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santafede33さん のコメント

>>22
非常に丁寧なご返信いただきありがとうございます。

こちらのコメントに、ここまで答えていただけ、ラテンに棲み着かれた身としては大変嬉しく思います。

フォークの自殺とラテンの他殺のご説明ありがとうございます。かなり理解が深まりました。

踊る、という行為は日常と密接に結びついているのが、非常に特徴的なのが我々の大陸だと思います。特に、こちらに棲み着き始めて最初に洗礼を受けるのが、やはり踊る文化です。基本の踊りは、カップルダンスであることも、盆ダンスを主戦場としていた日本人には衝撃的で、踊るという行為がここまで日常と密接に結びついているというのが、音楽とも深く結びついています。簡単に言いますと、飲み会で、1次会は飲みというのは定番ですが、日本におけるカラオケなるものはほとんど存在しなく、2次会、3次会、4次会、5次会、全て踊りというのが、こちらの定番です。しかも、一人で体を揺らすという意味合いでの、踊りというのは、ほとんど存在しなく、「必ず」カップルダンスとなります。(一人で踊っている人もたまに見かけますが、その踊り方はカップルダンスがベースになっているので、左手は腰に右手は肩に添えられています。架空の相手の腰と肩に。)其の際、男性がある程度リードをするのは基本ですが、其の際に「拍」の問題が出てきます。彼らと、一緒に踊ると分かるのですが、確実に、その「拍」の持ち方が、仰られる「ダンサーのリズム感の内部」に置かれているのを実感します。これは実際に、老若男女問わず、様々な方々と踊る中で感じます。さらに言えば、踊りなれている連中(基本は、バリオ育ち。バリオは、基本、ゲットーの意味)ほど、この「拍」の感覚を強烈に感じます。つまり、音楽と合わないが合っている、いつまり音楽を聞いて合わせるという感覚から遠くなっていく、という状態になっている、というように感じます。しかも、厄介なことに、この人々の「拍」の感覚は、クラスで習うものとは、また違うということです。特に、メキシコからコロンビア、チリぐらいまでは、かなりこのカップルダンス(サルサ、メレンゲ、マンボ、クンビア、ノルテ、チチャなどなど)が、なんというか、染み付いたものとして感じます。(アルゼンチンに関しては、踊りに様式美が導入されているのが日常レベルで起こっているので、少し違うな、というのを思ったことがあります。なんでしょう、サルサが訛ってないのです。社交ダンスっぽいのです)
なんとも言えないのですが、「習ったスペイン語」は習ったスペイン語でしかなく、ネイティブとは少し違うという感覚です。(勿論、当然のこととして、ネイティブとほぼ同じ状態になること可能です。全員、後天的に身に着けているものなので。ただ、一度身につけた価値観があれば、それと衝突します)

またクンビアに関するお話、四つ打ちからサルサが最も遠ざかったというお話、非常に面白いです。こちらで、クンビアが文化として消化され始めた(バリオの中で独自の文化として勃興した)のが10年以上前ですが、そこから、彼らのクンビアでの踊りを見ると、段々と遅くなっているのが分かります。タイム感が、実際よりも、倍でとらえて踊っているような感覚というか、逆に、クラーベで踊るのに慣れていたという状態を頭打ちのクンビアに合わせることで、独特なタイム感になっているようにも思います。これも、また、少々個人的な話なのですが、一緒に踊ると、そのタイム感のズレを感じます。勿論、すべての人達ではありません。例えば、クンビアをカルチャーとして、消費している、いわゆる白系ラテン人の中ではタイムが合います。ですが、またしても、バリオの連中と踊ると、ズレるのです。クンビア自体が、ハウスと接近しているということはよく分かります。ただ、それで踊っている彼らが、拍をどこでもって踊りに入っているのか、ということです。

コンビレサ・ミ、私もかなりヤラれました。以前、書いたかも知れませんが、あのパレンケ出身かと思うとかなり胸が熱くなります。カルタヘナには、よく仕事で言っていたのですが、パレンケは伝説の村として、奉られてましたが、そこからこういうグルーヴが出てきたというところに、やはり時代が進んだということを感じます。今度また行く機会があれば、見てきたいと思います。

自己規定による、日本が純血性とラテンが混血性と対峙しているところで、自殺と他殺という点、そして、「混血性には内部で循環しながら拡大してゆく「反自滅性=増殖性」があり、ラテン世界における暴力とは、自らの止められない拡大に対する手段の一つであると思っています。」というのは、非常に的確に刺さります。

シナリオや音楽の構造のことを諸々と書きましたが、それらを媒介に、そしてそれら自身が一体何であるのかということ、その魔法が解けるまで見たいというのがあります。実際にこちらで息を吸っておりますので色々なものに触れる機会も多い中で、日本人である視点からラテンを眺めているというところは他の方々と変わりませんので、そういった意味で、「日本の雑誌文化」のレベルの高さも、その理解の一助となるように思います。私は、しばらく日本の雑誌に触れることもないですが、菊地さんをブエノスに送り込んだのも雑誌でありましたし、挙げられた雑誌のような特集を行っていた80年代という時代は、今から見ると遠い季節になった感があります。そのぐらい雑誌が作り上げた文化がかつてあったのだということ、ラサコスミカを訳して載せていたということで、十二分に伝わってきます。
テレビのニュースを見ていたら、選挙に若者が行って意識がという話をしておりましたが、そんなことしか語ることがないのかということに愕然とします。是非、選挙には行かず、スタニスフラスキーシステムでも実践していてほしいです。ヌケヌケ炭素でお願いしたいです。

カーニヴァルは、サルバドールで見たことがありますが、みんなビーチでセックスしまくっていたのが素晴らしかったです。隣では、ビョークが山車に乗って演っていました。私は、それを眺めていたらタンボールで頭を殴られ、失神しかけました。良い思い出です。
外国へのイメージを刷新すべき中に、メキシコやコロンビアがあることのご指摘も、その通りだと思います。日本に帰った時に、タコスはヘルシーで体にいいとうたった店がありましたが、タコスはこの世で一番体に悪いです。あんなもの食べたら、体壊します。おかげで、私達はボロボロです。これは冗談ですが、外国のイメージの乖離は其の通りだと思いますし、あまりの理解の遠さに呆然としてしまいます。ラテンって、やっぱりなんだかんだやばいんで、ヤバい奴しか来ないんで、あんまり紹介する手腕に長けている人が少ないように思います。私のことですが。

<エル・ジャス・ドムニスタスの誕生>、「赤い肌の人々」が、ついに出てくるのですね。前にこちらでスペイン語の読み方を聞かれたたことを思い出しました。楽しみにしています。帰国できれば、見たいです。

最後にまた質問です。

 「現代思想 特集<ラテン>」は、「現代思想 特集<ラテン>」と並ぶ名特集で、僕も、いつ読み潰しても良いように、3冊持っています。翻訳で読んでも迫力と狂気がものすごいですね。

こちら 「現代思想 特集<ラテン>」と2つ同じ雑誌が紹介されているのですが、もう一冊は、何でしょうか?
No.24
29ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 社会では選挙らしく、なんだか今回は激戦だったとかで、誰もが選挙の話をしているのだが、個人的には「岸辺露伴は動かない」のセカンドトリロジーのレコーディングが明日で、今日まで「東京ザヴィヌルバッハリユニオン」(結構な頻度でリユニオンしている笑。 DC/PRG がもしリユニオンするんだったら1万年後が良い)の準備とリハ(3回の予定を、流石に2回でいいだろ。と言って1回カットしてもらった。僕は DC/PRG でもペペでもリハは必ず1回である)、そして五十嵐と坪口の凄絶な笑、イニシアチブの取り合い笑、に付き合いながら、「岸辺」の作曲をし、デモを作り、渡辺監督に送っては打ち返し(デモへの要求のこと)を受けて再デモを作りながら、ペン大と美学校の授業をやって、当サイトの運営をやっていたので、選挙どころではなかった。    と、以上はちょっといつもより忙しいだけの日々のジョブ量を書いて目くらまししてるだけで、そもそも、暇で暇で仕方がなかったとしても(懐かしいなあ、今年の6月。ライブが一本もなく、ラジオデイズ以外、何もすることがなかった。また来ないかしらあんな日々)、選挙には全く一切合切、仁丹一粒を割った破片ほども興味がない。10年前の「世紀の大転換」の時も「なんか言ってるなあ政治家が」「なんかはしゃいでるなあ、国民が、バカっぽ」ぐらいに思っていた、これをクリシェにしてはいけないが、この時期のことは「時事ネタ嫌い」に書いてある。タクシー運転手がハイになっていた。今まで何回タクシーに乗ったかわからないが、あれほど物の哀れを感じさせる運転手はいなかった。  
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