社会では選挙らしく、なんだか今回は激戦だったとかで、誰もが選挙の話をしているのだが、個人的には「岸辺露伴は動かない」のセカンドトリロジーのレコーディングが明日で、今日まで「東京ザヴィヌルバッハリユニオン」(結構な頻度でリユニオンしている笑。DC/PRGがもしリユニオンするんだったら1万年後が良い)の準備とリハ(3回の予定を、流石に2回でいいだろ。と言って1回カットしてもらった。僕はDC/PRGでもペペでもリハは必ず1回である)、そして五十嵐と坪口の凄絶な笑、イニシアチブの取り合い笑、に付き合いながら、「岸辺」の作曲をし、デモを作り、渡辺監督に送っては打ち返し(デモへの要求のこと)を受けて再デモを作りながら、ペン大と美学校の授業をやって、当サイトの運営をやっていたので、選挙どころではなかった。
と、以上はちょっといつもより忙しいだけの日々のジョブ量を書いて目くらまししてるだけで、そもそも、暇で暇で仕方がなかったとしても(懐かしいなあ、今年の6月。ライブが一本もなく、ラジオデイズ以外、何もすることがなかった。また来ないかしらあんな日々)、選挙には全く一切合切、仁丹一粒を割った破片ほども興味がない。10年前の「世紀の大転換」の時も「なんか言ってるなあ政治家が」「なんかはしゃいでるなあ、国民が、バカっぽ」ぐらいに思っていた、これをクリシェにしてはいけないが、この時期のことは「時事ネタ嫌い」に書いてある。タクシー運転手がハイになっていた。今まで何回タクシーに乗ったかわからないが、あれほど物の哀れを感じさせる運転手はいなかった。
コメント
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まとまりのない乱文というより、選挙自体がまとまりがないので笑、リアルだと思いますよ笑。僕は国政は(賭けない)競馬みたいな感じで見ています。競馬なのに賭けないんで笑、つまらないことこの上ないです笑。
>>8
これも相当前に言って、誰にも相手にされなかった言葉だなあ笑。「見解」とおっしゃいますが、これは原理的に「自分の発言に<見解>はできない」です笑。喧嘩は他人の発言や行動に寄せるものなので。
意味は、書いてある通りで笑、フォークは(民族的なフォークロアのことではなく、都会のフォークミュージックのことです)自殺的で、tラテンミュージックは他殺的なものだ、ということです。そりゃあ、フォーク聞いて人殺しにゆく奴もいるでしょうし、ヒスパニックだって数多く自殺しますが、その時音楽は消えているでしょう。音楽の構造のことであって、ドラスティックな意味ではないですね。
>>9
テレビでもやってました。
今、田舎で、共和党の候補が、トランプの威光に(そんなんもうないと思いますが笑)すがらず、シンプルに公約を立て、バイデン批判をすれば、普通に勝てる気がします。バージニアは20年近く民主党だったと思いますが、ひっくり返ったんで、ニュースになったんでしょうね。
バイデンは、アフガニスタンでしくじったのも大きいですしょうし、「リベラルグローバリズムのアメリカ大統領」なんて一見、新しいように見えて、アメリカはずっとそれだった訳で笑、リベラルの内容、変えてるだけですよね笑、しかも今は弱体化を自己申告しているので、かなり強く「同盟」を呼びかけていて、それってタイマンじゃ中国に勝てない、と思っちゃってるんでうよね。予期不安的に。まあ、時が証明しますが、バイデンなんて、そもそも相手が悪役だから勝てただけのおじいさんで、アメリカの不老不死のマッチョイズムを無理に体現しようとして逆に死神みたいになっちゃってますよね笑、これから寒くなるので、ご自愛を。という自説の挨拶が似合う大統領ですよ笑。
CDBOXの5公演(2019年の福岡、梅田、新宿、2021年の梅田、新木場)最高でした
今日最後のライブを聞きました
大音量で聞きたかったので高速道路かラブホテルだなと考えていましたが、結局すべて高速道路でした
そのうち1つはG1仙台大会の道中で、心細くて菊地さん指人形も連れて行っちゃいました
皆さんどう遊んでいるんでしょうかね
僕はあと、かばんに忍ばせてむにむにしたりしてますが
一度もライブへ行ったことはありませんでしたが、DCPRG最高でした
車内でとにかくいい気分でうっとりしていました
ありがとうございました
>>17
確かに見解ではないですね。失礼しました。
改めてですが、仰られているフォークは自殺、ラテンは他殺の音楽構造とは、どういったものなのでしぃうか?是非、解説頂けると嬉しいです。
加えてですが、ジャンルとしてのクンビアをどのようにご覧になっているかも、何かご意見あれば聞いてみたいです。
単純に、コロンビア-メキシコラインの横断が、最近特に顕著になってきており、メキシコのコロンビア化が止まらないからです。それは、文学から始まり、音楽に波及し、殺人も移行しております。コロンビアも一定の水準を保ったままですが、メキシコは顕著になっております。
以前、ラジオでホンジュラスに言及されておりましたが、現在殺人率トップ10の中にメキシコから7都市ランクインしております。ちなみにサンペドロスーラも引き続きランクインしておりますが、しばらく前から一位の座からは転落しております。
元凶は、CJNGと言われておりますが、かつてのメデジンとはもう位相が違う様子になっております。ただ時代が進んだということですが、根本は同じです。
ぺぺはラテンの最南端に出自の一端に持ち、DCPRGがアングロを出自の一端に持っていると理解しております。
アメリカ大陸(カリブ含む)の射程の中に空白地帯が生じていると思い(特に、ラサコスミカの4人種中の赤い肌の人々)に対して、今後アプローチがあるのかということに興味があります。
先日拝見した、ドスモノスとの対談での、ラサコスミカに対するパートを読みましたが、非常に面白かったです。80年代にあの奇書が翻訳されていたのですね。ドスモノスはあまりピンと来ないのですが、リミックス秀逸でした。以前、ラジオがドミュにスターズに乗っ取られていましたが、初めてJヒップホップで痺れました。盤よりも、ラジオジャックの方がグッと来ました。
さらに映画評も拝読しました。プエルトリコは、ラテンのなかでは非常に特権的な地位にいる(良くも悪くも)国で、NYに行くたびにパピ、パピ、声をかけてくれる素敵な方々がコミュニティに多くいます。(私がNYに滞在する時は、金銭的にも心情的にもラテンコミュニティになってしまいます。インザハイツはまだ未見ですが、是非見てみたいと思いました。また監督が確かアジア系だったのが印象的です)
移民の世代間の位相の違い、的確に指摘されていて、日本でもこの感覚が伝わるといいなと思いました。素晴らしい仕事でした。ブラセロがあった時代と今では移民におけるプロセスは全く違います。これもまた時代が進んだのですが、根本的には全く変わりません。
質問の意図としては、上記二つのテキストから見える菊地さんのラテンへの解釈に、さらに以前仰られていたその音楽の構造も理解してみたいと考えております。
最近は、アルゼンチンのメキシコ移住も止まりません。こういうのは、持ちつ持たれつですね。
ガボやルルフォ、フエンテス、プイグなど名だたる作家がシナリオに進出しましたが、まだ両輪の花を咲かせたとまでは言い切れません。そんな中、ギジェルモ・アリアガが昨今文学を更新し続けているのは、非常に特異な例として見ています。血が濃くて大変です。
シナリオも構造分析が可能でし易いので、他の分析とリンクさせて考察してみたいです。ガボが行なっている小説分析と、シナリオ分析の位相が違うのも、非常に興味深いです。
>>21
<改めてですが、仰られているフォークは自殺、ラテンは他殺の音楽構造とは、どういったものなのでしぃうか?是非、解説頂けると嬉しいです。>
まず、ここでの「フォーク」は、「日本のフォーク」という意味で、ここでの「ラテン」は、おおよそ、キューバへの観光ブーム(禁酒法由来)の最中に目がヒットした「エルマニセロ(邦題「南京豆売り)」以降の、全ての「ラテンミュージック」のことです。
よく、アメリカ文学のテーマは流木と冒険、フランス文学のテーマは金と愛、日本文学のテーマは病褥と自殺、などと言われますが、日本語で歌われるあらゆる「日本のフォークソング」は、音楽を、音楽と文学のミクスチャーだとした場合、文学寄りの、つまり「音楽が少ない音楽」だと僕は考えており、こうしたインターテクスチャリティで捉えた結果も、何も考えずに無心に聴いた直感も等しく「日本のフォークは、自殺を美とし、自殺を欲望している」と感じています。カレッジフォーク以降の、ポップカルチャー内での「フォーク」を「フォルクローレ」と拡大解釈しても、民謡にも端唄小唄にも常磐津にも都都逸にも、軍歌でさえも、この「自殺感」を、僕は全く感じません。(近代)文学と無縁だからだと思っています。
一方で、「ラテンミュージック」は、ご存知だと思いますが、最近だとゴンフィンガー(ゴンはガンの事で、ゴンフィンガーはガンフィンガーすなわち、指をピストルの形にして、褒め称える行為で、中指を突き立てるファックと反対に発展した、同一原型の行為です)に代表される「ブッ放す」感、というか、有名な「リオのカーニヴァルの時、ギャングが発砲しても(サンバの音にかき消されて)発砲音が聞こえないので、カーニヴァル中に銃殺が行われることがある」という伝説を始め、過剰なまでのセクシーさ(もう、セクシーに見えないほど充溢する)も、死の秘匿だと感じていて、この時の「死」は、他殺だと感じています。
「ラテンとはエロくて陽気で、ややコミカル」というイメージの偏向は、病弱と自殺を文学のテーマとする日本という国による輸入フィルタリングの結果だと思っています。
<加えてですが、ジャンルとしてのクンビアをどのようにご覧になっているかも、何かご意見あれば聞いてみたいです。>
クンビアはご存知の通り、コロンビア産のフォルクローレですが、ブエノスアイレス発のデジタルクンビアまで含め、「ラテン音楽がサルサに飽きた結果」ということが出来ると思います。後段に出てくる、音構造に関してですが、クンビアとサルサの決定的な違いは、ベースが拍頭に来ることで、クラーベを必要としないことです(=ハウスミックスが出来ない、もしくはしても意義が消失する)。
都市音楽におけるダンスミュージックの循環や反復(←これは小節やリズムのことではなく、音構造=ジャンル全体のことを指します)の相は「4つ打ち」を巡る相で、サルサが革命的だったのは、4拍子の音楽の中で、ベースも、打楽器の最低音も拍頭にせず拍裏にした事で、拍頭を出力せず、つまり実態をなくして、ダンサーのリズム感の内部に置いたことです。先ほどの相の話で言えば、ハウスに接近しています。
クンビアに限らず、ラテンミュージックの音構造は混血的で、「血統的に独立したアフリカ音楽」に対し、「血統的に独立しない」ので、クンビアにはマリアッチの要素やサルサ等々の要素も多分に含まれますが、その特異点の最大なものは、サルサが最遠まで遠ざけた「4つ打ち」に戻っている、という事と言え、こうした下部構造が音楽のジャンルを決定する最大のことで、鳴らされ、踊る目的に特異点は感じません。
<単純に、コロンビア-メキシコラインの横断が、最近特に顕著になってきており、メキシコのコロンビア化が止まらないからです。それは、文学から始まり、音楽に波及し、殺人も移行しております。コロンビアも一定の水準を保ったままですが、メキシコは顕著になっております>
コロンビアはコケインの産地にして流通、中継点として有名すぎ、文化の認識が世界的に遅れていると思いますが、音楽で言えば、クンビアよりも僕は、コロンビアのアフリカ系(その意味ではクンビアもそうですが)ヒップホップクルーである「コンビレサ・ミ」が、今の所世界で一番ヤバいヒップホップだと思っています。彼らは明らかに現代のヒップホップクルーなのですが、電気楽器も(ドープなアルバムでは)コード楽器も使わず、打楽器のアンサンブルだけでラップします。
<以前、ラジオでホンジュラスに言及されておりましたが、現在殺人率トップ10の中にメキシコから7都市ランクインしております。ちなみにサンペドロスーラも引き続きランクインしておりますが、しばらく前から一位の座からは転落しております。元凶は、CJNGと言われておりますが、かつてのメデジンとはもう位相が違う様子になっております。ただ時代が進んだということですが、根本は同じです。>
そうした相は、株価のように変動しますが、株式市場のように、革命的なことは滅多に起こりませんよね。「ハリスコ新世代カルテル」も、今や結成13〜4年目だと思いますので、「新世代」とは言えず、循環系、混血系の変化をしているのかも知れないですね。
<ぺぺはラテンの最南端に出自の一端に持ち、DCPRGがアングロを出自の一端に持っていると理解しております>
はい。
<アメリカ大陸(カリブ含む)の射程の中に空白地帯が生じていると思い(特に、ラサコスミカの4人種中の赤い肌の人々)に対して、今後アプローチがあるのかということに興味があります。>
端的に申し上げると、無いです。あまり音楽の計画の話は、準備状態から話すべきでは無いのですが、今僕が(リーダーとして)作ろうとしているバンドは無茶苦茶シンプルに言うと「東京の音楽」です。
<先日拝見した、ドスモノスとの対談での、ラサコスミカに対するパートを読みましたが、非常に面白かったです。80年代にあの奇書が翻訳されていたのですね。ドスモノスはあまりピンと来ないのですが、リミックス秀逸でした>
「現代思想 特集<ラテン>」は、「現代思想 特集<ラテン>」と並ぶ名特集で、僕も、いつ読み潰しても良いように、3冊持っています。翻訳で読んでも迫力と狂気がものすごいですね。
ドスモノス は、こんなに毎日パーカー着てるのに笑、申し訳ないんですが、「お好みかどうか?」と尋ねられれば、個人的には、先進性の素晴らしさもカリスマも感じますが、あんまり「お好み」では無いです。ドスシキ(リミックス盤)も、評価は高いですが、N/Kとしても、菊地成孔としても「荘子くんのエネルギーと才能を信じよう」と感じてしまっているのは確かです。要するに、ヤラれてないので、いつからヤラれたいな。と期待しています。
先日、オムス、QN、ジュマと飯食いに行ったんですが、「ドスモノス はボツが一番ヒップホップ」という保守性で意見が一致しました笑。ジャズドミュニスターズが「エル・ジャス・ドムニスタス」に変容する作品は準備中ですが、あのチームは根幹がフロイドとベルグソンなので、そういう流れで「ラテン」になるとして、あまり伝わらないな笑、と思っています笑。
<以前、ラジオがドミュにスターズに乗っ取られていましたが、初めてJヒップホップで痺れました。盤よりも、ラジオジャックの方がグッと来ました。>
はい、僕もそう思い笑、彼らにラジオジャックさせる事にしました。ああいう事こそが真の「ニューリミックス」だと思う訳で、「ドスシキ」のニューリミックスは、非凡で先進性はあるけれども、前述、ヤラれてまではいませんし、逆に嫌悪感も全くありません。
ラジオジャックは、最後の、環七(です)の静寂と車の音まで、自分でやっておきながらアレですが、ヤラれました笑。ただ、ドスシキはかなり売れて評価も高いですが、「ジャズドミュニスターズの逆襲」は、3000回弱再生されただけで、谷王すら聞いていませんので笑、ヒップホップでの加齢の表現、に関しては、常に考えています。
<さらに映画評も拝読しました。プエルトリコは、ラテンのなかでは非常に特権的な地位にいる(良くも悪くも)国で、NYに行くたびにパピ、パピ、声をかけてくれる素敵な方々がコミュニティに多くいます。(私がNYに滞在する時は、金銭的にも心情的にもラテンコミュニティになってしまいます。インザハイツはまだ未見ですが、是非見てみたいと思いました。また監督が確かアジア系だったのが印象的です)>
何番目かに書きましたが、監督のジョン・M・チュウは中国系エリートで、なんとカルフォルニアの最高級住宅街パロアルトで生まれています。イン・ザ・ハイツは是非ご覧ください。
<移民の世代間の位相の違い、的確に指摘されていて、日本でもこの感覚が伝わるといいなと思いました。素晴らしい仕事でした。ブラセロがあった時代と今では移民におけるプロセスは全く違います。これもまた時代が進んだのですが、根本的には全く変わりません。>
ありがとうございます。ただ、これは、映画に描かれてることで、でも日本人にはほとんど理解されていないであろう点なので、日本語で指摘を加えましたが、伝わる伝わらないで言ったら、伝わらないと思います笑、そもそもあんな長文を読むのは、一部の好事家になっていますし笑
<質問の意図としては、上記二つのテキストから見える菊地さんのラテンへの解釈に、さらに以前仰られていたその音楽の構造も理解してみたいと考えております。>
僕の発言は、巷間、「(日本の)フォークは根幹に自殺を志向している」VS「ラテン音楽は<生きること>を志向している」とまとめられがち、かつ、それはあんまり正鵠を射てないと思ったので、「生×死」ではなく「自殺×他殺」とした訳ですが、「他殺」というのは端的に暴力性です。日本の暴力は自傷にしか見えません。自傷にも快楽があるのでそこが魅力な訳ですが、このことは「非混血性=純潔性(実際に日本民族を始め、すべての純潔性は幻想であり、現実である混血性と対峙しますが)」の息苦しさに原理が置かれていると思います。
混血性には内部で循環しながら拡大してゆく「反自滅性=増殖性」があり、ラテン世界における暴力とは、自らの止められない拡大に対する手段の一つであると思っています。
<最近は、アルゼンチンのメキシコ移住も止まりません。こういうのは、持ちつ持たれつですね。>
今年はピアソラの生誕100年でしたので、特集番組がいくつか制作されました。僕にもちょっとしたオファーがあったのですが、やはり質量的に、すべて小松亮太さんが独占するのが順当だと思い、辞退しました。小松さんは、「アルゼンチンタンゴに関する伝説は一つ残らず全部ウソだ」という、かなり正しいビジョンをお持ちで、テレビを見ていて圧倒されましたが、「イン・ザ・ハイツ」組さえも、周到に避けたメキシコ文化に関しては、コロンビアと並び、21世紀の「外国へのイメージ」を更新すべき土地だと思います。
<ガボやルルフォ、フエンテス、プイグなど名だたる作家がシナリオに進出しましたが、まだ両輪の花を咲かせたとまでは言い切れません。そんな中、ギジェルモ・アリアガが昨今文学を更新し続けているのは、非常に特異な例として見ています。血が濃くて大変です>
僕はオールタイムベストに「蜘蛛女のキス」があるのですが、マニュエルプイグは脚本を書いていないし、汎用版として広がっている「舞台版」があまりにひどいし(蜘蛛女が主人公!)、確かにまだ難しいところですね。ギジェルモアリアガの、少なくとも「映画人」としての業績は「夜のバッファロー」以外は、あまり認めておらず、ただ、ドスモノス ではありませんが、「更新」している感は半端ないと思いますし、この「好き嫌いはともかく、更新は成されている」という感覚は、きっと僕も多くの人々に与えていると思っており、なんらかの共振性は感じます。
<シナリオも構造分析が可能でし易いので、他の分析とリンクさせて考察してみたいです。ガボが行なっている小説分析と、シナリオ分析の位相が違うのも、非常に興味深いです。>
有名なバルトのコノテーション(共時性言語学)を基盤とする物語分析(その実践の一つに「M/D」がタイトルをパクった「S/Z」がありますが)や、マルケスのそれは、わかりやすさとわかりにくさの違いが大きいですが、シナリオ、特にエンターテインメントのシナリオ分析は、一回、定番みたいな本が出ていて、読んだのですが、僕には「エンターテインメント映画の脚本の分析」とは思えず、むしろ「エンターテインメントとは何か?」という本に思えました。エンターテインメント映画の脚本分析は、プラモデルのようにシンプルであり、レゴブロックのように複雑で、実はハンバーガーの分析のようなものだと思っています。
前述、「新しいバンド」の話に終始してしまいましたが、来年の年頭に、ぺぺトルメントアスカラールが東京で公演します(今週中に情報公開があります)。ここでは、前述退けた「赤い肌」の人々に対するアプローチを考えていますし、再び前述、<エル・ジャス・ドムニスタスの誕生>、も列に並んでいます。
>>22
すみません、重要なワードがぬけていました。
<都市音楽におけるダンスミュージックの循環や反復(←これは小節やリズムのことではなく、音構造=ジャンル全体のことを指します)の相は「4つ打ち」を巡る相で、サルサが革命的だったのは、4拍子の音楽の中で、ベースも、打楽器の最低音も拍頭にせず拍裏にした事で、拍頭を出力せず、つまり実態をなくして、ダンサーのリズム感の内部に置いたことです。先ほどの相の話で言えば、<クンビアは>ハウスに接近しています。>
>>22
非常に丁寧なご返信いただきありがとうございます。
こちらのコメントに、ここまで答えていただけ、ラテンに棲み着かれた身としては大変嬉しく思います。
フォークの自殺とラテンの他殺のご説明ありがとうございます。かなり理解が深まりました。
踊る、という行為は日常と密接に結びついているのが、非常に特徴的なのが我々の大陸だと思います。特に、こちらに棲み着き始めて最初に洗礼を受けるのが、やはり踊る文化です。基本の踊りは、カップルダンスであることも、盆ダンスを主戦場としていた日本人には衝撃的で、踊るという行為がここまで日常と密接に結びついているというのが、音楽とも深く結びついています。簡単に言いますと、飲み会で、1次会は飲みというのは定番ですが、日本におけるカラオケなるものはほとんど存在しなく、2次会、3次会、4次会、5次会、全て踊りというのが、こちらの定番です。しかも、一人で体を揺らすという意味合いでの、踊りというのは、ほとんど存在しなく、「必ず」カップルダンスとなります。(一人で踊っている人もたまに見かけますが、その踊り方はカップルダンスがベースになっているので、左手は腰に右手は肩に添えられています。架空の相手の腰と肩に。)其の際、男性がある程度リードをするのは基本ですが、其の際に「拍」の問題が出てきます。彼らと、一緒に踊ると分かるのですが、確実に、その「拍」の持ち方が、仰られる「ダンサーのリズム感の内部」に置かれているのを実感します。これは実際に、老若男女問わず、様々な方々と踊る中で感じます。さらに言えば、踊りなれている連中(基本は、バリオ育ち。バリオは、基本、ゲットーの意味)ほど、この「拍」の感覚を強烈に感じます。つまり、音楽と合わないが合っている、いつまり音楽を聞いて合わせるという感覚から遠くなっていく、という状態になっている、というように感じます。しかも、厄介なことに、この人々の「拍」の感覚は、クラスで習うものとは、また違うということです。特に、メキシコからコロンビア、チリぐらいまでは、かなりこのカップルダンス(サルサ、メレンゲ、マンボ、クンビア、ノルテ、チチャなどなど)が、なんというか、染み付いたものとして感じます。(アルゼンチンに関しては、踊りに様式美が導入されているのが日常レベルで起こっているので、少し違うな、というのを思ったことがあります。なんでしょう、サルサが訛ってないのです。社交ダンスっぽいのです)
なんとも言えないのですが、「習ったスペイン語」は習ったスペイン語でしかなく、ネイティブとは少し違うという感覚です。(勿論、当然のこととして、ネイティブとほぼ同じ状態になること可能です。全員、後天的に身に着けているものなので。ただ、一度身につけた価値観があれば、それと衝突します)
またクンビアに関するお話、四つ打ちからサルサが最も遠ざかったというお話、非常に面白いです。こちらで、クンビアが文化として消化され始めた(バリオの中で独自の文化として勃興した)のが10年以上前ですが、そこから、彼らのクンビアでの踊りを見ると、段々と遅くなっているのが分かります。タイム感が、実際よりも、倍でとらえて踊っているような感覚というか、逆に、クラーベで踊るのに慣れていたという状態を頭打ちのクンビアに合わせることで、独特なタイム感になっているようにも思います。これも、また、少々個人的な話なのですが、一緒に踊ると、そのタイム感のズレを感じます。勿論、すべての人達ではありません。例えば、クンビアをカルチャーとして、消費している、いわゆる白系ラテン人の中ではタイムが合います。ですが、またしても、バリオの連中と踊ると、ズレるのです。クンビア自体が、ハウスと接近しているということはよく分かります。ただ、それで踊っている彼らが、拍をどこでもって踊りに入っているのか、ということです。
コンビレサ・ミ、私もかなりヤラれました。以前、書いたかも知れませんが、あのパレンケ出身かと思うとかなり胸が熱くなります。カルタヘナには、よく仕事で言っていたのですが、パレンケは伝説の村として、奉られてましたが、そこからこういうグルーヴが出てきたというところに、やはり時代が進んだということを感じます。今度また行く機会があれば、見てきたいと思います。
自己規定による、日本が純血性とラテンが混血性と対峙しているところで、自殺と他殺という点、そして、「混血性には内部で循環しながら拡大してゆく「反自滅性=増殖性」があり、ラテン世界における暴力とは、自らの止められない拡大に対する手段の一つであると思っています。」というのは、非常に的確に刺さります。
シナリオや音楽の構造のことを諸々と書きましたが、それらを媒介に、そしてそれら自身が一体何であるのかということ、その魔法が解けるまで見たいというのがあります。実際にこちらで息を吸っておりますので色々なものに触れる機会も多い中で、日本人である視点からラテンを眺めているというところは他の方々と変わりませんので、そういった意味で、「日本の雑誌文化」のレベルの高さも、その理解の一助となるように思います。私は、しばらく日本の雑誌に触れることもないですが、菊地さんをブエノスに送り込んだのも雑誌でありましたし、挙げられた雑誌のような特集を行っていた80年代という時代は、今から見ると遠い季節になった感があります。そのぐらい雑誌が作り上げた文化がかつてあったのだということ、ラサコスミカを訳して載せていたということで、十二分に伝わってきます。
テレビのニュースを見ていたら、選挙に若者が行って意識がという話をしておりましたが、そんなことしか語ることがないのかということに愕然とします。是非、選挙には行かず、スタニスフラスキーシステムでも実践していてほしいです。ヌケヌケ炭素でお願いしたいです。
カーニヴァルは、サルバドールで見たことがありますが、みんなビーチでセックスしまくっていたのが素晴らしかったです。隣では、ビョークが山車に乗って演っていました。私は、それを眺めていたらタンボールで頭を殴られ、失神しかけました。良い思い出です。
外国へのイメージを刷新すべき中に、メキシコやコロンビアがあることのご指摘も、その通りだと思います。日本に帰った時に、タコスはヘルシーで体にいいとうたった店がありましたが、タコスはこの世で一番体に悪いです。あんなもの食べたら、体壊します。おかげで、私達はボロボロです。これは冗談ですが、外国のイメージの乖離は其の通りだと思いますし、あまりの理解の遠さに呆然としてしまいます。ラテンって、やっぱりなんだかんだやばいんで、ヤバい奴しか来ないんで、あんまり紹介する手腕に長けている人が少ないように思います。私のことですが。
<エル・ジャス・ドムニスタスの誕生>、「赤い肌の人々」が、ついに出てくるのですね。前にこちらでスペイン語の読み方を聞かれたたことを思い出しました。楽しみにしています。帰国できれば、見たいです。
最後にまた質問です。
「現代思想 特集<ラテン>」は、「現代思想 特集<ラテン>」と並ぶ名特集で、僕も、いつ読み潰しても良いように、3冊持っています。翻訳で読んでも迫力と狂気がものすごいですね。
こちら 「現代思想 特集<ラテン>」と2つ同じ雑誌が紹介されているのですが、もう一冊は、何でしょうか?
>>24
失礼。「プロレス」です。
>>19
ありがとうございます!「結局全て高速道路だった」はパンチラインですね笑。僕の指人形は、魔除けにでも使ってください。指に刺したままセックスするのも良いかと思います笑。