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菊地成孔さん のコメント

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菊地成孔
>>19

 スンマセン笑、コメント全否定するつもりじゃないんですけど

<天才の定義は、なんとなくの感覚で出来てしまうことだと勝手に思っていますが、天才ホイホイの菊地さんとしての天才の見解はどんな感じですか?>

 もうこれ文意がわかりません笑 ↑ 「なんとなく」「の感覚」「で」「出来る」というのは、一体どう意味でしょうか笑

 僕の天才の定義は、飛び抜けた才能があって、社会とうまくできない気狂いの人です。

<1月15日の日記の『グッド·ウィル·ハンティング』観ましたが、あれも天才の話(ざっくり言えばですが)でしたが>

 あれは天才の話ではなく笑、天才的な才能を持った青年と、普通の精神分析医の友情の話だと思いますよ笑。「レインマン」とか、サヴァン(症候群)みたいのを扱った映画の方が「天才を厚肩映画」だと思います。

<そして、今回の日記の〈1月25日(木)〉のインターミッションがとっても精神分析に感じました笑>

 いやあれは笑、何も分析していないです笑。強いて言えば身の上話を聞いているだけで笑。
No.21
9ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
<1月22日(月)>   ガラケー 2 つ持ちは我ながらいかついと思うので気に入っている(データ移送をしないで、古いガラケーを電話帳として使っている)。何せ、恐るべきことに、としか言いようがないが「電話番号を暗記する」という、もうとっくに萎縮して使えなくなっていると思い込んでいた脳の一部が活性化したのである。   0×0 ××××   ××××   という、たった11の文字列の暗記が、高校生の頃までは、100近く暗記していた。最初のガラケーを買った時から、その能力は徐々に落ちて、そのうち、完全になくなってしまった。   長沼に電話しようとして、五十音の「な」段でサッと探って、隣にある「長尾」(美學校のスタッフ)に電話してしまい、笑いながら「長沼と間違えた笑」と何度謝ったか知れない。   どんな能力だって、使わなければ衰え、やがて失ってしまうものだ。そのほとんどは、テクノロジーの恩恵によってである。   だからまあ、前のガラケーで番号を引いて、それを一個一個打ち込んだところで、もうあの力は戻って来はしないと思っていた。子供の頃は屋根の上に登って、歌を歌ながら足元も見ずに瓦から瓦へステップを踏んで行って(ターンも楽勝で入ってましたよ。学童用の登校靴で)、一度も屋根から落ちたことがない。今いきなりやったら墜落死するだろう。僕が96キロだった頃、100キロ超の友達がいて、話が盛り上がると、奴は僕にヘッドロックを仕掛け、僕は奴のレバーを狙って思いっきり左でボディを連打していた。今いきなりやったら肩が抜けるか肘を壊すだろう。   子供の頃は皆、超人だったし、僕も超人だった。フリスビーというものが日本に入ってきた時、後ろを向いて「投げて良いよ」と言うと、友達は皆笑ってゆるく投げてきたが、投げても投げても僕が後ろ手ではたき落とすので、みんな全力で投げるようになった。  
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