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  • 謙虚で礼儀正しい天才は嫌いですか? 大谷翔平や羽生結弦を非難する人たちの共通項とは。

    2023-11-20 06:23
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     苛烈な時代は不世出の才能を生むものなのだろうか、いまの日本を一望すると、さまざまな分野で異質なほどの能力を示す若者が幾人も見つかる。

     そのなかでも、しんじつ最高の天才と呼びたいのが以下の三人だ。

     野球二刀流の大谷翔平。

     フィギュアスケート金メダリストの羽生結弦。

     将棋八冠の藤井聡太。

     いずれもその分野における最高の実力者である。

     そしてまた、それだけではなく、この三人にはあきらかに共通項がある、と感じる。

     また、そう思うのはぼくだけではないらしく、Googleで「大谷翔平 羽生結弦」と入れると「藤井聡太」がサジェスションされたりする。

     まったくべつのジャンルの人物ではあるが、どうにも並べて語りたくなるところのある三人なのだ。

     それでは、そんなかれらの共通点とは何か。

     いうまでもないだろう、いままでの常識では考えられないような快挙を実現した並はずれた天才であるのみならず、ふだんから礼儀正しく、いつも謙虚で偉ぶらないその人格の高潔さだ。

     ただその成績だけを見ても、それぞれの競技でかれらほどの業績を成し遂げた者はかつてないわけだが、それ以上に印象に残るのは人を分け隔てせず、だれに対しても優しく接するその人間的な度量の大きさである。

     かつて、「天才」というと、世間知らずだったり常識がなかったり、あるいは放埓な性格だったりと、ある側面では巨大な力量を示しながら、べつの面では何か欠落を抱えているものという印象が強かった。談志とか。

     それはときにかれら自身を破滅に追いやることもあるほどで、ある種、その種の天才たちに対して一般人は崇拝とともに見下しを抱いていたのではないかと思う。

     しかし、上記の三人は違う。その成果だけをみてもそれはもう途方もないほどの大天才たちである上に、人格的にもきわめて成熟しているのである。

     あるいは、これからフィクションで天才を描くとき、才能と欠落を等量に抱えているような描写をすると古くさい印象になってしまうかもしれない。

     それくらい、かれらの人間的な素晴らしさは「天才」のイメージそのものを塗り替えてしまった。

     現在20代の三人を一世代としてくくるとしたら、この世代はほんとうに立派な人間を生み出したものだと感心するしかない。

     まあ、将棋の場合、羽生善治という人がいて、かれもまたいつも笑顔でだれにでも気さくな「新時代の天才」だったわけだが、やはりかれはその全盛期においては突出した存在だったと思う。

     こういった凄まじい才能と繊細な人格を併せ持つ若者が次々と出て来る現代日本は案外と悪くない時代なのではないかと思えてくる。

     もちろん、一部の突出した人間だけをサンプルに世代を語ることはできないわけだが、じっさい、「いまどきの若者たち」は平均的に見ても心やさしく温和で折り目正しい人が多いと感じられる。

     そう、おそらく問題なのはもっと上の世代なのかもしれない。羽生や大谷の世代が中心になったら、日本はまた変わって来るのではないか。

     そんなささやかな期待を抱かせるほど、この世代のスターたちは素晴らしいのだ。

     しかし、世の中は広いもので、こういう「できた人たち」が嫌いな人もいるのである。

     あるいはほとんど完璧な才能にしか見えるかれらに対する「逆張り」というものなのかもしれないが、たとえばフェミニストの北原みのりさんはこのように書いている。

     「羽生結弦」が苦手だ。
     などと言えば、日本全国どころか今や世界中の反感を買いそうだけれど、女は意外に「羽生結弦」が苦手なのではないか。羽生結弦さん個人のことではなく、「羽生結弦」というプロジェクトに対する苦手意識のようなものだと思ってほしい。結婚の報告を読んで、やっぱり「羽生結弦」が苦手……という以前からどこかで感じていた気持ちがむくむくとわき上がってしまっている。あんまりモヤモヤするので、なぜ「羽生結弦」が苦手なのか、言語化してみたい。
     率直に言えば、「羽生結弦」はとても重たく、そして直視するには、あまりに痛々しいのである。

    https://dot.asahi.com/articles/-/198345

     自分個人が苦手だというだけのことを「女は」と主語を大きくするところがなかなか最低な上に、この後には羽生結弦と「羽生結弦」に対する批判が延々と続いている(ただし、最後は大谷翔平には「悲壮感がない」と褒めている)。

     「「羽生結弦」というプロジェクト」のことを「重い」、「痛々しい」と感じることは理解できなくもないものの、そういう単なる個人的印象をもとに人をジャッジする厚顔さには反発を感じる。

     こういう人もいるのだ。

     また、作家の白饅頭さんは「大谷翔平のただしさと息苦しさ」と題した記事で、以下のツイートを取り上げ、

    大谷翔平、28歳なのに高校生みたいな顔してて正直キモいと思ってしまう自分がいる。ネオテニーっぽさと言うか。


     「個人の感想にすぎないものが、ここまで罵詈雑言を浴びせられなければならないほど大炎上するのかと笑って驚いてしまった。」と語っている。

     かれはこれらのツイートの「炎上」を「大谷不敬罪」としてかなり冷笑的に揶揄しているのだが、ぼくにいわせれば、いまや世界的大スターでたくさんの人のリスペクトを集める大谷を「キモい」、「ネオテニーっぽ」いなどと中傷すれば批判を受けるのはあまりにもあたりまえのことである。

     まして、薬をやったりしないから人間的魅力がないなどという意見はちょっと理解を絶するトンデモツイートとしかいいようがなく、大炎上して当然の暴論としか考えられない。

     これらをあえて「個人の感想に過ぎない」とみなして弁護するなら、白饅頭さんが大嫌いな北原みのりさんのようなフェミニストの意見だって「個人の感想に過ぎない」と捉えるべきだろう。

     そもそも白饅頭さんが「恐ろしいほどの火柱」、「火あぶりの刑」、「罵詈雑言」とひとまとめにしているものもいってしまえば「個人の感想に過ぎない」わけで、もし「個人の感想」に対し批判が浴びせられるのが「息苦しい」というなら、白饅頭さん自身がやっていることは何なのかという話になってしまう。

     さらにいうなら、白饅頭さんはふだんからリベラリストやフェミニストの意見に対してはみずから率先して「罵詈雑言」を浴びせて「火あぶりの刑」に処しているのだから、よくもまあこういうしらじらしいことがいえるものだというしかない。

     ようは自分の同意見のお仲間が批判されることは一方的に「ただしさ」の押しつけとみなして「息苦しい」と感じるが、自分が他人を批判することは「ただしさに対する抵抗」と捉えて正当化しているのだろう。

     その意味で、かれの姿勢は北原さんと大差ないくらい恣意的だと感じてしまうのだけれど、まちがえていますかね。

     人が自分のいちばん嫌いなものに似ていくというのはこういうことである。そういうぼく自身もまた他山の石としなければならないだろうけれど。

     フェミニストとアンチ・フェミニストの有名人ふたりが期せずして羽生結弦と大谷翔平というふたりの天才アスリートについて、「痛々しい」とか「ただしさと息苦しさ」という言葉で批判的に語っていることは印象的だ。

     このふたつの意見にも、何となく共通項があるのが見て取れる。

     そう、北原さんと白饅頭さんの記事に共通しているものは、かれらの真摯で誠実な姿勢をある種の「過剰さ」とみなして攻撃する態度である。

     つまりは人間的な立派さそのものに対する反感なのだ。

     北原さんは羽生を「痛々しい」というし、白饅頭さんは大谷を「ただしい」と語るのだが、これらはようするに「完璧すぎるのが気に喰わない」という言葉のパラフレーズであるに過ぎない。

     もちろん、それではかれらが人間的に小物であったら好感を示すかというとそうではないだろう。

     こういう人は有名人がどれほど謙虚で誠実で理知的な態度を取ろうと関係なく、自分の「お気持ち」でジャッジしてはやれ「痛々しい」とかやれ「息苦しい」といって非難するものなのだ。

     フェミニストとアンチ・フェミニストと、思想的立場は真逆であるはずのふたりだが、自分の個人的な「お気持ち」を屈折した論理を駆使して一般論にまで拡大していく手つきはよく似ている。

     仲良く対談でもしてほしいくらい。羽生結弦と大谷翔平のどちらがひどいかをテーマに話したらどうですかね。意外と意見が合うかもしれない。

     大谷や羽生や藤井は少なくとも人前ではこういう繊細さを欠いた人の悪口をいわないわけで、それだけでもかれらが尊敬されるのは当然だと思える。

     北原さんたちに理解できないのは、世の中には練習をなまけたりだれかの悪口をいったりしなくても辛いと感じない人間もいるのだ、ということなのではないか。

     自分たちのレベルで考えると異常に見えても、大谷や羽生にとってはそれがナチュラルな態度であるという可能性もあるのだ。というか、おそらくそうなのだろう。かれらはかれらなりに自然体なのだと思われる。

     人として立派な態度で活躍する人物を見て「弱さ」がない人間なんて気持ち悪い、などと批判することはたやすい。

     しかし、大谷や羽生や藤井のような若き天才たちも努力して「弱さ」を克服してきた側面もあるはずなのである。

     それすらも批判されることは人間のさがとしてわかる。だが、それはもはやかれら天才たちの問題ではなく、どうにか天才の欠点を見つけて批判しようとする凡人たち自身の問題でしかないだろう。

     ひとりの能なしの凡人として、心からそう思うのである。

     
  • 絶望の時代が生み出した現実逃避文学「異世界転生」に希望は見いだせるのか。

    2023-11-19 23:37
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     「異世界」とは結局、何なのか?

     芳賀概夢&灯まりも『異世界車中泊物語 アウトランナーPHEV』というマンガを何だか気に入ってしまって、読みつづけている。

     一見するとあまり語ることのない、見ようによっては平凡な作品である。

     主人公は仕事にも生活にも行き詰まっているダメサラリーマンで、あるとき、ちょっとしたことから異世界におもむき、そこで冒険したり、美少女たちと出逢ったりする。

     なんということはない、あたりまえの「異世界系」。

     それはそうなのだが、この作品に特異性があるとすれば、それはいったん行った異世界から「現実世界に戻ってくる」ところだろう。

     そう、この物語においては主人公が、異世界と現実を行き来しながら少しずつ少しずつ「成長」していくのだ。

     ここが、革命的に新しいというほどではないにせよ、何となく気になる。

     現実と異世界を往還するだけなら『日帰りクエスト』の時代からあるにはあるのだが、それでも、いままでの「異世界系」は「行ってしまって、帰ってこない」ストーリーが主流だった。

     そもそも「異世界転生もの」のばあい、転生するまえに一度死んでしまっているのだから帰りようがない。

     「転生もの」よりさらに以前のファンタジーの主流が「行きて帰りし物語」だったのに対して、「転生もの」は故郷に帰るつもりがまったくないのだ。

     なぜ、このような物語類型が生まれたのか?

     その点について考えるためには、そもそも、「小説家になろう」を中心に爆発的に浸透し、いまなお広く読まれている「異世界系」の、その「異世界」とは何なのか、考えなければならない。

     
  • 電子書籍新刊発売!&RTで5000円+αがあたる販促企画実施ちう!

    2023-05-31 09:03
    300pt
    06580e5c30f5cd732c2990001f752d02fb2f8692
     電子書籍新刊『Simple is the worst -単純すぎる扇動言論がこの世界を焼き尽くす-』をAmazon Kindle Storeにて(ようやく)販売開始ました。ぱちぱちぱちぱち。

     まあ、そういうわけでひさしぶりの新刊なのですが、原稿そのものは随分前からできていました。ちなみに『ヲタスピ(仮題)』上下巻の原稿もすでにしあがっています。なぜすぐに出ないんでしょうね。不思議だ。

     まあそれはともかく。『Simple is the worst』はタイトルの通り、「単純すぎる言説」を批判する内容となっています。

     シンプル・イズ・ザ・ベスト。一般に、世間ではそのようにいわれることが多いでしょう。シンプルであることは当然に「良いこと」であり、言葉をもちいるときにはよりシンプルな内容になるよう工夫するべきであると。しかし、本書の内容はそれとは正反対です。

     シンプル・イズ・ザ・ワースト。本書は「シンプルであること」がときに非常な問題を孕むことを指摘し、多数の参考資料をもとに、その問題を解決するためにはどうすれば良いかを語っています。

     ただし、単にシンプルさを否定しているわけではありません。本書で問題として取り上げるのはあくまで「過剰な単純さ」であり、決してシンプルであろうとすることそのものを問題視しているわけではありません。

     アインシュタインがいうところの「simple(適切な単純さ)」と「simpler(過剰な単純さ)」の差はどこにあるのか、それもまた本書のテーマのひとつといって良いでしょう。

     また、本書は男性と女性、右翼と左翼、フェミニズムとアンチフェミニズム、リベラルとアンチリベラルといった、ネットでよくみられる素朴な対立項を解体することも目的としています。

     このような一見すると不倶戴天の関係は、しかし、その実、見た目ほどわかりやすい対立を抱えているわけではないと著者は考えます。

     じっさい、普段からソーシャルメディアをお使いの方のなかには、このような対立する党派の人間が延々と議論ともいえないようないがみあいを続けているところを見てうんざりしたこともおありなのではないでしょうか?

     Twitterなどでは一見するとほとんどすべての人間が対立する派閥のどちらかに属しているように見えてしまう一面がありますが、じっさいにはどちらにも属さない「サイレント・マジョリティ」が大勢いるが大勢いるはずです。

     本書の想定読者の第一はまさにそのような方たちです。もし、あなたにそのようなところがあるとすれば、本書を読み、いっしょに問題についてお考えになってくだされば幸いです。現在、特価100円で販売ちうです。よろしくお願いいたします。


     ちなみに、新刊発売記念の販促企画ということで、以下のツイートをリツイートすると5000円+αが当たります。ぜひ、RTしていただけると非常に助かります。よろしくお願いします。


     以下に、本編の冒頭第一章までを掲載しておきます。

     まえがき

    「今や社会そのもの、さらには社会活動、社会問題のすべてがあまりに複雑である。唯一の「正しい答え」が、あらゆる問題に通用するはずがない。答えは複数ある。だが、そのうちかなり正しいと言えるものさえ一つもない。」

     経営学の巨人ピーター・ドラッカーが著書『新しい現実』のなかでこのように述べてからすでに四半世紀が経ちます。

     その間も社会はいっそうの複雑化と不透明化を遂げ、ドラッカーが「新しい現実」と呼んだその難解な社会状況を作り上げています。

     もはやきわめて多面的な社会の全体像を理解している者はひとりもおらず、諸々の問題に対して唯一にして明快な「正しい答え」を見出すことは不可能になってしまったかのようです。

     たとえば原発稼働問題や少子化問題ひとつ取ってみても、往古、アレクサンドロス大王が一刀両断したというゴルディアスの結び目さながら、あまりにも多くの事情が絡み合っていて、シンプルに解き明かすことはきわめてむずかしいでしょう。

     もちろん、それこそ現代のアレクサンドロスたらんと、自分こそはこの時代と社会に対して明快な処方箋を提示する人物は多数存在します。

     しかし、その意見に対しては同程度の説得力を持つべつの意見が必ず存在し、熾烈な言論闘争が繰り広げられることになります。そして、その双方が自分の主張こそ絶対的に正しいとみなしているようなのです。

     分断と対立の時代。

     思えばドラッカーが上記の内容を記したのは1989年、ベルリンの壁が崩壊し東西冷戦が本格的に終わりを告げた年のことでした。

     善悪も成否もすっかり理解しづらくなってしまった現代の社会が冷戦終結による「大きな物語」の失墜から始まるとすれば、わたしたちはまさに「混迷の三分の一世紀」を見て来たことになります。

     そういうわけで、何もかも複雑で手に負えない時代であるわけですが、逆説的なことに、まさにそうであるからこそ、世界各地で極度に単純化された言説が飛び交っています。

     もちろん、粗雑なまでに単純な扇動が人々を動員する事態はいまに始まったことではありません。

     文豪ウィリアム・シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を読むとき、わたしたちは人々を突き動かすアジテーションの実体が何も変わっていないことに苦笑させられるでしょう。

     しかし、そうはいってもインターネット、特にいわゆるソーシャルメディアを通して「インフルエンサー」たちがアジテーションを続け、影響力を発揮する現代特有の問題は看過できないものがあります。

     わたしの目から見ると、そういったインターネット・インフルエンサーの意見はしばしばあまりにも単純すぎます。

     必ずしも端的に間違えているというのではありません。ただ、きわめて複雑で難解な問題をシンプルに読み解きすぎている、極端な党派性に拠って自派の正統性を盲目的に信頼しすぎている、そのような印象を受けます。

     ドラッカーがいうには、「あまりに複雑」なこの社会に対して「正しい答え」は「複数ある」。

     ですが、それにもかかわらず、その複数の「答え」のもち主がいずれも自派の主張のみが絶対的に正しいと主張し、他派を揶揄し嘲弄し罵倒し攻撃する、「合理的な批判」という美名のもとに。そのような事態をあまりに多く見かけることになりました。

     それは思想的に右派であるか左派かといった違いに依存しません。むしろもはやイデオロギー的な左右など、表面的な差異に過ぎないようにすら感じられるほどです。

     たしかに、ものごとをよりシンプルに切り詰めて考えることを奨める「オッカムの剃刀」という言葉があるように、複雑なことを単純化して捉えることは重要です。

     大半の人はあまりに複雑すぎる情報を一瞬で把握できるような特殊な頭脳を持っていないので、わかりやすく説明することによって初めて他者の理解を得られる一面はあります。

     とはいえ、その剃刀で色々なものを切り落とし過ぎて本質を見失っては元も子もありません。ものごとを単純化して認識する際には、なるべく丁寧かつ慎重に自己批判しながら実行するべきでしょう。

     それが本書の基本的なスタンスです。

     もっとも、本書の姿勢そのものが丁寧さと慎重さを十分に備えていないというご批判はありえます。

     可能な限り公正を心がけたつもりですが、読者諸氏のご意見ご批判を承れれば幸いです。

     わたしは学者でもなければジャーナリストでもありません。また、べつだん、社会に対し高邁な識見を持っているわけでもなければ、崇高な理想を胸に抱えて活動しているともいえないでしょう。

     一介のライターないしブロガーです。つまりはどこにでもいる在野の一市民に過ぎません。

     しかし、そのわたしの目から見ても、いま、あまりにも単純な言説が飛び交い、しかも一定の支持を受けていることは大きな問題に思えます。

     もちろん、そういった粗雑な意見に対してはそれなりの批判が寄せられるのですが、管見するところ、その批判に対する反応が成熟した対話なり議論なりに進むことはほとんどなく、ただ相手に対する怒りと憎しみが増進しつづけているように思われます。

     本書は、そのような現実に対する危機感から書かれました。

     特定の思想なり理念を指示するものではなく、そういった理想を表明する際の方法論について記したつもりです。

     よろしくご一読をお願いします。