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ELIKAさん のコメント

ネームバリューが高くなりすぎて作者の手を離れてしまってるんじゃないかなと言う点が心配ではある。
まどか☆マギカの名前を借りただけの公式駄作が濫発されるのは勘弁願いたい
No.82
144ヶ月前
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 『魔法少女まどか☆マギカ』。タイトルだけ見れば女子向けのキッズアニメとも思えるこの作品がその衝撃的な内容で話題をさらったのは昨年のことである。じっさい、この作品は近年稀に見る傑作であった。  意外な展開、緻密な構成、鮮烈な映像、いずれもフレッシュかつセンセーショナル、全く見る者を飽きさせなかったのだ。そこで今回は、あと数日で劇場版の後編(完結編)が公開されるこのタイミングで作品を見つめなおし、新しい発見がないか考えてみたい。  さて、『まどマギ』を語るとき、監督やキャラクターデザイナーと並び最初に名前が出るのが脚本家の虚淵玄である。かれのアイディアがどの程度作品に反映されているのかはいち視聴者の立場ではただ想像するしかないが、少なくとも虚淵がこの魅力的な作品の「仕掛け人」のひとりであることはたしかだろう。  虚淵はもともと、アダルトゲームの世界で数々の作品を手がけ、その名を知られたシナリオライターだった。そのキャリアのなかにはさまざまな媒体に移植され、最後にはテレビアニメ化された『Phantom of Infelno』もある。  最近ではTYPE-MOONの『Fate/Stay night』の番外編『Fate/Zero』をものし、一般的な二次創作の常識を塗り替える圧巻の迫力で話題をさらった。その作風をひと言でいうなら苛烈、あるいは壮絶という表現がふさわしい。  かれの物語のなかではすべての人物が凄まじい運命のなかに叩きこまれ、ぎりぎりのサバイバルを余儀なくされる。ひとつのミスが終わりを意味する死のタイトロープダンス。『Phantom』にせよ、『Fate/Zero』にせよ、「エロゲ」や「番外編小説」といった言葉から連想される甘やかさは微塵もない。  ときに登場人物を絶対的な絶望に追いやるその酷烈な展開は、繰り返されるうち、いつしか虚淵の「芸風」と見なされるようになった。そして本人のある種、露悪的な発言もあって、虚淵といえばショッキングな展開を描く作家として一部ファンには認知されていた。  『まどマギ』はそのイメージを決定づけたといっていいだろう。この作品、第二話までは一応は平穏なうちに物語が進んでいくのだが、魔法少女のひとりが対決した「魔女」にむさぼり食われる第三話あたりから凄惨な描写が多発する。  そのあと一歩で悪趣味になりかねない数々の無残な展開は、多くのファンに虚淵玄の本領発揮として受け止められた。じっさい、年端もいかない少女たちを絶望のどん底へ突き落とすそのシナリオは、やはり虚淵の個性と見なければならないとぼくも思う。  しかし、『まどマギ』の場合、そのショックとインパクトがあまりに強烈であったため、そこだけがクローズアップされて語られる傾向があるようにも思う。それは作品にとって幸福なことではないのではないか。『まどマギ』はいろいろな意味で豊穣な映像作品であり、ただショッキングなだけの物語ではないと思うのである。  もちろん、『まどマギ』が人気を得たひとつの理由が「ライトでキュートな魔法少女ものだと思わせて、ショッキングな展開を描いた」ところにあることはたしかだ。これまでこのジャンルにおいてはこのような作品はなかった(「『まどマギ』以降」においては魔法少女によるバトルロイヤルを描く遠藤浅蜊『魔法少女育成計画』のような作品も書かれている)。  ただ、だからといってそれだけで『まどマギ』を語りきることには無理がある。もし、『まどマギ』がただ悪趣味な展開の連続でしかなかったならば、これほどの人気を獲得することはできなかっただろう。いかなる凄惨な、残酷な、悪夢のような展開も、あらかじめ予想されていれば単なる予定調和に過ぎない。  ホラー映画を見ていればわかることだが、ただ単に刺激がエスカレーションしつづけるだけならば、視聴者はすぐに慣れ、飽き、退屈しはじめるのだ。『まどマギ』の場合はどれほどひどい展開を描いても、どこかに「向日性」とでもいうべきものがあって、それがアクセントとなっていた。果てしない闇の迷路を歩む魔法少女たちは、それでも光を求めているのだということ。そういう視点から『まどマギ』を語ることはできないだろうか。  虚淵は『Fate/Zero』のあとがきで、作家を続けるうちにいつしか「ハッピーエンドが描けなくなった」ことを告白している。それはかれがリアリズムを追い続けた結果、ハッピーエンドという幻想に我慢がならなくなってしまったことを意味しているのだろう。  『まどマギ』にしても、完全なハッピーエンドとはいえない終わり方である。しかし、それは少なくともただ暗やみに閉じこもることをよしとするものではない。放送当時、賛否両論を呼んだこのエンディングは虚淵の新境地を感じさせるといえる。  その是非は、たとえば宮沢賢治の一部の作品の是非が未だに争われているのと同様、簡単には決着を見ないものと思われる。今後も論争は続くだろう。ぼく個人は『グスコーブドリの伝記』の結末と同じくらい、この結末に満足している。  また、見方を変えるならば『まどマギ』は現代SFの傑作である。この作品は日本SF大賞の候補作となっている。発表当時には「『まどマギ』のどこがSFなんだ」といった声も大きかったようだが、それは現代SFにくわしくない人間のいうことだ。  『まどマギ』は、たとえばオーストラリアの天才作家グレッグ・イーガンの短編「ぼくになることを」と鋭く共振する。『まどマギ』の世界設定はどこまでもロジカルであり、きわめてSF性が強い。使用されている小道具がSFのイメージとは遠いとしても、その骨格そのものはSFなのである。  ひとつの街から始まった物語が最終的に人類史全体を貫く「魔法少女文明」のヴィジョンまで壮大さはまさにサイエンス・フィクションの魅力全開といっていい。そして『まどマギ』の場合、そのマクロな壮大さは空虚には終わらず、魔法少女たちのミクロな物語と絡みあう。ミクロの情念とマクロの構造が補いあい、ひとつの広大な物語世界を描き出したとき、『まどマギ』は真の傑作となった。  もはやそれは単なる露悪趣味の物語ではなく、どこまでも続く泥沼のなかでそれでも必死に生きようともがく少女たちの生の賛歌である。その姿は美しい。だからこそ『まどマギ』は真に長く記憶される作品となった。いまは劇場版後編でふたたび彼女たちの勇姿を目にするときが楽しみだ。
弱いなら弱いままで。
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