菊地成孔さん のコメント
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今、坪口のトリオが演奏を始めたところだ。僕はピットインの控え室にいる。さっきまで、藤井さんと坪口と菊地雅章くんと三人で旧交を温めていた。菊地(雅)くんと藤井さんは喫煙者なので、控え室がモクモクである。一昨日のオーチャードホールが実は今年最初のライブだったので、今日が2回目になる。開口一番、藤井さんは「猛烈に久しぶりだねえ」と笑った。「藤井さん良く生きてましたね笑」「オレも菊地がどうしてるかなあと思ってたよ」「ポンタさんがねえ」「あいつ、オレより一つ上なんだけだから」「まあもう」「誰が死んだっておかしくないよな笑」「そうですね笑」「オレ、ずっとスティックも握ってなかったから、、、、、叩けないよダッハハハハハ」「オレもそうですよ笑」「え。菊地、またタバコ始めたの?」「はい笑」「一本、、、」
藤井さんが手を伸ばしたので、箱から一本だけ飛び出させて渡し、藤井さんが咥えるタイミングで150円
例によって、追補と解説を添えさせていただきます。
1)ベニー・モレ
に関しては説明の要はないと思われますが、キューバ人歌手で、40年代初頭にハバナでデビューしましたが、確か(記述に間違いがあったらご指摘ください)1945年から52年までメキシコにいて、その後キューバに戻り、アルコール依存症で夭逝(50歳になれなかったと思います)しますが、「メキシコ時代」の録音物は、一時期はほとんど聴けませんでした。
2012年からメキシコでデビューしたトリオ・マタモロスと(その発展形の)コンフント・マタモロスとの録音(ボレーロなどの恋歌多数。キューバだとフィーリンボレーロ)と、かのペレス・プラードとの録音物(大体マンボ)が、復刻版で手に入るようになりました(いずれもトゥンバオ・キューバン・クラシックス)。2012年は僕が「夜電波」の第一シーズンで流したホセアントニオメレンデスの復刻をはじめとした、「此の時代の中〜南米のポップス」の豊かさが復刻版で誰にでも聴けるようになったヴィンテージです。
2)「ソナロサ」
は、メキシコシティの歓楽街の名で、(文中にある)「リオロッサ」と「モンパルナス」を擁していました。ベニー・モレは両店に契約出演しました。「ベニー・モレ」という名前は、確か、キューバではなく、メキシコで付けた芸名だったはずです。
3)キャバレット・リオ・ロッサ
の写真は、驚くべきことに、としますが、検索すれば、薄い写真集ほどの点数がインターネットで見ることができます。ハバナの「クリュブ・トロピカーナ」赤坂の「ニューラテンクォーター」と並び、僕が、黄泉の国からの呼び声を聴くことが出来る名キャバレーです。
4)「伊達男、ペドロ・アルメンダリス」
はシニアとジュニアがおり、親子とも伊達男=俳優で(シニアは晩年、恰幅が良くなり、ジュニアはグッドシャイプのままでしたが)、双方とも「007」シリーズに出演したりしていますが、ここではシニアであるグレゴリオの方でしょう。前述の「007ロシアより愛を込めて」(63)が遺作です。
5)ティート
は、日本語のニュアンスだと「ちゃん」「ちゃま」的な、可愛い子供を呼ぶ時の愛称ですが、ラティーナでこの愛称を持つものは多く、最近だと90年代の名ボクサー、プエルトリカンのフェリックス・トリニダードこそが「ティート」という時代ですが、ここではティンバレスの腕は大儀見にとっても王座にある、「マンボの王」「ラテン王」ティート・プエンテの事だと推察します。一般的にはショーアップスタイルだと認識されがちですが、パーカッションのソロアルバムを聴くと、アフリカ式とも違う、途轍もないポリリズムの演奏が聴けます。
6)「稀代のキャバレー映画サロン・メキシコ」
90分36秒の、此の作品は、再び驚くべき事には、YouTubeで全編が見れます。
https://www.youtube.com/watch?v=rNhX4kxlDKg
此の映画の制作が1949年ですので、ベニー・モレが「フランキー・マルコスとその仲間」にftされて、此の「コモ・フェ」を録音したのが、49年よりも「ほんの、ほんの少し前の話」だったのか、そもそもベニー・モレがメキシコにやってきた45年、そしてメキシコを離れる52年を指しているのか、僕にはわかりませんでした。フランキー・マルコスはキューバ人(サックス奏者、バンドリーダー)ですので、録音はキューバ帰国後の可能性が高いです。有識者の方からの御教示があったら是非お願いします。
何れにせよ、合衆国の北は、終戦年である(ベニー・モレがメキシコにやってくる)45年から「冷戦」と呼ばれる長く苦しい闇の中に入り、1950年から朝鮮戦争に参入、宣戦布告がなく、開始年の設定が不明瞭なベトナム戦争も、僕の査定だと55年からであり、カストロとゲバラのキューバ革命は58年、ベニー・モレが亡くなる63年にはキューバ危機があります。
「サロン・メキシコ」が制作された「1949年」まで。というのは、「疲弊し始める北の合衆国を(心配な眼差しで)見ながら、ラテンアメリカの才能達が天上の歌で人々(los de abajo)の日々の悲しみを洗い流した」凪のような季節だったと思います。6年後の1955年には、おもちゃと子供の国である「アメリカ」が北で完成する年です。その後、北米が泥沼にはまってゆく過程はみなさんご存知でしょう。僕は、凪の季節までのフィーリンやボレーロを聴くと、胸が張り裂けそうになります。48時間を待たずして、DC/PRGは役割を終え、PARTY2を迎えます。ペペトルメントアスカラールは、永遠に続きます。もし人間に永遠というものがあるのならば。
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