菊地成孔さん のコメント
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しばらくライブがないのだが、ペン大、美學校、各々の新学期が5月スタートになったので、それの準備をする。ペン大内での大学院修士課程から博士課程に進む生徒さんの進路指導、美學校からペン大に編入される生徒さんへの編入の案内などを書くだけでかなりの時間がかかる。要綱の下書きがないし、どのクラスがどういう内容で、どういう状況にあるか、対象者の立場別に、5種類書かないといけない。さっき全部書き終えた。昨年の倍ほどの生徒数を、5月から相手にしないといけない。非常にワクワクしている。
話は変わるが、ジャズオリエンテッドな「菊地成孔クインテット」と、ポップスオリエンテッドな「菊地成孔ソロ」の準備にも入った。どちらもバンドとして、すべて生演奏で行うことを最低条件としている(5月の晴れ豆、菊地クインテットでも、「キスのやり方」「インベーダーゲーム」等々、ポップな曲もやりますが)。
ソロの方のプレー
納得と驚きに溢れたコメントをありがとうございます!とても面白いので、ほんの少々の雑学を組み込んだ軽い読み物としてレスさせて頂きます!
こんにちは、僕は声楽を少々やったり聞きに行ったりする者ですが
コロナも一年を過ぎ、最近では良くも悪くも当たるのを踏まえてフグや牡蠣を食べるような気持ちで、歌と対峙しております。
↑ フグと牡蠣では当たる可能性が段違いだとは思いますが笑、非常に良い例えですね。因みに「牡蠣に当たると二度と牡蠣が食べられなくなるのに対し、フグに当たった者はフグを渇望するようになる」という俗説があります笑
そんな中、何気なく見ていたyoutubeにて、
「飼い主がギターで天国への階段を弾くのに合わせてアドリブで歌うオウム」(投稿主:Frank Maglio Tico & the Man)の動画を見つけてオウムの高度な演奏能力に驚くのと同時に、コロナをそもそも知らないであろうオウムが歌っているのを聞いて一年分のカタルシスを感じました。まるで人間に憑依するのを諦めた歌の神様が悪戯にオウムに降臨したかのようでした。
↑ 僕もこの動画は見ていて、というのは、このTICO&THE MAN氏が、僕が知っている(夜電波でも結構流した)元・アンチバラスのギタリスト(メキシコ系)であるチコマンと同一人物かどうか気になったからですが、結論としては別人のようで、チコマンもオウムの飼い主氏も、同じCHICO & THE MANから名前を流用しているな、とわかりました。
「CHICO & THE MAN」はアメリカの大ヒットテレビドラマ(70年代)で、西海岸のどこかのメキシカンゲトーを舞台にしたホームドラマですが、ホセ・フェリシアーノの主題歌もヒットし、カヴァーがいっぱいあり、読者の皆さんに一番聴いていただきたいのは、いきなりのサミーデイヴィスJr.ですが(ものすごいA&M感)、それはともかく、僕がこの王蟲のアドリブを聴いたときに思ったのは
(1)「オウムはペンタトニックを知らないな」
というのと
(2)「オウムのアドリブに一番似ているのは、オペラ歌手のアドリブだ」
という2点でした。
(1)は、「知らない」というより、音感がそう出来てないということでしょう。これは、「あらゆる地域の古代音楽にペンタトニックが使用されており、発達して出来たダイアトニックの調性内でも、手軽にペンタトニックでアドリブや作曲ができる」という、ポップスの定番が、僕の茫漠としたイメージよりも、はるかにヒューマニズム(人類学的恩寵)なのだと知り、やや愕然としました。
(2)は、(1)と真逆で、巷間、クリスチャニズムの産物(教会→オペラハウス)とされる(僕はそこまで俗説を信じてはいませんが)クラシック声楽の発声法や旋法の使い方が、鳥類(といっても例外的に発話のコピー能力に長ける)のそれと類似している、と知り、オペラと鳥類の類似に、またもやや愕然としました。
ここでオウムは、名曲「天国への階段」のコード進行中、和声音をきちんと拾っており、転調や2次ドミナント等々の、上述、多くのギタリストが「ペンタトニックで押し切ってしまう」部分の「押し切れる」能力よりも、「押し切らず、ちゃんと拾う」能力に長け、重視しているという事が明確です。
ベルカントに代表される腹式呼吸や喉の使い方、ブレスの位置がリズミックではなく、メロディックである事、等々、上述、「オペラ歌手が当たりで歌う」、例えば練習中とか、多少の即興性があるカデンツァの局面などで見せるそれと、オウムのそれはほぼ同一であり、「これは声楽家や声楽愛好家が一番敏感に心を動かすだろうな」と思っていたら、コメントの一行目にそのままそう書いてあり、納得と驚きを隠しえませんでした。
ベルカントが人工的な美意識と肉体改造の産物であり、よもや動物の鳴き声など模倣しているわけがない、民族音楽じゃあるまいし。という一般イメージを覆し、コロロチュラからバスまで、声楽家たちが、小鳥から大鷲まで、鳥たちに憧れていた可能性は、感動的な物でした。
また最近、イーロンマスク氏率いる会社がチンパンジーの頭にチップを埋め込んで、チンパンジーがピンポンゲームをコントローラーを使わずに、思考のみで遊んでいる映像を公開しました。
↑僕は人間の虐待行為に関してはアンテナが働きますが、いわゆる動物虐待に関してはあまりアンテナが動かず、この動画が動物虐待に近いのか、全く違うかの判断がつかず、故にとても興味深かったです。
ここではチンパンジーが、少なくともゲームが出来ることを証明しましたし、楽器がゲーム端末とどれぐらいの差があるのかは、厳密な測定は出来かねますが、楽器が神具である側面と、ゲーム端末である側面の双方を持つことだけは間違いありません。
また、VR周辺はXRとして統一されてくるでしょうが、もはや人間は、人体にチップを埋め込まれてもなんとも思わない、むしろ、利便性や特権性があるチップなら埋め込んで欲しいぐらいの心性になっていると判断しており(或いは、生態学者などが、重要なデータ摂取のために、魚類やイルカ等々の体内にチップを入れることも当たり前になっている、という前提も含み)、この動画が、口汚いコメント欄で、賛否両論にならなかったことの根拠と考えています。もちろん、ここでは、脳性麻痺者が現実にアクセスする方法を驚異的に発達させるテクノロジー開発のためにチンパンジーが実験素として扱われているからですし、が故に、この動物実験はチンパンジーを殺していない(むしろバナナを与えている)からでしょうが。
この二つの動画を見れば、コロナで人間が演奏出来ないのに代わって、色々な動物達が数年内に音楽業界に進出し始める未来を想像するの事は容易い事です。(動物達にそんな欲求があるかどうかは・・それは報酬次第でしょうが・・)
↑ いうまでもなく、動物たちは既に歌い奏でており、彼らの豊かな音楽さえあれば、僕個人は満足ですが、ここでは人類が作った音楽を動物たちに労働として演奏させることの可能性についての考察ですので、仰る通り、数年、とは言わずとも、動物が調性音楽を歌い、また楽器で奏でる事は絶対に不可能とは思いません。
ただ、第一の動画は、オウムの鳴き声に含まれる模倣力の高さ、第二の動画は、人類の脳の故障と、そこから生まれる麻痺によって寸断された現実への入力アクセスを可能にしようという動きへの実験素として、人類に脳の構造が一番近いと言われるチンパンジーを使って、簡単なゲームをしているので、これを以って、全動物がオーケストラなんかになったら良いなあ、というビジョンの実現には百年を要すかもしれず、先ずはチンパンジーがジャズピアニスト(ピアノは、ゲームのコントローラーに最も似ている=クラヴィエ=キーボードなので)が出るぐらいでしょう。それだったらもう、既にジャズ界にいるような気がします。ジャズの聴衆が気付いていないだけで。
そうなれば未来の音楽教師は、動物達を相手に教鞭を執る日が来るのではないかと思うのです。もしご興味ありましたら、ペンギン音楽大学にて動物達が通えるクラスを新設という事で前澤氏にプレゼンしてみては如何でしょうか?
↑ 僕は俗流の未来主義者として前園氏にものすごい興味があり、それは「なんで剛力彩芽をコンテンポラリーダンサーとしてデビューさせなかったのか?」という疑問に繋がるのですが、それは兎も角、我がペンギン音楽大学は学長が皇帝ペンギンですし、既に廃止されていますが、各クラスにはペンギンの種目名が付いていました。
ですので、前園氏にプレゼンするとしたら、先ず「自分はペンギンに音楽を習わせるつもりなのではない。全アニマルを対象としているのだ」ということを徹底しなければならず、僕のプレゼン能力では、そこがクリアできるかどうかの自信がありません。僕自身の遠投力はせいぜい20年なので、イマジネーションに揺らぎが出ます。プレゼンテーターとしては失格だと思われます。
そしてまた、この企画は、僕の死後に受け継がれなければならないというリミットが必須になるので、アティテュードもパッションも完璧な後継を選ばないといけません。故に(プレゼン行為の)現実性は低いと評価しないといけません。
追伸
電動歯ブラシがパヴァロッティ を歌うyoutube動画も同様に素晴らしかったです。
一番ジーンとしたのはクレジットカード決済機がアメリカ国家を奏でる動画ですが・・
動画名 「La Donna È Mobile on an Electric Toothbrush」
「US National Anthem on 7 Credit Card Machines」
(ch名:Device Orchestra )
↑ 両方とも拝見しましたが、特に後者(決済機の国家斉奏)は、アナログシンセサイザーでも再現可能なもので、音楽的な感動や性衝動は生じませんでした。ここで最も心を動かすのは、最後に国旗が掲揚される瞬間で、これは「ピタゴラスイッチ」がもたらす感動に類するものです(「ピタゴラスイッチ」は、ノスタルジーのあり方を限定しないため=ノスタルジアに流されないために、ハイフェデリティで制作放映されていますが、この動画は明らかに20世紀SFへのノスタルジアが漲っています)。
KKさんのコメントを分析するに、動物から始まり、機械に終わっています。これは、KKさんのセンターポジションである「声楽」が、動物と機械のミッシングリンクになっていることになり、例えば、古くはクラウス・ノミの振る舞いだとか、最近の渋谷慶一郎氏の仕事ぶりだとかに共通するもので、結論としては「誰もがもっと、声楽と動物、声楽と機械の同一化欲望に付いて、日常的に意識すべきだ」というものでした。
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