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memetaa2さん のコメント

 私は数年前にテレビを地デジ用に切り替えてから、アニメは2TBの外付けHDに録画してきました。

 そのHDが、今では10台以上になっています。録画したアニメを一部しか視聴できていないので、たまる一方なのです。ほんとうに娯楽の多い時代です。

 視聴したアニメも、すべてが正座をしながらだったわけではあません。「ながら見」ですませた作品も多かったですね。ただ一作品だけ、途中から姿勢を正して視聴するようになったものはありましたけど。
No.2
97ヶ月前
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 春アニメを色々追いかけています。  Amazonプライム・ビデオも見れるし、dアニメストアも見れるいまのぼくに死角はない。ふっふっふ。  とりあえず今期のアニメで面白そうだと思ったのは『マクロスΔ』かなあ。  『逆転裁判』がイマイチで残念です。『ばくおん‼』はまあまあ。  『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない』は、あたりまえですが面白いですね。  『Re:ゼロから始まる異世界生活』も面白いという話なのだけれど、ネットで配信されるまで見る手段がない。  『マクロスΔ』は「いつもの『マクロス』」といってしまえばそれまでなのですが、あいかわらずのクレイジーな世界が素敵です。  「よし。歌が効いてきた」とか、イミフな台詞があたりまえのように飛び出すあたり思わず笑ってしまう。  いや、『マクロス』だから意味不明でもなんでもないんだけれど、これ、このシリーズを初めて見る人がいたら「なんじゃこりゃ」と思うんじゃないでしょうか。  壮絶な空戦アクションと可憐なアイドルステージが一体化したアニメーションは色々な意味で凄まじく、わけのわからない迫力に満ちています。  テレビアニメでここまでのアクションを放送できる時代なんだよなあ。凄い。ヒロインの女の子もなかなか可愛い。  『くまみこ』もほのぼの系で良いですね。  『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』はライトノベルらしい都合のいい話で、気恥ずかしくもなかなか楽しい。  ただ、いちいちヒロインのおっぱい(巨乳)をフォーカスするカットがアレ。  40近くなってこういう思春期願望充足アニメを見ているぼくはどうなんだという気がしなくもない。  こうやって並べてみるとけっこう面白そうな作品が並んでいるなあ。  オタク的な願望充足系が多いみたいだけれど、『Re:ゼロ』みたいなきつくて地味な話もきっちりアニメ化されているあたり、ちゃんと多様性のある時代なんだなあと感心します。  『Re:ゼロ』はほんとにきびしい話なのですが、シナリオのポテンシャルはぴかいちです。  「なろう系」とは思えないほど構成が秀抜。アニメもていねいに作っているという噂なので、とりあえず期待したいところです。  あと、すでに完結した作品ですが、『灰と幻想のグリムガル』のアニメをいま後追いで見ています。  まだ序盤なのだけれど、これ、素晴らしいですね。  非常に地味な作品であるかとは思いますが、とにかく演出が光っている。最後まで追いかけていきたいと思います。  いや、これだけの質と量のアニメがいつでもただで見れるというのは凄いことですね(dアニメストアは有料だけれど、それにしても月額400円くらい)。  そりゃ、エンターテインメントが日常化するわけだよ、と思ってしまう。  エンターテインメントの日常化という現象の背景となっているのは、「絶対に消化し切れないほどの量のエンターテインメントがあたりまえのように存在する」という現実です。  ライトノベルにしろ、テレビアニメにしろ、ウェブ小説にしろ、いまとなってはどうあがいても消費し切れないくらいのボリュームの作品群が日常的に提供されつづけていることはご存知の通り。  あるいは、よほど暇な人ならライトノベルだけ、テレビアニメだけならある程度は追いかけることができるかもしれないけれど、それらすべてを消化することはもうどうしたって不可能なわけです。  そういう意味では、あるジャンルに関してなんでも知っている博覧強記の人物という意味での「オタク」は、もう成立しない時代になっていますね。  岡田斗司夫さんがいうところの「オタク・イズ・デッド」はそういう意味でも必然なのだと思います。  とにかくこうなると必然的に一作一作を真剣に見ていくことはむずかしくなるし、あるいは真剣に見るにしても「膨大な量のなかから見るべきものを選ぶ」という作業が必須となる。  そうなって来ると、もうエンターテインメント体験は特別なものではなくなりますよね。  この「量」の問題が現代のエンターテインメントを語るにはどうしても付きまとうと思うのです。  もちろん、それぞれの作品の「質」も高くなっていて、まったくかつてない贅沢な時代が到来していると感じます。  「飽食」ならぬ「飽楽」の時代、といえばいいでしょうか。  ひとつひとつの娯楽が神聖な輝きを失ってしまうほどありふれている時代。  かつて、何百年も前には、娯楽というものはほんとうに貴重なものだったでしょう。  たとえば、年に一度の村祭りで芝居を見るために、一年間きつい仕事に耐えるというようなことだって、ほんとうに行われていたわけです。  そういう時代においては、その芝居はほんとうに面白く、神秘的なまでの輝きを放つものでありえたはずだろうと思う。  その時代において、エンターテインメントはまさに非日常そのものであったといっていいかと思います。  いや、ほんの数十年前にしても、エンターテインメントはもう少し特別な体験だったといっていいでしょう。  少なくとも日常そのものではありえなかった。  しかし、 
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