菊地成孔さん のコメント
このコメントは以下の記事についています
<1月22日(月)>
ガラケー 2 つ持ちは我ながらいかついと思うので気に入っている(データ移送をしないで、古いガラケーを電話帳として使っている)。何せ、恐るべきことに、としか言いようがないが「電話番号を暗記する」という、もうとっくに萎縮して使えなくなっていると思い込んでいた脳の一部が活性化したのである。
0×0 ×××× ××××
という、たった11の文字列の暗記が、高校生の頃までは、100近く暗記していた。最初のガラケーを買った時から、その能力は徐々に落ちて、そのうち、完全になくなってしまった。
長沼に電話しようとして、五十音の「な」段でサッと探って、隣にある「長尾」(美學校のスタッフ)に電話してしまい、笑いながら「長沼と間違えた笑」と何度謝ったか知れない。
どんな能力だって、使わなければ衰え、やがて失ってしまうものだ。そのほとんどは、テクノロジーの恩恵によってである。
だからまあ、前のガラケーで番号を引いて、それを一個一個打ち込んだところで、もうあの力は戻って来はしないと思っていた。子供の頃は屋根の上に登って、歌を歌ながら足元も見ずに瓦から瓦へステップを踏んで行って(ターンも楽勝で入ってましたよ。学童用の登校靴で)、一度も屋根から落ちたことがない。今いきなりやったら墜落死するだろう。僕が96キロだった頃、100キロ超の友達がいて、話が盛り上がると、奴は僕にヘッドロックを仕掛け、僕は奴のレバーを狙って思いっきり左でボディを連打していた。今いきなりやったら肩が抜けるか肘を壊すだろう。
子供の頃は皆、超人だったし、僕も超人だった。フリスビーというものが日本に入ってきた時、後ろを向いて「投げて良いよ」と言うと、友達は皆笑ってゆるく投げてきたが、投げても投げても僕が後ろ手ではたき落とすので、みんな全力で投げるようになった。
少なくとも日本人の、というか、日本の潔癖さと治安の良さ、何よりも平和がもたらした構造的な悲劇は、日常的に死体を目にしなくなり、勢い、SNSの画像とか、地下的な雑誌とかでしか見れなくなってから、元号が3つも過ぎてしまったことだと思います。ペットの死骸さえ、今は清潔に隠蔽されます。
僕ですら、ストリートで犬やカラスの死骸を見たのはオリンピック誘致決定による石原都政による浄化の前で、それらはすぐに処分されず、最後は紙と箸のようにカラッカラに乾いて、まだ湿り気があった生々しい状態がもたらず、「あの感じ」は消え失せて、最後は粉化して風に吹かれて消えてしまうのだろうと思うばかりでした。
僕は「戦場カメラマン」的な職業を、豊かな啓蒙とも思いますし、長い時間をかけて、屍骸という存在の啓発力を、アンシャンレジーム化する運動の原初だったとも思っています。ISに首を刎ねられた人物に対する評価の散逸性はともかく、あの事件以来、2次元ですら、治療を受けられないまま死にゆく子供達のものばかりになった気がします。
ああした動画の訴求力は凄まじく、国境なき医師団は、これほど何をやっても賛否が分かれる時代にあっても、正義であるとしか読解されません。僕はそれになんの文句もないけれども、人間の根源的な活力、というより「陽気さ」と言い換えてもこの際、良いのだけれども、世界は陽気さの源さえ漸近線的に失いつつあり、萌えたり落ちたりを繰り返す、中世の貴族のようなメンタルを肥大化させていると思っています。
首都高にしたいが転がっているような状況が好ましい、とは、口が裂けても言いませんが、というより、そんな状況が万が一来た時、我々が悲嘆やトラウマだけを得るのではない。ということが、もっとも伝わりづらい時代にあって、少なくとも、この場所にしか書けないこと、という状況が少しでも変わってゆけば、と思いながら音楽を作っています(今はぺぺのレコーディングの準備中です)。
Post