虎山さん のコメント
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「自転車泥棒」
なんか気がつくと、幼少期の思い出話が、店(自分の家)の話ばかりになってしまう訳ですが、まあ、毎日が強烈すぎたから仕方がない。前に「サカナとヤクザ」の話をラジオでした時、「あれでも減らしてるんだ(「盛って」ない)。サカナとヤクザは高寅さんの名前を出しちゃってる。少なくとも僕は、高寅さんの名前は出してない」という話をしましたが、高寅さんの件だけじゃなく、話は盛ってません。僕は躁病質だから話を盛ってると思われがちですが、流石に年がら年中全部盛ってる訳じゃないです(笑)。
言わせてもらえば、僕を胡散臭いとか言ってる鬱病質の人の方が、ご自分の嫌なことや辛いこと、怒りについて、知らずに「盛ってる」と思いますけどね(笑)、 SNS に「盛らされてる」とも言えますが、マジで聞くんで胸に手を当てて答えて欲しいけど、アンタそんなに義憤に思い、そんなに嫌悪感があるか?本当に?自覚がない方が怖くない?(笑)スマホ捨てちゃえば、どれも大した話じゃないんじゃないの?(笑)
とまあ、それはともかく、「店での出来事以外の、子供時代の思い出ってなんかないかな?」と思っていたら、なんだか急に思い出したんで書いてみます。
というのも『アマルコルド』を先月やっとDVDで観ることが出来たから、というのもあるのですが(同作の最初のセリフが「春が来たぞー!」であったことが驚きました・笑。それとファシズムの記憶さえ甘さがあることも)。ですが先日『カサノバ』を観て、この人は祭りや夢が終わったことを描かずにはいられない人なんだなと実感して、だからこそ『アマルコルド』では夢は終わってはいないが皆が遠くに行ってしまった、ことを描いていたことを改めて認識しました。だからこそ今回のエセーであの映画を観たときと似た感じを抱きました。もちろん互いに幼少期のころの回想/追憶だ、という共通点もあるのですが。
しかし〈自分が唯一選べたものにこそ、一発アウトのものが混ざっている〉というのは素晴らしいストリートの知恵いうか教訓ですね。肝が冷えます。
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