴史があるのは、わかっているつもりなんですが、それでも90年代末期から00年代初期にかけてのJホラーの怖さは超歴史的だとしか思えません)といった、背筋の凍るような実売数で(笑)、しかもなんと編集は、当ブロマガのグルメエッセイと、この映画評の担当である高良くんなので、既に契約書にサインしている、後の書籍化に関しても、イタズラな希望は持たないよう、修行僧なみに自分を律しています。
とはいえ実売数はまだしも、せめて反応は?と思わざるを得ないのが人情、というものなのですが、こーれーがーまーたー。ですね。「本当は、、、、、、どこからも出版されていなかったのであるっっ!!!!うあああああーーーーーーー!!」というショック描写が、この後待っているのだ、と震えながら暮らしているほどの真空(笑)でして、この連載自体さえ、『ユング~』のプロモーションになってしまわざるを得ない。といった体たらくなのですが(笑)、これはワタシという著者の一種の特性である、「ライブ演奏の反応と、書籍出版の反応の区別がつかない」という特殊なリスクでして、演奏のアプローズに比べれば、出版への反応というのは基本的に真空なので(笑)、これはまあ、いつになったら慣れるのだろう、いや、慣れるべきではない。と思うばかりです。
(因に、ファッション批評にショー音楽視線を導入した『服は何故音楽を必要とするのか?』も我ながら画期的かつ読快性の高い良書だと思うのですが、こちらなどは超Jホラー級、つまり最も怖いものより更に怖いわけで、この本が出てから本屋さんの自分のコーナーに近づけません。「そのタイトルの本は、、、、出版されておりません」とか店員さんに言われたらどうしよう。という恐怖から・笑)。
とはいえ、『ユング~』のお陰なのかどうか、先ずは「キネマ旬報」さんに、続いて「UOMO」さんから映画評の連載仕事を頂戴して(前者は終了。後者は継続中)、けっこう真逆な2誌に映画評を書かせて頂いたり、ゴダールだアルモドヴァルだ、或は音楽に関するドキュメンタリーだといった作品が公開されるときの解説者やコメンテーターといったお仕事も頂戴し続けておりまして、まあ、そのうち死語になると思いますが、サブカル仕事といった態でしょうか。
言わば、楽しいバイトにありついておるというわけでして、キツいバイトに喘いでいる若者には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいですが、自分の過去を振り返るにつけ、現代の平均的な若者とはまったく別種の、それはそれはエゲツない人生の辛苦を味わっている自覚のようなものがなくもないので(というか、現代の、所謂生きるのが辛い系若者が「シークレット・ガーデン」みたいにワタシと入れ替わったら、半年ほどで元に戻してくれと泣いて嘆願するか、それ以前に死んでしまうと思われます)、そこはまあ、それなりにいろいろ頑張った褒美ということでどうかご容赦頂きたいです。バイトで得た金で、自分だけで旨いモン喰ったりしてないことを、バイトの神、即ちバイトゴッドに誓います(全部CDに注ぎ込んで、良いと思ったものをラジオでプレイしています)。
というわけで、優れた映画批評家の方は既にたくさんいらっしゃいますし、何か企画性のある、面白い映画批評のかたちというのを模索しまして、その際に考えたのは、第一には映画評というものが、現在、映画を見る前に読むもの、ということが、漠然と前提化してしまっている。ということですね。
これ、映画に限った話じゃないんですけれども、所謂「ネタバレ注意」という言葉なんてそれが前提ですし、星付け型の採点制クロスレビューの類いは、総て「下馬評」「前評判」であり、書き手の意志と関わらず、一律、観客の劇場への誘導力が問われる仕事になっちゃってると思うんですよね(更に言えば、この状況は、不健康に見えて実は健康。であって、「下馬評」「前評判」が、プロモーションとまったく無関係に独立したテキストとしてただ読まれ、対象である映画自体はそれによって観られる前に評価され、記憶され、消費が終わってしまう。という状況がほとんど整いかけている現在だと思うんですが、それは文化論みたいで大袈裟になっちゃうので、稿を改めます)。
ワタシが思うに、映画には「観賞後にじっくり読むべき映画評」つまり「後解説」「観客誘導と無縁の批評」というのもやっぱ必要で、というか、それだって山ほどあるんですが、現行のそれらは重くなっちゃってて、「下馬評のまとめ」というポップな力に抗し得てないと思うんですね。まあ、産業構造/興行構造もあるからしょうがないんですが。
しかしまあ、オレがそれをやっちゃる!といった柄でもありませんし、まあ、ちょっとした遊びとして、ですね。これを楽しく定着させる方法はないものかと、いろいろ考えた結果
「TSUTAYAをやっつけろ~日額15円の二本立て批評」
という、ほんの一瞬回文かと思わせながらやっぱ違う。といったタイトルが浮かびました。
御存知の通り、TSUTAYAさんが旧作を一律100円にするという大英断によって、我が国の映画鑑賞文化を根底から変え兼ねないような、単に周到なコスパ計算によって、実は延滞料の総額がむしろ上がる以外、それまでと何も変わらないような、そんな微妙な状況をセットして下さったことにもちょいと乗りまして、「100円の旧作2本ひと組で批評(2本の批評を別に書くのではなく、2本を対象にした、ひとつの批評)」「事前に対象作を予告(観賞後に読む。ということへの誘導)」という連載フォームをセットしてみました。
まあ、どんなフォームを作ろうと、番人がいるわけではないので、事前に観ないで読むことも(そして、読んだあと結局観ないことですら)可能なわけですから、本当にこれは、連載を駆動して行く上でのレール、ということだけなんですけれども。「日額15円」の計算は「連載が隔週で2本ずつ=週に1本」ということですので、毎週5円おつりが来て貯金の習慣も出来る、という親切設定。どうすかこれ?
と、「バカじゃないのコイツ」と言われても「そうかも知れません」としか答えようのない説明を終わるが早いか、初回からアウトフォームでして(笑)これから劇場公開される、DVD化も決まっていない最新作を1本採り上げるんですが(言わんこっちゃない・笑)、でもだって!!これはほら、しょうがないじゃないですか。原理的に言って、最初の対象作品を予告するのが、今回のこのテキストなのだからして、初回は連載フォームは駆動しないわけです。
厳密には、ニコ生(?)で予告はしたんですが、ワタシ未だにですねえ、ニコニコ動画というメディアの骨組みがぜんぜん理解出来ておらず、自分がやったニコ生(なんか、カメラが回って生放送すると、コメントがブワーっと流れるような奴、としか説明出来ないんですが、一回やってみたんですねアレを)で告知したんですが、あれがこのテキストの購読者の皆さん全員に行き渡っているとはとても思えず(電卓で計算してからソロバン弾き直さないと納まらないおばあさんといっしょですよ。おばあさんといっしょ)今回改めて、正式に告知し直すかたちにします。
というわけで、今回はプレ連載回ということになりますから、先に、初回(次回)の対象作品をお知らせ致します。
1本はフランス映画『死刑台のエレベーター』、そしてもう1本は日本映画『死刑台のエレベーター』
です。本当はフランス映画の『死刑台のエレベーター』と、フランス映画の『ディーヴァ』のクプル、或は、日本映画『死刑台のエレベーター』と、日本映画『ラストラブ』のクプルの方がクプル・ビヤン・アソートなんですけれども、どちらもちょっとマニアックちゅうか高踏的すぎ、そもそも『ラストラブ』あっかなあ?全国のTSUTAYAさんで。等という疑念もぬぐい去れず、まあこれ、放っといたら誰もやらねえべこの2本の見比べ。というあり得ない一夜を読者の方々に強いるというか(笑)、まあ、ワタシとの、この遊び切っ掛けがなかったら、一生やらなかったなこんなこと。という経験をして頂ければ面白いかなと思いまして、『死刑台のエレベーター』日仏ドゥーブルを、記念すべき連載初回に選びました。
もちろん「やっつけろ」は、敵意を持って殲滅させる。の意ではなく、それの反転語/反転意であろう、いい加減に処理する(「やっつけ仕事」等)の意でもなく(というか、それらも総てネットワーク的に含んでいる)、「残り物を飲み干したり食べ干したりする」という意味の下町言葉で、宴会で酒やツマミが残っているときに、まだ飲み食い出来そうな若者なんかに「これ、やっつけちゃって」と言って、バッと一気飲みさせたり、一気食いさせたりして、皿を奇麗に片付けてしまう。アレのことです。TSUTAYAさんで「あれ、あの辺り(彼方を指差して)まだ観終わってないから、やっつけちゃって」というのはそもそも無理な話なので、勢い「やっつけろ!」と意気軒昂にこう、言ってみるわけですね。
というわけで、前夜祭というかマイナス一回目として、いきなりですが、韓国人ホン・サンス監督の、昨年製作/日本公開が来月という作品、できたてホヤホヤですね。『次の朝は他人』の批評を書かせて頂きます。これはタイミング的にはモロ「観客誘導」になっちゃう(絶好のプロモだよ。絶好の・笑)んですけれども、「観賞後に読む批評」を心掛けて書きました。というか、ワタシが責任もってお勧めしますが、お一人残らず、本作を観て不満や怒りを感じる方は居ないと思います。大変な傑作ですので、どうぞ、先ずは劇場に。暗がりでしっかり観るべき名画であります。
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【注】本稿の主題である「同一性」「の障害」という状態の理解に関しては、一般的によく知られる「性同一性障害」罹患者の心理/肉体の状態を想起/移入して頂いて概ね問題ないと想像するが、本作に性同一性障害の罹患者が登場するわけではないのは、ご覧になったとおりである。
ホン・サンス『次の朝は他人』(2011/韓国)
<同一性障害という美>