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santafede33さん のコメント

先日の謝肉祭の日から数えると2021年のSemana Santaは今週に当たります。

4月2日、viernes santo。神の住む丘、魔都CDMXの最深部イスタパラパでは、今年も男が磔にされた。

当国の聖週間は過酷だ。現実が過酷なので、2000年ほど前の模倣も、現実とシンクロする様に、苛烈さを極めている。十字架を抱えた人たちが、本当に何百キロと歩いて、この聖なる丘に登る。

足は血に塗れ、肉はこそげ、純粋な痛みだけが下半身を支配する。担ぐ十字架も数十キロはある。リアルなやつだ。

群衆が蠢き、警官隊が思い思いのやり方で集まった人々を棒で殴る。申し訳ないが、狙われれば人々は引き、か弱い若者が立てなくなるほど激烈に打たれる。当国では警察は、暴力の体現者だ。

丘の上を馬が駆け抜ける。

そういえば、500年前に、色の白い悪魔がやってきた時もこの丘の上から魔都を見下ろしたらしい。滅ぼされた人々の神々は52年ごとに丘の上で松明が燃やされ、その後に召喚される。

つまり、形は変わっても、我々の神は、そこに存在しているのである。この丘に何度十字架が立てられようとも。

当国では、下火のカトリックよりも熱烈に支持されているのは、聖母グアダルーペである。グアダルーペを信仰する我々の事をグアダルパーノと言う。何せ、先日のペペでメンションされたバシリカは、すでにバチカンを超えて世界一の座を不動のものにしている。そのバシリカに鎮座するのが、我々の聖母グアダルーペである。

だが、その本当の姿は?

奇蹟を起こしたと言われる、あのショールに身を包んだ姿なのだろうか。

違う。本当のグアダルーペの姿とは、お前達を喰い殺すCoatlicue、双頭の蛇が向かい合い一つの顔を形作っている、あの、姿なのだ。

だから、我々は信じる。あの聖母グアダルーペと豊穣の女神Coatlicue は、全くの同一人物だ。それがバシリカに、我々を呼ぶ原動力なのだ。

それは、偽物でも本物でもない、異形の姿。どちらがオリジナルでどちらがコピーなのか、ということではない。

二人は同じなのだ。

それを我々は下半身で理解している。だから、そこに向かうのだ。足から血を流しながら。赤い足跡を辿って。

2021年4月2日、聖金曜日、新木場。男が磔にされた。

4月3日、sábado de gloriaを経て、本日4月4日pascua。

20年ぶりに拝見しました。

ちょっとライブ会場が遠かったですが、見れて良かったです。緑の光で壁面に照らされた四番サードが、古代の洞窟で語り部として太鼓を叩いているようでした。一緒に行った妻が、あのパーカッションソロを見て Mi corazón! と言っていた事をお伝えします。アフリカでも、ラテンでも、ましてや日本でもない、それらを飲み込んだ異形の怪物の姿に震えました。

日本でのお客さんを久々に見ましたのですが、とても懐かしかったです。終演後、足早に駅に向かう人々の多くが、殆ど一人で来られているのを見て、胸が熱くなりました。それぞれの国にそれぞれの歴史と事情があるように、日本にも同じくDCPRGを必要とされている方がいて、その人々と共鳴し合って形作られたということを改めて思いました。そういう意味では、私の知っていたDCPRGはそこにはなく、よく知っている知らないバンドになっていました。
日本の現状、タフな時間を過ごされてたという状況、ひしひしと伝わってきました。

新大陸に来て以降、こちらでのみライブを見ていました。惜しむべくは、海外でも過剰な暴力が渦巻く戦場に直面しているChicosに、過剰な平和を共有しないままアディオスということ、残念に感じます。

音楽は、観客と演奏家の双方によって成立つので、もし今後更なる発展を遂げるので有れば、是非、この血塗られた大陸に来て頂ければと思います。nuestra madre を信仰する獣達があなた方を襲うでしょう。

勿論、DCPRGがいなくなったのは承知しておりますが、神はいなくならないということは、歴史が証明しております。

本日、4月4日復活祭。
甦るのは、男か、我々の聖母か。或いは、そのどちらでもないのか。

素晴らしい解散でした。

Nunca me olvidaré esa noche, nunca jamás.
No.16
44ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 もう解散したので、バックヤードの話を少々しても良いだろうと思う。バックヤードの話のが演奏よりも、時間換算して数千倍あるのは言うまでもない。僕はステージ上でオルガン弾いたり、指揮したり、最近はカウベル叩いたりしているけれども、最も細心の注意を払っているのは実はタイムキープだ(因みにぺぺでも)。    コロナ以前の世界でも「もう、やりたいだけやっちゃいましょうよ」なんて言う粋な計らいをするクラブはなかった。全ての楽団は充てがわれたランニングタイムを遵守しないといけない。    増してやコロナ禍の中では、完全撤収時間が厳格に決められるようになり、「やりたいだけやり切って、尚且つ時間は守る」というライブショー・ビジネスの基本が、さらに厳しいものになった。<会場を借り切って、無観客配信>というのは、僕はやらないが、アレだってさすがに家飲みみたいにはいかないだろう。  
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