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<ビュロ菊だより>No.48『デューク本郷氏へ(&銀座をパトロール)』
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<ビュロ菊だより>No.48『デューク本郷氏へ(&銀座をパトロール)』

2014-12-31 09:00

     

     <今回は先に速報を>

     

    1)世界は相変わらず世紀末のまま。21世紀末の毒猫rinbjoがツイッターを誕生日である12月24日から開始。N/KP権限で開始を命じたので間違いなく本人。フォロワーが増えたら継続、増えなかったら停止の予定。英語と日本語のハーフなれど、英語が苦手な人も根性で読める程度の英語。 

    https://twitter.com/rinbjo

     

    2)来年のTABOOからのプロダクツ第一弾は小田朋美加入後初のDCPRGで、アルバムタイトルは「構造と力/第二」の予定。収録曲のうち約半分の作曲者は、高見元P改め作曲家の高見一樹氏。

     

    3)「<戒厳令>のライナーの文字が読めない」という中〜壮年購入者からのリクエスト多数につき、TABOOレーベルの公式サイトに、作詞を含めた、所謂普通のクレジット(誰のトラックで、誰が作曲したか、等々)をアップ決定。購入者以外も閲覧可能。

    http://taboolabel.net/

      

    4)大晦日の新宿ピットイン年越しライブの菊地成孔Gは所謂「菊地ソロ」のセットで、ものんくるの吉田沙良をft。昨今JAZZHIP HOPR&Bも興味が無い、<新ピ大向(おおむこう=常連のうるさ型)>の人々に対しては「六本木ピットイン・リヴァイヴァル」とするのが適切か。11時30分より年をまたぎ12時30分までの予定。

     

    5)以前から予告していた「Amazonのユーザーズレビューに登場される<デューク本郷>氏への公開討論要求」(9000弱。御興味の無い方はスキップを。御興味のある方は拡散大希望)

     

     *Amazonの「ユーザーズ・レビュー」内にアップするのは1月下旬予定(立会人の増員、討論相手に初回の反論形成時間を与えるため)。

     

     

     

     

               デューク本郷様

     

     著者が自著の「ユーザー」としてこのレビュー欄に登場する事、そこで特定のユーザーの方とコミュニケイトしようとする事がアマゾンの規約に反していない事、つまり、誰によっても削除されない事を祈ります。


     ワタシが菊地本人かどうかのご確認は、Amazonの問い合わせによってそちらで出来得ると思いますが、それ以前に、ワタシが菊地成孔の名を語った偽物だった場合、菊地成孔は高い確率でそれに気がつきますし、それに対する発言をすると思われます。なにより以下の文面は、Amazonのユーザーズ・レビューにアップする以前に、ワタシの公式サイトに掲示します。

     

     以下、用件となります。デューク本郷様。「M/D」のみならず、数々の拙著についてご指導ご鞭撻頂戴しまして有り難うございました。ワタシはAmazonのユーザーズレビューを見る習慣が無く、何と3年近く経ってから初めて目にしまして、こういうのを巨大亀レスというのか、とにかくあなたが当枠を未だにご覧頂いている事を切に願います。

     

     ワタシはあなたの本名も素性も全く存じあげませんので、ワタシのみならず、あちこちに散逸しているあなたの投書内容から推測するしかないのですが、アメリカでジャズ学位(その実体の重みについてはワタシ個人は不勉強ながら完全に理解したとはいえないのですが→日本にはそういう物が無いので)を取得され、非常に豊かな知識と経験を積まれている方ではないか?と推測しております。

     

     その上で、なのですが、我々(←これはワタシと大谷能生2名を差します。あなたに限った事ではないのですが、ワタシと大谷との共著を、褒めるにせよ貶すにせよ、ワタシの単著である様な書き方をされる方が多く、様々な意味で困っています。大谷はワタシの助手や編者ではなく、共著者であり、共著書総てに半分の文責があります)の拙著に関し、かなり激烈な言葉が並んでおり、特に「M/D」に関しては、他著と比して、出版からあなたの登場までの時間が短く、結果、あなたの強度のある書き込みが場を支配して、他の著作に比して星数が落ちてしまっている可能性が否定出来ません。

     

     これは憶測に過ぎませんが、内容を吟味して自分で判断するのではなく、星数で大雑把に評判を観ようとしている人々というのは多く(というか、この枠「ユーザーズ・レビュー」の主旨の多くはそこなのではないかとさえ思われるほどです)、このケースだと「M/D」だけが他著と比して特別内容が劣っているという印象的な判断をされかねなく、微弱ながら風評被害を受けている可能性も否定出来ないと判断し、こうして行動を起こさせて頂きました。

     

     とはいえ、繰り返しますが、我々はあなたを(ネットの匿名書き込みに往々にしてありがちな)単なる嫉妬や劣等感にメンタルをヤラれて大暴れの、無知の狂犬とは全く思っておりません。

     

     特に「solar」がマイルスの楽曲ではなく、マイルスが作曲者であると偽った、つまり(拙著内のテクニカルタームを使うならば)マイルスが<かっぱらった>事、並びにこの事がアメリカでは一般的なトリビアである事のご指摘は、大いに勉強になりましたし、他にも傾聴すべき様々な教養をお持ちであると予想させて頂いております。

     

     また、いうまでもなく我々の著作が隅から隅まで完璧である筈もなく、あなたからのみならず、他にもご指摘頂ける事が多々あるであろうと常に思っています。

     

     再び、とはいえ、<隅から隅までデタラメ>等とまで言われれば(笑)、流石に我々にも我々なりの反論がありますので、ここはひとつ、紳士的な方法による、建設的で平和的な公開討論、もしくはそれが無理なら、往復書簡による議論とその公開を、不躾ながら要求させて下さい。

     

     勿論この枠を舞台にする事は不可能ですから、場はワタシが立てても、そちらに立てて頂いても、第三者に立てて頂いても結構です。ワタシへの連絡先はご面倒ですがワタシの公式ウエブサイト「第三インターネット」のビジネスメール宛に送って頂ければと思います(当欄に於けるプロフィールにあるアドレスと一緒ですが)。

     

     以下、長大に成るであろう(「総てデタラメ」と断ぜられた場合、それがどうデタラメか、ほぼ一冊全文に対するご指摘を頂く事になるので)討論を前提とした上での先行レスポンスとして、この枠内にてご指摘の二点についてのみ書かせて頂きます。当該者であるデューク本郷さま以外の、他のユーザーの皆様にも是非お読み頂きたいです。

     

                 <第一点>

     

     巷間、マイルス作曲としてクレジットされている「solar」が実はギタリストのチャック・ウエインの作曲である、という説がある事、に関しては、たった今、英語版のウィキペディアで調べた所(「SOLOR(COMPOSITION)」)確認出来ました。ワタシは誰もが書き込めるウィキペディアを100%は信用しておりませんが、取りあえずこの件に関しては信用します。

     

     ウィキペディアが根拠としている二つの今日的資料のうち、特にラリー・アペルバウム氏の詳細なブログ(2012年)を読む限り、ほぼ間違いなくマイルスは黒だと思います(あのブログが手の込んだパロディか何かで、証拠の音源なども捏造していた。とかいった事でもない限り)。

     

     そしてこれは「いかにもありそうな事」として大変面白い話だと思います(何せ、原タイトルは「SOLAR」ならぬ「SONNY」ですし・笑)。

     

     これは拙著にある、「ドナ・リー」をパーカーに「かっぱらわれた」マイルスが「ブルー・イン・グリーン」等で反復する形になる「かっぱらい合い」の構造や、マイルスの「好きな物に憧れ、そっくりになってしまう力、というマイルスに独特な現象の強烈な証左となり、しかも同じく拙著にある様に、ワタシは「solar」を「ザッツ・マイルス」な曲だと感じるほど「モノにして」いて、しかも墓石に楽譜を掘っているからです(これは、前述のウィキペディアにも写真付きで説明がありますし、この件については後述する通り、ワタシは講義した時点で知っていました)。

     

     ご指摘ですと<「solar」の楽譜のコードネームはマイルスの墓には掘られていない、自分で来て確かめていない証拠だ>との事で、それをフックにかなり手厳しい言葉が続きますが、我々は「墓にメロディが刻まれている」という事実は書きましたが「コードネームが書いてある」とは一行も書いていませんので、これはあなたの誤読です。

     

     また、あなたの悪罵が強烈に成ってしまうメカニズムに関するワタシの推測は後述するとして、確かにワタシは現場に行かずに書いています。それどころかワタシは英語が話せず、北米大陸には1度、しかもシカゴにしか行った事がありませんし、その際ジャズ関係の場には行っていません。

     

     しかし、現場に行かずとも、現在は日本語に翻訳された書籍やインターネットによる情報で、写真すら確認出来ます。「solar」がマイルスの墓石に掘られている事を、ワタシは日本語版が2002年に出ているジョン・スエッド著の「マイルス・デイヴィスの生涯」の翻訳で読み、更には、有名ジャズミュージシャンの墓参りを趣味としているブロガーの方のアップしている写真ですぐに確認しています(さっき調べた所、未だにこのブログは残っています)。冒頭の2小節ですが、間違いなく「solar」です。

     

     そして、ということは、マイルスは(というか、彼の関係者は)自分の楽曲ではない、他者からかっぱらった曲を墓石に掘ったことになり、これこそいかにもマイルスらしい、すげえ話しだなあ。と拙著の内容(マイルスの、音楽や発言から透過される人物像)に関して、より確信を深めました。

     

     要するに、この事実は、拙著で「資料」からではなく「作品や評伝」から我々が<妄想>したマイルス像をより強化するエピソードであり、拙著の傷にはならないと判断しています(一応念のために書きますが、拙著が「マイルスが転移による剽窃や同一化など全くしない、完全オリジナル志向の人物である」としていた場合、この事実は大変な痛撃となりますが)。

     

     ですので、この一件を以て、前述の様にワタシはあなたの見識を確認するとともに、あなたが仰る様に「この事実を知らなかった事(アメリカでは「50年以上前」から「誰でも」知っていたかどうか?についてはワタシには調査出来ませんでしたが)」、並びに「墓石について、実際に行かないで書いている事」を、少なくともあなたが仰るほどには問題だとは思っていません。

     

     前者に関しては、これこそ典型的な文化格差/情報格差だと思われますが、日本のジャズ批評の現在に於いて、<「solar」かっぱらい>という事実は、我が国のジャズ批評界では、講義当時の04年はいうに及ばず、未だに一般的ではないと思われます(推測ですが。何せ、この点を指摘されたのは公私ともにあなたが初めてでしたし、前述のアペルバウム氏のブログは僅か3年前である2012年の物です)。

     

     「パーカーのソロは、巷間思われているより、様々な楽曲からの引用が沢山ある」「リー・コニッツは、パーカーのソロをストックフレイズのパッチワークと批判し、本当にその場で生成しているのは自分とウエイン・ショーターだと言ったらしい」等々と並び、まだまだ(日米共に)ジャズ研究未開の領域にあるかと思います(この段で行けば、マイルスにはまだ「余罪」がある可能性すらあると思います。因に以下は文庫化直後に知った事なので追記できなかった余談ですが、「ユア・アンダー・ザ・アレスト」のジャケットのスタイリングと一点も違わない、もう笑うぐらい全く同じスタイリングのジェームス・ブラウンのジャケット写真があります。そちらは70年代の物ですから、随分と経ってからマイルスの「憧れ、そっくりになってしまう力」が働いたことになります)。

     

     また後者に関して、リポートは、現地に行かないと解らない領域と、行かなくとも解る領域があります。タンザニアに歌舞伎マニアがいたとして、タンザニアの大学で歌舞伎座の場所、並びに門柱がどういう様式で建てられているか、実際に銀座まで赴かないと教えられない/教えてはいけない。という理屈はありません。

     

     しかし、誤解なきよう、ワタシは「当時日本ではまだ一般的に成っていなかったんだから大目に見て欲しい」と言っているのではありません。

     

     ワタシが問題視しているのは、あなたの悪罵の強烈さと、文中に、明言までされていないとはいえ、通奏音のようにほのめかされる「学位の高さ/アメリカ在住者」という強度です(この「強度」は、原状の所、ほのめかされているだけで、全貌/実体としてワタシは掴み兼ねており、だからこその討論の申し出なのですが)。

     

     これは困った事に二次被害がひどく、我々の著作は、従来的なジャズ喫茶育ちのジャズマニアには時に理解/許容を越える領域を扱いますし、我々の不徳の至りで、<チャラくて嘘くさい>という印象を与える様ですので、我々をデタラメ100%のホラ吹きだと断じてさっぱりしたいのだが、言語化出来ない(具体的に指摘出来ない)という潜在的なイライラ層を生産します。

     

     その際、彼等の心性に対してあなたが彼等の救世主となって、「ほうらやっぱり菊地(必ずココでワタシ1人に切り離されるのですが)はいい加減でデタラメを書いているのだ。ちゃんとアメリカで学士論文を出している正しく偉い先生が指摘している」というイージーな確証を得てしまう、お安い権威主義者を量産する可能性があります。これはワタシにとってだけではなく、アナタにとっても誤解の可能性を秘めた有害な物であると思います。

     

     既にこのいくつか下に、あなたにおもねった書き手が登場し、テキ屋や全共闘扱いされ、テキ屋は兎も角、我々に対して全共闘はないでしょう(笑)そういう決めつけこそ、典型的な全共闘のやり方では?っていうか、全共闘世代ですかお父さん?(笑)と思うばかりです。

     

     アホいうもんがアホじゃというクリシェがありますが、記名もせず、著者に直接聴けば聞ける筈である「つじつまが合わない」「調査が行き届いていない」等の指摘を、こうした枠でだけ一方的に行うという行為の方が、私見では遥かにテキ屋で全共闘でインチキな、胡散臭い行為です。匿名者が記名者に対し、自室で独白するなら兎も角、同乗できるプラットフォームの上で「胡散臭い」等というのは、基本的な誤謬だと思います。胡散臭いのは、読み切る力も無いまま、公道でつばを吐き散らしている事に気がつかずに、それなりに一言いってやった。と満足している輩では無いでしょうか。

     

     ワタシは実名もメールアドレスを公表しておりますので、疑問やご指摘は直接承っております。ラジオ番組も持っているので、番組に投稿する事も出来ます。逃げも隠れもしません。口調は、我々の単なる趣味により、読む方によってはチャラくてイライラする印象を与えるかもしれませんが、文責を投げ出して適当にホラを吹いた事はありません。内容が想像や推測や仮説(拙著では「見立て」という言葉を使っていますが)である場合は、その旨断ってから書いてあります。

     

     と、やや脱線してしまいましたが、第二点に移らせて頂きます。

     

                <第二点>

     

     我々は、あなたの毒舌の発生源が「東京大学」というロケーションであると推察します。あの講義が行われたのが同じ東大でも東洋大学や東海大学であれば、或は都内のジャズ喫茶であれば、或はワタシの部屋の卓上であれば、あなたが「教育の危機」「生徒が気の毒」と仰るまでには至らなかったのではないかと思っています。

     

     つまりあなたの激化(あなたにとっては「激」でも何でもないのかも知れず、こうした事には基準が設けずらいのは解っていますが)の原因は、拙著が<東京大学という最高学府で行われた、正規の音楽学の学士論文>でもあるかのような前提(我々はそうした事は一切謳っておりませんし、日本の読者のほとんどもそれは知っています。我々のそうしたエクスキューズも見えないほどの、病的な権威主義者でない限り)というバイアスによるものではないかと思われます。

     

     東大教養学部での、我々の様な非常勤講師の講義の中には、学問的な正当性を内外的に認められた物も多数ありますが、我々の様な、サブカル系のエンタメも数多くあります。講義録をまとめたあの本も、文芸寄りの一般的なジャズ本であって、研究論文だの学士資格だのいった代物ではありません。

     

     というか、ジャズ研究/ジャズ学に関する公認された公式な組織など、そもそも日本には存在しません。ですので、あなたのロジックに従うならば、ですが、あの本のみならず、日本人が書いたジャズ本は総て、程度や面白さや売れ行きの差こそあれ「ジャズ喫茶で語られる程度の妄想」を本にしたものです。

     

     そして、ワタシはそれで全く構いませんし、更に言えば、あなたとの対話によって、その壁が破れるのであれば、それは尚更良い事であると信じて疑いません(その暁には、我々より遥かに優れた批評家が誕生するでしょう)。

     

     我々はそういった「批評/研究というゲーム」の中で、見立てや仮説や想像を駆使する一方、音楽家や文筆家としての実測的な研究(リズムやテープ編集、服飾等に関する、従来には無かった領域の)も併せ、先人による過去のマイルス研究もリスペクトした上で、今までになかったフレッシュな視点を届けたいと思っているだけであり、「アメリカにも通用する、厳格な資料に基づいた正統な論文」を書いていたつもりは全くありませんし、ましてや「なにせこっちゃ東大でやったんだからな、これで今までの批評家全員ブッコ抜きだ」的な(笑)マッチョでカッチョ良い考えは全くありません。「東京大学のアルバートアイラー」のまえがきに明記している通り、我々の講義は一種のSF的なフィクションでもあります(というか、「史観」は総てフィクションである属性が備わっています)。やや厳つく言えば、虚数の導入という事になります。

     

     そして再び「だから大目に見て欲しい。お手柔らかにお願いしますよ」と言っているのでもありません。我々の提案は討論であり、そして「批評」を「批評」する限り、それは不可避的に「批評/研究」論にならざるをえず、討論には大変な時間を要すると思われますので、応じて下さった際に丁寧に話させて頂きますし、その際には是非、「アメリカで認められる、正当な学問としてのジャズ学」の、僅か一端でも良いので、あなたに翻訳、紹介して頂きたいです(必要経費はワタシの私財を投じますので)。

     

     もしそれが多くの人々を説得するものであれば、その素晴らしさ、正統という物の重みを知らずにいる限り、我が国に過去、全うなジャズ批評は一行もあり得なかった。という事になり、同時に我が国のジャズ研究の前近代はやっと終える。という事になるでしょう。

     

     ワタシはこの枠内で、不毛な揚げ足取り合戦や悪罵競争をしようというつもりは全くありません。これは聞きかじりですが、レビュワーネームを変えたり削除申請をしあったり、といった形の陰湿で被害妄想的な泥仕合形式が、そこかしこである様ですが、そんなものに充てる時間は無駄の二文字です。一発で話しを決めたいです。

     

     ワタシには数多くの低能な批判者がいますが、あらゆる意味で、対話するに値すると判断した方は過去ほんの僅かなのです。なので、せっかくの機会ですので、我々の主張や反論も聴いて頂いた上で、フェアに討論し、日米のジャズ研究状況の違いを含めた、「ジャズを研究するとはどういう事なのか?」といったエッセンシャルな話しが出来れば、我が国のジャズ研究一般に於いても実りある物になるであろうと考えます。

     

                  <追加>

     

     因にワタシは「ジャズはアメリカ発祥の文化なのだから、研究の中枢は絶対的にアメリカにある」という考え方を、無批判に前提化してしまう事には若干批判的です。

     

     理由は極めてシンプルで、「アメリカ人の書いたジャズやヒップホップの本でムチャクチャな記述が山ほどあるから」そして「日本人が書いた、日本人音楽家であるワタシの音楽批評にムチャクチャな記述が山ほどあるから」です。発表された音楽の中枢に迫り、独自の評価を下す、という行為に際し、生産国で学び、生活する事は、多大な有効性はあるとは思いますが、必須ではありません。

     

     少なくとも芸術分野の批評行為に於いて、何人が何国の何を語ろうと、前提として作品は流通し、鑑賞されている訳で、その中に、推測や見立ての可能性はなく、誤解の中に理解が埋蔵されている可能性が全くなく、資料性と学閥的な権威のみが正統だとするのは、批評を審美や詩性から切り離し、数学や司法と同一視する誤った厳格主義/権威主義です。我々の考えは、批評は両者の中間領域にあり、それを実践しているつもりです。

     

     我々が、あなたと討論するという位置には足下にも及ばない相手であると判断するのであれば、ご面倒ですが、その旨、通達して下さい。その場合は総てを諦め、この申し出を却下します。しかし、あれだけ批判した上で、著者であるワタシからの直接の問いかけに対し無言でスルーする様な常識のない方ではないと信じておりますし、我々の討論は様々な意味で有意義になると信じております。

     

     対話に際し紳士的であらんとする旨、実名で書かせて頂きました(お返事は繰り返し申し上げた通り、当欄ではなく、前述ワタシのメアドにお送りください。望まれる限りのプライヴァシー守秘は確約します)、また拙著は拙著ながら、何度読み返しても示唆とヒントと娯楽性に富んだ歴史的な名著であるとしか思えないのですが、「著者(の1人)が自著に星5つ!」というのは、余りに気前の良すぎる話しなので(笑)、平均の星数が下がるというリスクは覚悟で0星とさせて頂きます。他のユーザーの皆様におかれましては長文大変に失礼致しました。それではお返事をお待ちしております。

     

     菊地成孔

     

    (因にこれはワタシが個人で書いた文章です。討論の際には、当然の事ながら大谷も加わります)

     

     

     

     

     

     

    6)以下を、「菊地組」と我々の関係についての、正式声明とさせて頂きます。(5)とのコントラスト並びに一貫性をご理解頂きたいです(2000弱。御興味ない方はスキップを)。

     

     

    菊地さん、長沼さん、いま「戒厳令」を聴きながら書いております。

     

    質問がありましてメールさせていただきました。

     

    「菊地組」はまったく独立した団体(?)でビュロー菊地や菊地さんとは無関係なファンの団体だと考えてよいのですよね?

     

     

     はいそうです。ワタシも、ビュロー菊地も運営には一切関与していません。

     

     ただ、1年ぐらい前に、管理されている方からご挨拶を受けて、「挨拶が遅れました、継続してもよろしいでしょうか?」というご挨拶を直接受けまして、僅か数分という会話でしたが、その時間内では礼儀正しく、特にヤバそうな方でもなかったし、実際に氏の活動によって実損/実害を被った事は無かったので「まあまあ、構いませんよ。どんどんやって下さい。ただ、地下コンテンツもある訳ですし、我々が公認している。とは謳えませんが(笑)」といった大意を気軽に言いました。

     

     また、それと前後して(前後関係は忘れてしまたのですが)「XXL」という曲のPVを氏が私的に製作してユーチューブにアップしていたのは、削除をお願いしました。我々が独自に正規の物を製作していたからです(因にそちらは来年3月の「ドミュニストの誕生」リイシューの時に公開します)。そして、それに関しても即刻、何の問題もなく実行して頂いたので、以後(この二回以外)管理者の方とはコンタクトしていません。

     

     ですのでワタシはラジオ、とくに「日本語ラップ特集」の時に「過去のコンテンツは地下に降りてゲトってください」というような事を言いますが、これは「菊地組」さんを唯一直接に想定しているのではありません。あの番組(のみならず、ワタシが出演した様々なコンテンツは)は、どこの誰が、何を、というよりも、部分的だったり包括的だったりしながら面的に液状化して、常に複数、動画サイトに不法に上がり続けています(ワタシはインターネットのライトビーガンですが、動画サイトとフェティッシュサイトだけは狂った様に観るので、自らこの目で確認しています)。この、一般性として既に定着してしまっている事態への対処は、今の所、としますが、我々(ビュロー菊地。TABOOは含まず)は一切行わない方向で、静観を続けています。

     

     ご報告頂いた(*注。当該部分はカットしています)「選別」等の、<菊地組>利用者に対する、管理者からの処し方に関しても、たった今、初めて知りましたが、以後、あくまで推測で書くならば、ですが、ネット、特にSNSというものは、誰がどう利用しようと概ねが冥府魔道/けもの道であって(これはワタシの私感です)、継続的な活動をすれば、程度や質の差こそあれ、必ず問題が起きます。

     

     「菊地成孔個人へのアンチ」も存在するでしょうし、敷衍的に「<菊地組>のアンチ」という方が存在してもまったくおかしくありません。そして、ネット内での揉め事というのは構造的に収拾が不可能なものなので(これは私感ではなくメディア論的な正論に近いですが)、以下、推測の域は出ませんが、アンチからの攻撃があって泥沼化した事があったりした場合、そのやりとりの中で過敏に成り、擬似会員制の様な仕組みになっていったのではないでしょうか?(念のため、これは推測の上に成り立った仮説に過ぎませんが)

     

     そうした仮定を含めた上での氏の振る舞いに対する評価は、無責任に聞こえるかもしれませんが、我々には関係ないし、見聞していないので出来ません。

     

     ただ、冒頭にあった数分程度の会話を以てして「<菊地組>はビュロー菊地公式認定」ではない、という事がお分かり頂けたと思います。迷惑を被っておりませんので停止要求もしませんが、また、後ろ盾でもありません。存在は知っての上で、無関係です。この文脈で言えば「非公式」という事になります。

     

     勿論、今後、虚偽による風評を含めた、あらゆる実害が認められた場合は働きかけるかもしれませんが、基本的には無法地帯であるネット社会の中で、ワタシのファンの方が、よしんばどれほどファナティックになったとしても(<菊地組>の管理者の方がファナティックになっている。と言っているのではありません。それはつぶさに見聞し、検証しないと断言出来ません)、コチラに実害が出ない限りは評価も出来ません。先日は、ネット内ではなく、現場でかなりファナティックになった方がいらっしゃり、若干の実害を被りましたので、速やかに警察に補導して頂きました。

     

     まるで、お役所対応の様な物言いに終始してしまいましたが、そうではなく、以下、私感も私感、ワタシの色眼鏡を通した評価に成りますが、基本的にワタシはSNSというのは非常に危険であり、合法的に定着している様にイメージされがちですが、構造的に非合法性/非正当性が主属性だと思っておりますので、そもそもそこで生じた、しかも第三者同士に於ける事態を評価する必要性というものを、根本的に認めていません。一番荒い言葉を選ぶなら「勝手にやってくれ。コチラに火の粉が降り掛かるようだったら払うだけだ」という事です。

     

     「多数」というほどではないのですが、同様のメールが複数届いておりまして、今までは返答もしていなかったのですが(理由は上記の通りです)、一度ぐらい公式風(「風」をつけたのは上記の通りです)なコメントを出さなければ、という考えもあり、せっかくの機会ですのでアンサーさせて頂きました。このやりとりを、あなたの個人情報を削除した形で、ワタシのサイトに上げてもよろしいでしょうか?

     

     

     

     

     

    7)本年はご愛顧有り難うございました。来年も御贔屓のほどよろしくお願い致します。良いお年を。

     

     

     

     

     

        *       *      *      *     

     

     

     

     

     

    <クリズマスイヴから今日まで、は、今日から明後日まで。と同じ長さ(銀座をパトロール)>

     

     

     

     来年の事をいうと鬼がなんとやらと言いますが、一週間前のクリスマスの話しをすると桃太郎が蒸せたりするのでしょうか、「粋な夜電波」の中でもチラと申し上げた通り、ワタシは今年の12月25日は歌舞伎座にいました。

     

     「うおー、クリスマス歌舞伎デート、リア充〜(←こうやって「リア充〜」なんていう言い方はしないのかも知れませんが・笑)」

     

     とか思われるかもしれませんし、実際にそれだったら確かになかなかのリア充(5年前ぐらいから書いてますが、最初この言葉を聞いた時は、直感的にシェイクスピアの「リア王」と関係があると信じて疑いませんでしたし、実際の意味がそこそこ解ってからも、「非リア充」というのは、同じく直感的に「非リアルが充実している(幸せな)人々」なのだと思い、つまりリア充と非リア充は野球派かサッカー派、犬派/猫派といった並列関係だと、しばらく信じていました。自分の直感が衰えたのか研ぎ澄まされたのか分からない様な話しですね・笑)ぶりだと思いますが、実際は微妙に違います。

     11月中旬の段階で、12月の(歌舞伎座は概ね月ごとに演目が変わります)チケットを取ろうとしたら、「何と12月25日に1枚だけある」という有様だったのです。

     

     現在の歌舞伎人気は、下手すると80年代に巻き起こった、玉三郎(現在も)、猿之助(現在猿翁)による歌舞伎ブームよりも数倍の規模で、ワタシは、時間と媒体があったら吉本興業と松竹芸能に関する、自分なりのサーガをまとめて書きたいなと思っているのですが、時間も媒体も無いので、自著「ユングのサウンドトラック」の中の「大日本人」の評の中に「冒頭に<製作 吉本興業>と墨刻鮮やかにドカーンと出るのも凄い」と書くに留めましたが&田中康夫さんとのトークで、田中さんの最高の名言は、特に構えずにさらりと仰った「ああ、歌舞伎の松竹ね」という言葉だったと思うのですが、とにかくこれは、日本人が「関西弁」を第二公用語として認知して行く歴史に関するサーガなのですけれども、、、と、それはまたの機会に。

     

     「ジャニーズだってK-POPだってJアイドルだって今やチケットというのは争奪するものなのだよ。休火山、死火山、活火山という区分が消え、総ての火山が活火山と看做され始めている様に」といった地質学まで手を伸ばした賢者のお声もあるでしょうが、歌舞伎のチケットは単純に高いんですね(ちゃんと良席で見た場合、、、って当たり前ですが)。

     

     「ビギナーやバージンに向けての歌舞伎入門」を書き始めると大変なことになるので、特に意に介さずどんどん書き進めるならば、飲食の持ち込み自由である歌舞伎座ですが、必ず食事タイム(勘の良い方ならお解り、これが「幕の内」です。歌舞伎だけではなく、相撲も併行語源母体ですが)が入りますので、ちょっと贅沢し、グッズなんか買うと、、、、というより、そんなにガチンコハードコアなファンでもないワタシでも、客単価としては一回の観劇に落とす金額は平均で4万です。年に8回ぐらい行くので年間24万。どうなんでしょうか、48系のユーザーの皆様など、もっと落とすのかしら(「48系の顧客が年間に投ずる出費は平均で48万。(だから48系)」とかいう見出しがあったらググっと来ますけどね)。

     

     「<結構良い席(二階の桟敷、花道の反対側)>が、クリスマスに1枚だけ余っている」。という事実をどう評価するのかは、千々に乱れると思われますが、ワタシはまあ妥当に「さすがの歌舞伎もクリスマスの夜は余るか」といった感じで「いや。イヴは満席だろ。イヴイヴイヴイヴイヴイヴイヴ」といわれれば、これは窮するしかありませんが、とにかくもうコレ一枚しか無いんで買ったんですね。昨年のようにクリコンがあったら泣きで諦めていた所です。

     

     と、前回書いた通り、すっかりウンザリした我が国のクリスマスに対し、イヴイヴ(ジャズメンは言葉を逆さにするので)言わせて来たワタシですが、そういう訳で今年は歌舞伎を観に行く事と成り、「通し狂言/雷神不動北山桜(とおしきょうげん/なるかみふどうきやたまざくら)」を見て来ました。

     

     因にこの演目は、一言でいうと海老蔵が09年に作った(アレンジした→スピンオフからリゾーム的に独立した演目である「雷神」「毛抜き」「不動」を合体し整えた)海老蔵が1人5役を演ずる、海老蔵オレオレ長編で、ワタシ個人は、としますが、作品としては余り認めていません。

     

     こんな雑なもんをリーマンショックの直前に作ったり演ったり、更にいうと、演って「素晴らしい大仕事をした」等と思っていたから伊藤リオンくんにブン殴られたのだと思っていますし、11年、氏の謹慎中に「海老蔵は今こそ福島の二号炉の上で大見得を切るべきである。それで禊は一瞬で終わる」とブログに書いて(これは歌舞伎だけに歌舞いてみせたのではなく、ガチンコの提案でした)、特に何の反応もなかった。その程度の顛末です。

     

     とはいえ、歌舞伎というのは演目だけが目的ではありません。動物園にパンダを見に行くのとは違い、動物園にいろいろな動物を見に行くのが正しく歌舞伎を観る、という事に近く、それはジャズも、、、、、いけないいけない。「ビギナー/バージンに向けての、、、」になる所でした。少なくともこのブログのテーマは、歌舞伎の紹介ではありません。「クリスマスの銀座をパトロールしてみました」というのがメインテーマなのです。

     

     

     ワタシは06年暮れから07年正月あけまでモロッコに取材に行った事がありますが、それは「クリスマスもニューイヤーズデイも、イスラム教徒には関係ないというのは、どれぐらいホントか?」というサブテーマがありました(メインテーマは、ベルベル族の大道芸を始めとする、マグレブ音楽の取材)。海外にも随分と行った方ですが、あの時ほど楽しい事はなかったかも知れない。何だか知りませんが、クリスマスをマラケシュで過ごした我々(ワタシと谷口カメラマンと長沼と高見元P)は、旅のクライマックスである、カウントダウン無き大晦日の深夜12時に向けて、ほぼ無灯火の海岸線(大西洋)をマルクスブラザースの様に後ろをチラチラ見ながら全速力で走り抜けていました。

     

     要するに「クリスマスイヴ〜クリスマスの街は面白い」訳です。念のためこれは、ワタシが音楽を担当したビッグバジェット映画「大停電の夜に」のDVDステマではありません。もう時効かな?といったカマトト風にささっと言ってしまえば、あの映画は端的にそんなに面白くないです(ワタシのサントラは最高)。

     

     という訳で今回は、舞台をいつもの新宿ではなく、ギンジュク系のもうひとつの拠点、銀座のクリスマスをパトロールする事で、アベノミクスという素晴らしい経済政策の成果、人類史に名を残すスティーブ・ジョブスさんが一変させた、素晴らしい世界の現状を見届けようという話しです。写真は、プロローグとして、クラブエイジアでの写真から始まります。無料の方はここでさようなら。再び、良いお年を。

     

     

     
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