菊地成孔さん のコメント
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驚くべきことに、3月も終わってしまった。「ラディカルな意志のスタイルズ」のリハーサル(準備の方が手間がかかる)、オーニソロジーの新作、 QN / K の新作、割り込みで入ってきた映画音楽、この日記、3つの連載、大恐慌へのラジオデイズ、そのほかのコンテンツ、新音楽制作工房の運営、ペン大、美學校、「 i 」が壊れたまま、これらが並行して走っている。今、文末の「走っている」が、「走ってる」になっていて、ポエムみたいになったので、慌てて「い」を差し込んだところだ。
あからさまに分かる誤変換よりも、こちらの方が厄介だ。「知っている」と書いて「知ってる」と出力する。文字を落としても言葉は通じる。コスパ的にもノリ的にも、1文字でも略したい、例えば Twitter などは、これを意図的に取り入れているはずだ。当然「取り入れているはずだ」は「取入れてる筈」になる。歌の歌詞のように見える。あとひと押しで、「取入れ
追記ですが「限定核であれ、プーチンは使いません。とうか、使えません。正恩にも無理でしょう」の前には
<アメリカとEU系が組んだ「世界中」が、どれだけ彼等を兵糧攻めにして追い詰めても>
がつきます。長崎、広島の皆さんに申し上げたいのは、核兵器が、大国、小国、含め、手放すということは不可能であること、また、保有しても使えないこと、そして、核兵器の廃絶と、世界平和の実現は無関係だということです。
被爆世代の方々が、下の世代に、核の恐ろしさを伝えてゆくことはとても重要です、が、若い世代の方々が、核兵器に関する、新しい見方をできるようになり(核廃絶を諦めるとか、日本も核保有しようと思うとか、そういう意味ではなく)、過去の世代の硬直した価値観を揺るがせるようになった時、広島と長崎の経験は、伝承を超え、世界平和の実現に、ほんの少し向かうと僕は思っています。
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