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田畑 佑樹さん のコメント

 コロンボに関しては完全にアイスの身ながら、菊地さんの新著は「未精算の20世紀的トピックを21世紀的に批評する」ものになるのかもと思っていましたが、今回の日記で筒井さんの著作にも同じ視座をもって臨んでおられると知って驚きました。

「フェミニズム的に赤点な内容の作品群が女性当人から熱烈な支持を受ける」という(菊地さんが特番収録で察知なさった)現象は、この国ではスタジオジブリ作品によって夥しい件数が観測されているように思われ、実際に自分も(通俗的な意味での)ファザコンをヌルく温存していそうな女性の知人たちがジブリ作品を語る際に凄まじい移入を見せる例を多く見てきまして、「彼女たちはあの作品群の中にどのような位置を確保して・どのようにして自分の欲望を満たしているのだろうか?」と長らく疑問に思っていたところでした。
 このような「ある集団性にとって(政治的に)相容れない要素を持っている作品が、他ならぬその集団性から歓迎される。それを第三者が指摘しても解離されてしまう。そのような状況下における当事者性」は、以前菊地さんも「西部劇の良し悪しが解ってしまうインディアン」という表現で指摘しておられたと思いますが、実のところ「自身の尊厳を損いかねない対象に愛着と期待を抱いてしまう」心的機制は、4年前にバイデンに投票してしまったアイリッシュアメリカンの心情にも似て、極めて21世紀的に重要なテーマだと思います。

 何より菊地さんが、(筒井さん作品のミソジニー傾向と、それを看過して愛着してしまう女性読者。という現象に対して)それを不問のまま済ませていいの? と柔らかくも当然の批評を加えておられることが、(変な言い方ですが)単純にカッコイイと思いました。20世紀に不問のまま逃げ果せてしまいそうな問題系を21世紀に押さえておきたい(しかし経絡は開かないかもしれない)という御姿勢は、自分のような三十路には備わっていない問題意識と諦念であり、たいへん勉強になります。

 私の住居にはTVも録画機器も無いので、来月あたりhuluに繋いでコロンボを観てみようかと思います。菊地さんがかねてより指摘しておられる、ファン投票では最も人気のエピソード『別れのワイン』に(不問のまま)内蔵されているミソジニー&ホモソーシャル傾向についての分析が、現時点での私にとっては最も興味深いです。
No.2
4日前
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  夢グループが、前番組、前々番組も含めると、気がつけばもう10年以上になるテレビ番組( BS 朝日)があって、毎回見ている テレビ番組( BS 朝日)があって、毎回見ている。「人生、歌がある」というタイトルで、まあ、改めていうまでもないが、ベタなタイトルである。この4月からは、司会が吉育三と岡田美里(ファンファンの娘で、元・マチャアキの嫁)になり、完全に安定した。    夢グループのことも、ましてや、この番組のことを、「正しく」説明するのは、僕には無理だ。いま、説明が一番難しいものになってしまった。これを20世紀的なキャンプの果てとするか21世紀的なニューシングとするか、もう既に、前者はマツコ・有吉でも取り上げられまくっているし、なんと我が故郷の銚子電鉄(廃線になるなる詐欺と言われて30年ぐらい経つ。僕も、デビューしてからほぼ毎年、イベントの依頼が来るが=全てが「セーヴ・ザ・銚電」なのだけれども)とさえ夢グループはコラボしている。    20世紀サブカルの知性の最高値を持ってしても、夢グループの説明は難しい。不確定性原理の説明が難しいような難易度ではない。そこに映るものは、50代以上の日本人なら誰でも知っているような有名物の残骸ばかりで、僕も、初見の時は残骸の集積にしか見えなかった。    なのだけれども、それがそうでないことはすぐにわかった。その時の、途方に暮れ方はハンパなかった。自分の説明能力を過信していたのだ。何だって的確に説明できる。オレが説明して意味不明というやつは救いようがないバカだ。ということで、60年近く生きてきてしまったし、未だに、夢グループと、「人生、歌がある」に関して以外ならば、そのことに揺るぎはない。  
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