「自転車泥棒」
なんか気がつくと、幼少期の思い出話が、店(自分の家)の話ばかりになってしまう訳ですが、まあ、毎日が強烈すぎたから仕方がない。前に「サカナとヤクザ」の話をラジオでした時、「あれでも減らしてるんだ(「盛って」ない)。サカナとヤクザは高寅さんの名前を出しちゃってる。少なくとも僕は、高寅さんの名前は出してない」という話をしましたが、高寅さんの件だけじゃなく、話は盛ってません。僕は躁病質だから話を盛ってると思われがちですが、流石に年がら年中全部盛ってる訳じゃないです(笑)。
言わせてもらえば、僕を胡散臭いとか言ってる鬱病質の人の方が、ご自分の嫌なことや辛いこと、怒りについて、知らずに「盛ってる」と思いますけどね(笑)、SNSに「盛らされてる」とも言えますが、マジで聞くんで胸に手を当てて答えて欲しいけど、アンタそんなに義憤に思い、そんなに嫌悪感があるか?本当に?自覚がない方が怖くない?(笑)スマホ捨てちゃえば、どれも大した話じゃないんじゃないの?(笑)
とまあ、それはともかく、「店での出来事以外の、子供時代の思い出ってなんかないかな?」と思っていたら、なんだか急に思い出したんで書いてみます。
コメント
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お見立て通りだと思います。「アマルコルド(「私は思い出す」という言葉の略語)のラスト、街のマドンナ、グラディスカが、将校さんと結婚し、新婚旅行に出るために乗る車の中から、「みんな!大好きよ!」と叫ぶシーンは、誰が彼が好きとか、その集合とかではなく、この街自体、そして、この回想自体を「大好きよ」と言っているのだと解釈しています。僕はご存知の通り筒井ストなので、銚子の夢はみんな「遠い座敷」みたいだなあと思っています。
>>7
すみません、何をおっしゃられえているのかが全く(笑)。
>>12
酷いコメントでごめんなさい。
修行し直させていただきます。
私
「文章師匠稽古をつけてください」(_ _;)
桂 文章
「幼稚園からやり直せ」
「遠い座敷」読みました。とても良かったです。
お誕生日!おめでとうございます!!!!
>>11
菊地さんにそう仰っていただけるととても嬉しいです。ありがとうございます。
「大好きよ」という言葉が画面の奥底から響くラストシーンを持つ、というご指摘を拝読して、この作品が少年時代が祝福された/少年時代を祝福した映画であるという考えを強めました。見立を逆にすると『アマルコルド』こそが〈フェリーニの銚子〉であって、私が作品に触れた順番がいまとは逆だったのならば、この映画を観て、菊地さんの今回のエセーを思い浮かべたはずです。私は少年時代に数度の引越しを経験しているので(といっても全て関東、というのがスケールが小さいのですが・笑。そのうちの一ヶ所が千葉県の富里で、だから銚子といえば魚介類の市場と醤油の街だ、ということが刷り込まれています)そういった町を持たないので、菊地さんにおける銚子、が羨ましくなったことがありますが、フェリーニの作品、そして菊地さんがお書きになった今回の作品を読んで、自分の少年期/幼年期を自分で祝福すれば良いのだという確信を得ています。
筒井康隆さんは、私は不勉強もあって随分と長いこと「この俳優さん、実はなんか凄い作家さんらしいね」という認識でしたが、菊地さんが以前のブログで取り上げられていて(ラジオで「中隊長」を朗読される前に、何度かエセーでその作品について言及されていたと記憶しています)『エロティック街道』を取り寄せて「遠い座敷」を読みました。同作は筒井さんのファンや筒井ストのかたには〈愛すべき小作〉みたいなものではないか?と推測しているのですが、私は初見でとても興奮しました。というのも「これとまったく同じことを僕は体験したことがある。この家族が僕にとっては誰か、帰り道の座敷の連続が僕にはどこの道か、この恐怖感の原因は何か、を言うことが出来る」と思ったからです。ですので、菊地さんにおいては銚子の夢はこの作品のようなものである、ということに膝を打ちました。
(同書に編纂されている「偏在」も感動しました。「うわー、これ多元世界をなんの説明もなく、シーンや視点の切り替えもなく、しかもスマートに、まるでマジックレアリスムみたいに描いてすげー!そうかだから偏在なのか」と思い尚かつ「これは解説や語りがいがある作品だからネットで考察記事とか感想の面白いのがあるのでは?!」と思い検索したら出てくるのは「夫婦が互いに不倫している話」「ちょっと変わった話」みたいなものばかりで肩透かしを食らった覚えがあります。ウェブにはある時期の知識や、ある時代に盛んに行わたであろう議論がゴッソリと抜けていますね。勝手に私が、そういうものが過去にはあったと思っているだけかもしれませんが。)
>>14
あっれはすごい小説ですよ。収録されている「エロチック街道」と言う短編集は全てすごい小説です。
誕生日を覚えていて頂いてありがとうございます。
>>15
残念ながら筒井スト諸氏の多くはコンサバティヴで、筒井先生の頃の作品の、中南米文学マジックリアリズムとの激突的影響関係について勉強しようとしません。ご指摘の「過去されたで煽る議論」はむしろ、文芸評論家同士でか発に行われており、現在は過去ログという概念がなかった時代の遺物として、年寄りの記憶の中にしかありません。
僕は、「遠い座敷」「ヨッパ谷への下降」「偏在」「エロチック街道」などの、ガブリエル=ガルシア・マルケスと共振関係にある作品群が、数多ある筒井先生の作品の中でも、美運学的な強度が一番高いと思っています(アンケートに「一番好きな作品」として書いたのは「ロートレック荘殺人事件」でしたが・笑)。僕はフロイド派ですが、こうした作品には集合無意識という、巨大な温泉のようなものが存在すると確信してしまいます。日本の多くは丘から海岸射向けて斜行する地形を持っており、誰しもが幼少期に、焦って帰宅した記憶があり、誰しもがとても優しくされて、誰しもが「ああ、そろそろ着く」という安堵を感じていたはずで、そこにはホームタウンの固定や、移動の多さは関係なく、この国が国民に持たせる、集合的な何かだと思っています。
>>17
素晴らしい作品のリーチの長さは凄まじく、その作品が世に出た同時代の様々な地域への水平の広がり、同時代を含む未来と過去への垂直の広がりによって繋がる他の作品や出来事には多くの宝があると思っている身としては(単に楽しいというか、関連作品や元ネタ、発展を知ると興奮するという程度のものなのですが)、筒井さんの熱心な読者間では研究があまり行われていないこと、評論家同士の議論が今に残っていないことは残念です……(もちろんそれを想像する楽しみがあること、または自分こそがいま改めてそれをすれば良いのだ、ということも知ってはいるのですがやはり、当時だからこそ、というものはあるでしょうから。ですが過去ログというものがもたらした、なんでもかんでも残っているということは現代の考えなのだ、ということを改めて認識しました)。
廣瀬さんの〈間に合わなかった論〉ではありませんが、ある時代の日本の文芸界/知識人界にはそう感じるものが多々あり、例えば、蓮實重彦さんと柄谷さんと吉本さんがなんかやりあったらしい、ということを藪の中のごとく知ったりと、時代の分断と書くには大袈裟ですが、そういったことを把握するのが難しくなっています。
実は蓮實さんのことを知ったのも菊地さんがお書きになった文章からでして、そして「表層批評宣言」や「反=日本語論」を読みのちに、そこで描かれていた聡明なご子息が、菊地さんの文章でどういうかたであったのかの一端を知り……ということがあったり、これは私事ですが、以前私はある映画にショッカー役というか覆面テロリスト役で出たことがありまして(学生映画やインディー映画ではなく映像プロダクションが作ったもので、私は俳優を目指しているとかではなくて、映画好きとして現場を見てみたくなって参加したのですが・笑)その監督が梅本さんのお弟子さんで、打ち上げで蓮實さんの著書の話題で盛り上がったことがあり、これは幸福な記憶になりました。
そういったこともあるので古典(と書いてしまいますが)やそれにまつわる出来事を知ることは私には楽しみになっているので、やはり過去ログを読むことができないのは残念です。ですがいままさに私は音楽はもちろん文芸的なものでも、菊地さんに〈居合わせている〉わけで、これこそが時代のめぐり合わせの幸運として受け取って楽しんでおります。「ロートレック荘殺人事件」「ヨッパ谷への下降」は未読なのでこれから拝読します。楽しみが増えました(「遠い座敷」や「偏在」は愛すべき小作、どころのものではなかったのですね。そういった作品を読めたのも幸運です)。
集合無意識に関しては少し前に人と、オルフェからイザナギまで暗闇の中で後ろを振りかえるのは生物の生存本能であり、人は生きている限りは後ろを振り返るのだろう、と話したことがありました。なので「遠い座敷」に関しては日本の地形が起因する集合無意識をすくい取っているというご指摘にも膝を打ちました。というのもまさに私の「遠い座敷」の帰り道が坂道だったからです。私はフロイトの著作を読んだり、ラカンに関する文章を読むものの、ユングは軽視してしまっておりまして、しかしこの作品に関する集合無意識、移動の量や住まいの固定とは無関係であろうということには、心がほぐれました。
たいへん面白く刺激的なお話をしてくださり、ありがとうございました。
>>18
返信が遅くなりましたが、僕は「過去ログ」と言う言葉が地上に出てきたときに、ここまで重大な事になるとは思いませんでしたが、「過去ログなんて言ってると教養の歴史に断層が入る。中世の焚書とは訳が違う。過去ログなんて言うなら、誰かがものすごい重責を負って、インターネットができてから今日までの、すべてのログを集めるのが理想的だ」とは発言したものの、それこそ過去ログがなく(笑)。今は読めませんが、「過去ログ」という限界性と半無限性は、現代人の教養に対して、決定的なものを握ってしまっている。つまり、ほとんどの人々は「過去ログ」という巨大なアーカイヴに閉じ込められてしまったわけで、「じゃあお前、古代の文献に日常的に当たってるかよ?」と言った極論的な反論も含めて、本当に悲しむべき事だと思います。
ただ、筒井先生の作品の悪質なまでの強度と射程距離は、あのカズレーザー氏が、突然「アメトーク」で「この<残像に口紅を>っていう小説が、すげえ面白いんですよ」と言ったりして、書店に「カズレーザー推薦」のポップが出たりするので(笑)。せめて作品自体はホメロスぐらいからでいいので全てアーカイヴした方が良いと思いますね。
暗闇で後ろを向くのは生存本能(のかけら)というご指摘はその通りだと思います。ですから、目をつぶったまま振り向くことを禁じられる行為の代表であるシャンプー中に恐怖感を結びつけた話が多いのだと思います。僕は薄毛対策で(笑)湯シャンといって、シャンプーを使用しないので、目を開けたまま頭から湯をかけるだけですが、シャンプー時代も、目を開けてシャンプーしていました。おそらく防衛本能(のかけら)が強かったと思います。
>>19
お忙しいなか、私のコメントを読むだけでなく、お返事も下さりありがとうございます。読み返しては思索を進めていました。
ウェブの民による過去ログというものへの興奮/万能感は最近になってやっと収まって来たようです。私がパーソナルコンピュータに初めて触れたときのOSがwindows98でしたので、最初期とは言えなくても黎明期のウェブを興奮を伴って体感していた(エロガキにとっての良いオモチャだったわけですが・笑)とは言うことができ、ですので過去ログへの万能感/期待感(そしてそれがもたらす攻撃性も)は分かりそれ故にいつしか違和感を覚える……というよりもなにか気に食わなさを感じるようになっていきました(例えば、筒井さんの作品(その影響力の凄まじさは、膨大な著書の一端とは言え実際に拝読した際は勿論、私が好きな音楽家/文芸化/小説家などが必ずと言っていい程に筒井さんのお名前を上げるので実感しております。カズレーザーさんのお話は初めて知りました・笑。菊地さんが共演された番組も拝聴しましたし、あのかたが大変な読書家であられるらしいことは知ってはいたのですが)に関するあれこれすら過去ログにないわけで、それなのにもかかわらず知恵者の如く振舞う人を散見するからです)。そして現代、電子書籍販売サイトの倒産による架空の本棚と本の消滅や、大手ポータルサイトのウェブスペース提供の中止による大量の情報の消失などによりやっと、菊地さんが仰る過去ログの限界性と半無限性、の特に経済的(商業的)限界性に気付き始め、過去ログの限界性を嘆き始めたと観測しています。ソースを出せ、という言葉も過去のものになりました(エビデンスという言葉に取って代わっただけにも思えますが)。しかしそれも「過去ログは本来は完璧なのだ」という前提があっての嘆きに思えます。
そんな中で私は、菊地さんがお書きになった、確かぺぺのライブに合わせるワインを菊地さんがセレクトされてその趣旨を説明された文章だったと記憶していますが、ぺぺの音楽に対してフランス産のワインを多く選択したことについて、その文中にあった「アーティストの役割は前衛(現代)と古典を繋ぐこと」という言葉に大きな影響を受けました。過去ログとは結局は、選別された現代だけのことで、それだけを読んでいてはこれが出来ないことに気がついた、と言いますか(その頃はこのような言語化は出来ていませんでしたが)。象牙の塔に籠もらなければ日常的に古代の文献だけを読むことは難しく、人の知識量(時間)も有限であり、私などは無教養/無知識の者ですが、しかしこの「現代と古典を繋ぐ」という態度と実践こそが教養の1つなのだと強く思っています。それにそっちのほうが楽しく、幾分か自由であまりイライラしないです(笑)。
シャンプー中の目を閉じた際の恐怖感は、暗い部屋のなかや、暗い森のなかの恐怖感とは全く違いますね。振り返る行為の不可能がそれを生むというお話にも膝を打ちました。ちなみに私はかれこれ10年以上湯シャンをしています(正確には数日に1度はシャンプー剤も使うのですが)。周りがスカルプだAGAだと言い出す歳になりましたが、今のところはそういったものも必要ないので、頭皮や毛穴の健康には湯シャンは有益だと実感しています。しかしどちらも私は目を瞑ってしてしまうので、目を開けたままで出来るのは羨ましいです。