菊地成孔さん のコメント
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新宿には結構な数の喫煙可能な店があり、そのほとんどがカフェなのだが、いろいろな店があって助かる。今はそのうちの1つで書いている。一時期激減したストーカーさんがまたぞろ増加傾向にあるので(コロナと関係があると思う)、それがどこの店で、どういう時間帯にどういう周期でそこにいる、とかいったものが書けないのが、つまらないと言えばつまらない。僕はキチガイと対話するのが特に嫌ではない。
彼らは、僕の熱狂的なファン、と自称するが、実際には自分の熱狂的なファンで、身の上話を聞いてやり、自己表現欲を満たしてやれば、落ち着く、ただ、僕を殺そうとしたり、大声で詰め寄ろうとする者も多いので、店に迷惑をかけたくない。警察は昔と全く変わらず、物凄くめんどくさい。
透明なブース付きの店、小さな店の入り口のところに灰皿があって、ドリンクを持ったままそこまで移動すれば良い店、がっつり店内全席喫煙席、という店もある。老人女性が個人でやっている店で、全席喫煙で、尚且つ入り口に、客以外の人々の為に、灰皿が置いてあって、ダンボールに手書きの字で「喫煙所」と書いてある店もある。
いつもリアルなリポートをありがとうございます。ご友人の冥福をお祈り申し上げます。
暴力は土地に根ざしている、という側面も確かにあり、その民族がいかなる民族性によって暴力を「捨てなかった」のか、は非常に重要であると思います(通俗的には、放牧民族やら定住民族やらといった区分がなされますが、あれはあまり意味はないと僕は思っています)。
が、最初はどの土地にも暴力は普通にあったはずで、「近代国家」という旗頭により、暴力を不衛生や経済格差やインフラの不備、等々の「前近代の忌まわしいもの」として1つのフォルダに入れ、国家の脱臭化=近代化に推し進めるのが、最初のリベラリズムだったと僕は思います。少なくとも我が国の戦後における庶民の暴力性の中に、アンチリベラルという理念に準じた物、つまりコンセプトによって駆動された物が量的な多寡はともかく、含まれていたことは間違いありません。
日記中、ホン・サンスの作品評と絡めますが、我が国は太平洋戦争時に、「木と紙でできた、非常に繊細な家屋に住む」「ゲイシャやフトンなどの、トゥイステッドな売買春の文化がある」「浮世絵などの芸術性が高い」といった、優しく繊細な民族であるというパブリックイメージから、特攻=カミカゼ、ハラキリ等々の、「とんでもない事をする蛮族」であるというパブリックイメージを、なんというか、いきなり、といった形で獲得したと思います。
それに際し、黒澤、岡本、木下、成瀬、といった、世界的に名声があり、世界中のシネマテークで観られた日本映画は、日本人がそもそも持つ暴力性や、前近代が描かれ、戦争映画でも文芸作でも日本人は声を荒げ、殺したり死んだり、泣き叫んだり、暴力性の側面は見せていました。
小津安二郎が見せた「異様なまでの物腰の柔らかさ」は、捏造ではなく、日本人(というか、世界中の全国民)が内包する「静かさ」の側面をクローズアップし、「近代の東京でも、こんなに柔らかく、非コミュニュケーション的で、物憂い民族である」という事を、巷間言われるローアングルとか、クローズアップの切り返しとかいう技法に乗せてプレゼンテーションし、驚きと感動を持って外国人に受け入れられたと思われます。
今、大韓民国の人々のパブリックイメージは「授業により礼儀正しく、しかし発言は腹の底までしっかり大声でし、大いに泣き、大いに怒り狂い、海外への進出に衒いがなく、感情が強く、議論の際には激昂まで標準的で、仲直りの際には大いに抱き合い、仲治らない場合は舌打ちや唾棄も標準装備で、決して黙らない、それは、日常的に、非常に辛いものを食べていることにも起因している」といった、つまり「激しい人々」だと思われ、映画やドラマでもリアルに、あるいは誇張的に描かれています。
しかしこれは渡韓経験者や、韓国人の友人がいたり、韓国人のリトルコミューンで暮らしたりした経験がある者にとっては、半分は納得するものの、特に震災以降の彼の国では、主に所得格差によって、「まるで日本人のように、感情を露わにしない、静かな人々」が急増している、ように、他国人には見えるが、もともと内包していたものかもしれない。という軸があり、ホン・サンスはおそらく、ですが小津に倣い、映画の中に登場する人物が、喜怒哀楽をほとんど外に出さず、特に若くなればなるほど、意識が高くなればなるほど、シャイネスやソフトリーを獲得するのだ。という、現実の一側面を描いて、驚くべき成果を上げています。
これは当たり前ですが、どの民族にも、その民族なりの激しさと静かさがあるわけで、それがどう表現の中に設置されるかが映画史の原動力でもあるわけですが、中米から消えることがないように見える暴力性が、歴史や文化風土を超えたところに起因するかどうかは、ラティーノ友人が、在米キューバ人と若きブラジル人、同年輩のアルゼンチン人(ブエノスアイレス人)、しかいなく、しかも音楽家としてしか接していない僕には、リアルなステージが見えないので、とりあえず、としますが、限定的に捉えています。
そして、アクティヴがドメスティックになりがちな僕の音楽は、マーケット対象を日本に置いています。更に言えば、現代の東京。という街を対象に限定しているかもしれません。しかし、偏った数値かもしれませんが、日本人を聴衆にしているはずの僕の音楽は、日本人よりも遥かに、外人、特にカラードのミュージシャンに、ある意味、あっけないほどストレートに受け入れられるのに対し、東京は僕の音楽に、最低でも15年分ほどの無理解を示し、これは単に、音楽の構造素に、カラードの音楽が使用されるからだと思いますが、それだけでは片手落ちのような気もしています。
おっしゃる通り、僕が具体的な混血性と抽象化された戦争を取り込み、それを日本で鳴らし続けた日々は、一旦、休暇に入りました。停戦のような状態です。次に何を持って貴国に上陸するかは、自分の脳をラボにして、歩き回りながら実験を繰り返している最中です。
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