田畑 佑樹さん のコメント
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3年越しで「天使乃恥部」を完成させ、久しぶりでいつもの街中華に行ったら、なーんと、客が僕しかいなかった。この店は外から中が見えるタイプで、昨日まではいつものように客でパンパンだったのであった。
「えー。どうしたのかな」僕はそんなに不安が強い方ではない(精神分析を受けてからは特に)たいていのことはどうにかなるだろと思う方だが、いつでも客でいっぱいの店がさ、行ったのは夜の9時とかよ。まるで人類が滅亡したかのようだ。日曜の夜とはいえ。だ。
まあまあ、そのうち客も入ってくるだろう。それで結局、だらだら11時まで居た。エビスの中瓶1本、茄子の唐揚げ、エビ蒸し餃子、豆苗炒めと、クォーターポーションの北京ダック、サンラータンの刀削麺。いよいよ明日から、「コロンボ研究」の前書きから執筆に入る。膨大な資料とメモをまとめていると、「 M/D 」よりも厚いかも?と思えてくる。
とうとう僕が会計を済ますまで、客は1人も入ってこなかった。えー、なにこれ気持ちわるー。またコロナでも流行ったのかしら。
雨がそぼ降っていて、僕は、ラディカルな意志のスタイルズのパーカーを着ていて、フードを被り、歩いて帰ることにした。
ご返信をいただきありがとうございます!
ひとつ気になったのですが、前作(『哀れなるものたち』)の音楽担当者もジェースキンではなかったでしょうか? 菊地さんが “音楽側=ミア・レヴィ側” とお書きになっているのは、『関心領域』のミカ・レヴィのことなのでは?
私自身もこれら2つを映画館で観て、「ああ、“現代音楽ふうの劇伴家と映画監督との幸福な関係”について、ヨルゴスとグレイザーでは完全に明暗別れたな」と思っていただけに、もし菊地さんのなかでこれらの作曲家が混ざっていなのだとしたら、その事実自体が興味深く思われます(私は『関心領域』に関して、「音楽自体は素晴らしかったけど、途中で中途半端に切り貼りされる音楽の効果についてはまったく理解できなかったぞ。グレイザーってミカが出してきた劇伴のうちオープニングとエンディング以外は全部ボツにしたんだよな? 映画自体は賞賛されたものの、それでよかったのか? というか、ミュージックビデオ出身の監督が音楽家に得させてあげられないってどういうこと?」と義憤に近い感想を抱いただけに、『3章』でのランティモスとジェースキンの、もはやマリアージュとすら軽率に言えない結晶ぶりに救われた気分になりました)。
私もミカ・レヴィの『関心領域』提供楽曲からは直接的にクセナキスを連想し、かつランティモスの “本作の「ピアノ=思いっきり平均律」と合唱、というスタイル” にも直感的にヤラれた者で、前者が微分音クラスタやレガートで平均律を解体するような作風で/後者は平均律の権化のようなピアノのみでも平然と根源的恐怖を提供できている。という差異を踏まえた上で、「フォーマルな装い=ピアノと合唱で20世紀的な音楽を解体または更新しようとしているジェースキンのほうがよっぽど凄いし怖い」という一応の結論に達しました。
菊地さんからいただいたご返信のうち、 “OSTから音列を採っても結局(〜)”から始まる段落は、まさに私が聞きたいと思っていた内容でした。2024年現在において、音楽を演奏する側も/聴取する側も、我々が享受しているのは平均律という西欧起源のディシプリンを前提としていて・かといってその調性自体を破壊したところで即座に面白いものが生まれるとは限らないんだ。という事実をもっと当たり前に認識したほうがいいと常々思っていましたが、ジェースキンが『3章』の一部で見せた「ピアノ単音のみ。しかも連打。楽器自体のアンビエンスもふんだんに録れてる」スタイルは、まさに平均律を逸しない音なのにこれだけヤバいというフォーマル主義の極致を聴かされたような気がして、文字通り総毛立ちました。あれがいわゆる駄々っ子系ギターノイズ(←それ系の音楽ジャンル全てを否定するわけではありませんが、「チューニング無視、6弦全部掻き鳴らしながらすごいディストーションとエコー、ボーカルはずっとギャーって叫ぶ」系のスタイルは、既成のルールを破ること自体への小児的な快楽があられもなく、少なくとも私には良く思われません。だからこそジェースキンのフォーマル主義に惹かれたのでしょう)とは違って冷厳と効果的かつ恐ろしく響くのは、「あくまで単音」だったからだと思います(←菊地さんの“80年代を席巻した、ニューシンプリシティの発展的な継承”という御見立ては慧眼そのものだと思いますが、もしかするとデペッシュ・モードもしくはニュー・オーダー的な「ピアノに1本指」スタイルの直接的な継承でもあるのかもしれません笑)。本来、平均律を食い破る悪魔の楽器であったはずのギターの真なる意味での左翼性がいつのまにか飼い慣らされて、一方でジェースキンのようなクラシック畑の若手が平均律の権化ことピアノであれほど恐ろしいことをやる。という私の見立ては解り易すぎますが、しかし2024年現在の音楽表現の歴史性について何らかの引っ掛かりにはなるはずだと思います。
(↑書きながら気づきましたが、私はノイズ系音楽と平均律内フォーマル歌唱音楽の両方を平然と行き来しながら活動を続けているミュージシャンとして、マイケル・ジラとジェースキンの間に親和性を見出していたのかもしれません。この「平然と行き来する」というのが何よりも重要に思われ、これは精神医学や心理学によるケアのみではカバーできない「適応不全な個人が外界から潰されずに生きてゆく方法」の基礎をなす要素ですらあり、「本当にずーっと終生その表現をやっていた。他分野を横断できなかった」類の20世紀的アウトサイダーとの差異も含め、表現に携わる人々が文字通り “優しさの諸種類” を駆使して相互に助けあうための自然な知恵の一端が示されているように思われます。私としてはこの括弧内で書いたような「失調」が文字通り音楽の「調性」と関係あるものとして連結されたことが最も衝撃的で、その考えに至らせてくれたジェースキンの作品に対しては畏敬するしかありません。)
「夢度数」についても御回答ありがとうございます。菊地さんが仰った “新・現実主義” は、今まで自分が述べてきたジェースキンのフォーマル主義とも直接噛み合うように思われ、平均律/無調 や 現実/悪夢 のような2分法としてとらえず(そのように分けた時点でかならず止揚が発生してしまうので。リンチの『ツイン・ピークス』や『インランド・エンパイア』に対して「物語的な整合性」を与えようとする人々の心性は、このような「止揚したがり」の態度として最も退屈なパターンだと思います)、ひとまず自分が含み込まれているフォームのなかで突き詰めてみる。というスタイルで行くところまで行った意味で、本当にランティモスとジェースキンの相互関係は幸福なものです(いわゆるフェリーニとロータみたいな、仲睦まじいツーカーの関係とは温度が全く違っているのも、まさに21世紀的だと思いますけども笑)。私個人としては、「物語を律するもの」と「音楽を律するもの」の両方が、失調によるカタルシスを燃料とするのではなく、前代からそのまま相続されるかたちで出てきた(←それも20世紀なんてチャチな近視眼ですらなく、平均律以降やギリシア劇以降のレベルで笑)。というのが、『3章』に対して現状で呈しうる最も適切な賛辞かと思います。人間の理性(←チェスタトンが言った通り「狂人とは、理性以外のすべてが失調した状態の者」であり、狂気も理性の一形態で、その姿は『3章』本編でも複数あらわれています)とは何と豊かなのだろう、と思わずにはいられません。貴重にもほどがある応答の機会をいただき、心より感謝いたします。
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