菊地成孔さん のコメント
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実演音楽家としての大賭博は当てたが(現在、大阪でも東京でも3時間ライブの敢行は不可能である。後ろから迫り来る大波をギリギリで避けてビーチフラグを握った気分だ。ライブが出来た、という事実はもちろんだが、あのライブを音源として残せた→ボックスセットを買うと DL 権が付いているので→という点に最も意義がある。聴き直すと物凄い。全員の気迫と集中力が圧倒的というに吝かでない迫力で凝集されている)、講師としての賭博は外れたというか、授業はほぼ毎日なので、そもそもライブのように一点賭けが出来ずに、コロナ禍に普通に振り回されまくっている(それでも小博打の連続だが)。
今回の緊事宣は、前のよりも一般化して評価することが難しい、しかし飲食業とライブハウスという、僕の拠点がピンポイントで抑え込まれているので、今はアンダーポジションからの逆転のチャンスを狙い続けるしかない(これは、誤解を恐れずに言えば、ぶっちゃけ楽しいことだが)、先ずはクインテットのライブが延期になったし(勿論やります。今、延期日程を協議中)、僕のガラケーは留守電でいっぱいだ、その全てが、予約していたレストランからのものだ。
現代日本語の喉への負担という着眼点は慧眼だと思います。しかし、すでに平成に於いて、選挙演説を終えた議員たちが、こぞってインタビューを受けると、声がガッサガサ。という事実が認められています。
僕が見て育った、それこそ文中にある佐藤、田中(田中派同じ吉田学校の生徒ということで、佐藤の腹心に近かったです)、中曽根etcといった議員は、選挙演説に際し、腹式呼吸でゆったりと、130%ぐらいの音量で、粗悪な拡声器に声をゆったり吹き込み、遊説や選挙演説が終わって、テレビ局でインタビューを受けても、全く声枯れしていませんsでした。
僕が「あれ?」と気がついたのは、高垣、福島(みづほ)、安倍、鳩山、と行ったあの世代で、とにかく全員一律、インタビュー席では天龍源一郎みたいになっており「本当にダメだな日本の政治笑。昭和の閣僚は声枯れなどせんかった」と僕に思わせしめました。
と、こちらは政党側ですが、学生運動の、残された資料では、個人差が激しく、美声のまま滑舌の良い学生、喉を枯らして滑舌もワヤワヤな学生、等々、乱立していました。これは、「そもそも学生は閣僚と違い、日常的に演説することが少ないか、無かったから」とするのが正しく、だからこその「政治家天龍源一郎」は、何倍か酷いわけですが笑。
日本の学生運動が吹奏楽になるかどうか僕にはわかりませんが、その昔(と行っても20年ごろ前)「サウンドデモ」とか言っちゃって、ベル真のラヴパレイドのマネで、大型スピーカーを車載したトラックにDJセットを立てて、20台ぐらいでDJプレイをしながらデモ行進した。という、ちょっとした流行がありましたが、あれこそ「目も当てられない参事」で笑、新々左翼たらん関係者(主に雑誌「re:mix」の主筆である2人)をして、完全に転ばせた(=転向者にさせてしまった)曲例です。僕も誘われるがままに参加しましたが、そろそろ58年生きてきて、あれほど索漠として恥ずかしかったDJ経験は後にも先にも、あれだけです笑。
吹奏楽がサウンドデモの主力になる可能性は、現実的に考えても、イメジネーションレヴェルでも、なかなか良いですね。ただ、デモは一日中続くので、少なくとも甲子園応援団以上の体力が必要になりますし、クラブミュージックの10分の1以下のデシベル値であろう生の吹奏楽団は、やはり万人級でないと強度がないし、万人級になったらクラブミュージックよリモデジベル値が上がり、大変な迫力だと思います。
ただ、吹奏楽には「演奏技術が必要(過去の学生運動の基礎スキルは必要ないに等しかった)」→「楽器が演奏できる学生が学生運動をやりたがるかどうか?」という2つの大きな壁があります。是非この壁を突破していただきたいと思います。
最後に、糾弾される側である僕の、学生たちへのアゲインストですが、これはもう「指揮をする」しかありません。突入してくる全ての吹奏楽団は、指揮者を最大権力者と見做し、僕を突破しようとするでしょうが、彼らは同時に、「見事の指揮」が行われた際、無意識的に1つとなって指揮に従う。という属性から逃れられません。左翼吹奏楽団を片っ端から見事に指揮をしまくり、単独で全学生運動を鎮圧、というより、吹奏楽団のコンサートにスリップさせる事で鎮圧とすると思います。新聞の一面には「菊地学長、左翼吹奏楽デモに対し、見事な指揮ぶりで和平的対話に成功。デモを演奏会に変換」「デモがコンサートに」「これは<指揮権発動>なのか?」と言った見出しが並ぶと思います。
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