菊地成孔さん のコメント
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「自転車泥棒」
なんか気がつくと、幼少期の思い出話が、店(自分の家)の話ばかりになってしまう訳ですが、まあ、毎日が強烈すぎたから仕方がない。前に「サカナとヤクザ」の話をラジオでした時、「あれでも減らしてるんだ(「盛って」ない)。サカナとヤクザは高寅さんの名前を出しちゃってる。少なくとも僕は、高寅さんの名前は出してない」という話をしましたが、高寅さんの件だけじゃなく、話は盛ってません。僕は躁病質だから話を盛ってると思われがちですが、流石に年がら年中全部盛ってる訳じゃないです(笑)。
言わせてもらえば、僕を胡散臭いとか言ってる鬱病質の人の方が、ご自分の嫌なことや辛いこと、怒りについて、知らずに「盛ってる」と思いますけどね(笑)、 SNS に「盛らされてる」とも言えますが、マジで聞くんで胸に手を当てて答えて欲しいけど、アンタそんなに義憤に思い、そんなに嫌悪感があるか?本当に?自覚がない方が怖くない?(笑)スマホ捨てちゃえば、どれも大した話じゃないんじゃないの?(笑)
とまあ、それはともかく、「店での出来事以外の、子供時代の思い出ってなんかないかな?」と思っていたら、なんだか急に思い出したんで書いてみます。
残念ながら筒井スト諸氏の多くはコンサバティヴで、筒井先生の頃の作品の、中南米文学マジックリアリズムとの激突的影響関係について勉強しようとしません。ご指摘の「過去されたで煽る議論」はむしろ、文芸評論家同士でか発に行われており、現在は過去ログという概念がなかった時代の遺物として、年寄りの記憶の中にしかありません。
僕は、「遠い座敷」「ヨッパ谷への下降」「偏在」「エロチック街道」などの、ガブリエル=ガルシア・マルケスと共振関係にある作品群が、数多ある筒井先生の作品の中でも、美運学的な強度が一番高いと思っています(アンケートに「一番好きな作品」として書いたのは「ロートレック荘殺人事件」でしたが・笑)。僕はフロイド派ですが、こうした作品には集合無意識という、巨大な温泉のようなものが存在すると確信してしまいます。日本の多くは丘から海岸射向けて斜行する地形を持っており、誰しもが幼少期に、焦って帰宅した記憶があり、誰しもがとても優しくされて、誰しもが「ああ、そろそろ着く」という安堵を感じていたはずで、そこにはホームタウンの固定や、移動の多さは関係なく、この国が国民に持たせる、集合的な何かだと思っています。
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