虎山さん のコメント
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「自転車泥棒」
なんか気がつくと、幼少期の思い出話が、店(自分の家)の話ばかりになってしまう訳ですが、まあ、毎日が強烈すぎたから仕方がない。前に「サカナとヤクザ」の話をラジオでした時、「あれでも減らしてるんだ(「盛って」ない)。サカナとヤクザは高寅さんの名前を出しちゃってる。少なくとも僕は、高寅さんの名前は出してない」という話をしましたが、高寅さんの件だけじゃなく、話は盛ってません。僕は躁病質だから話を盛ってると思われがちですが、流石に年がら年中全部盛ってる訳じゃないです(笑)。
言わせてもらえば、僕を胡散臭いとか言ってる鬱病質の人の方が、ご自分の嫌なことや辛いこと、怒りについて、知らずに「盛ってる」と思いますけどね(笑)、 SNS に「盛らされてる」とも言えますが、マジで聞くんで胸に手を当てて答えて欲しいけど、アンタそんなに義憤に思い、そんなに嫌悪感があるか?本当に?自覚がない方が怖くない?(笑)スマホ捨てちゃえば、どれも大した話じゃないんじゃないの?(笑)
とまあ、それはともかく、「店での出来事以外の、子供時代の思い出ってなんかないかな?」と思っていたら、なんだか急に思い出したんで書いてみます。
菊地さんにそう仰っていただけるととても嬉しいです。ありがとうございます。
「大好きよ」という言葉が画面の奥底から響くラストシーンを持つ、というご指摘を拝読して、この作品が少年時代が祝福された/少年時代を祝福した映画であるという考えを強めました。見立を逆にすると『アマルコルド』こそが〈フェリーニの銚子〉であって、私が作品に触れた順番がいまとは逆だったのならば、この映画を観て、菊地さんの今回のエセーを思い浮かべたはずです。私は少年時代に数度の引越しを経験しているので(といっても全て関東、というのがスケールが小さいのですが・笑。そのうちの一ヶ所が千葉県の富里で、だから銚子といえば魚介類の市場と醤油の街だ、ということが刷り込まれています)そういった町を持たないので、菊地さんにおける銚子、が羨ましくなったことがありますが、フェリーニの作品、そして菊地さんがお書きになった今回の作品を読んで、自分の少年期/幼年期を自分で祝福すれば良いのだという確信を得ています。
筒井康隆さんは、私は不勉強もあって随分と長いこと「この俳優さん、実はなんか凄い作家さんらしいね」という認識でしたが、菊地さんが以前のブログで取り上げられていて(ラジオで「中隊長」を朗読される前に、何度かエセーでその作品について言及されていたと記憶しています)『エロティック街道』を取り寄せて「遠い座敷」を読みました。同作は筒井さんのファンや筒井ストのかたには〈愛すべき小作〉みたいなものではないか?と推測しているのですが、私は初見でとても興奮しました。というのも「これとまったく同じことを僕は体験したことがある。この家族が僕にとっては誰か、帰り道の座敷の連続が僕にはどこの道か、この恐怖感の原因は何か、を言うことが出来る」と思ったからです。ですので、菊地さんにおいては銚子の夢はこの作品のようなものである、ということに膝を打ちました。
(同書に編纂されている「偏在」も感動しました。「うわー、これ多元世界をなんの説明もなく、シーンや視点の切り替えもなく、しかもスマートに、まるでマジックレアリスムみたいに描いてすげー!そうかだから偏在なのか」と思い尚かつ「これは解説や語りがいがある作品だからネットで考察記事とか感想の面白いのがあるのでは?!」と思い検索したら出てくるのは「夫婦が互いに不倫している話」「ちょっと変わった話」みたいなものばかりで肩透かしを食らった覚えがあります。ウェブにはある時期の知識や、ある時代に盛んに行わたであろう議論がゴッソリと抜けていますね。勝手に私が、そういうものが過去にはあったと思っているだけかもしれませんが。)
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