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ニコニコユーザーさん のコメント

例えばグンマーネタを群馬県民に振って
「んなわけあるかい」で終われば「楽しむ」に
当たるだろうけど、
「だって証拠の画像がある」とか「そういえばお前の行動からも思い当たる」
とか延々毎回言い続ける様な人が居る事が問題なんだろね。

「荒唐無稽な与太ネタとして楽しんでいる」

「ある程度信憑性のある話として楽しんでいる」
を使い分けながら揶揄してくる人がいると相手はマジでイラつくと思う。
No.6
148ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 これはいい本だなあ。前作『超能力番組を10倍楽しむ本』と並んで、山本弘の本のなかでも出色の出来といっていいと思う。  内容の主張そのものは、いつもの山本節なんだけれど、想定年齢が低いせいか、読みやすく、わかりやすく、また皮肉の棘が少ないところがいい。Amazonを見るとこれでもまだ嫌みったらしいという意見もあるようだけれど、まあ、この程度なら許容範囲内じゃないかな。  全体の構造は前作とほぼ同じ。いろいろなニセ科学情報にふれて半信半疑の小学生「夕帆ちゃん」に小説家の「パパ」が真相を語り聞かせるという形になっている。このパパの解説がとてもわかりやすく、納得しやすいところが本書の特長。  たしかに内容そのものに格段のオリジナリティはないのだが、それでもこの飲み込みやすさは素晴らしい。たとえば「有害食品」に関する項目など、専門家が書いた類書よりはるかにわかりやすかった。  もちろん、この一冊ですべてのニセ科学を網羅するというわけにはいかないが、いまの日本での目立つものは大抵扱っているので、一家に一冊購入しておくと役に立つかも。特に子供がいるひとはぜひ前作と合わせて読ませてあげてほしい。今後の人生に必要な科学リテラシーの基礎が身につくことだろう。  それにしても、この手の本を読むとひとつ気になることがある。ゲーム脳といい、血液型性格診断といい、ちょっと考えてみればおかしいとわかりそうなものだ。こういうニセ科学を信じこんで疑わないひとを「ビリーバー」と呼ぶのだが、ビリーバーはなぜこんな破天荒なことを信じこんでしまうのだろうか?  ひとつには、ひとは一般に権威に弱いということがある。いわゆる「ハロー効果」と呼ばれるものだが、著者は××大学の教授、などと書かれていると、まさかその偉いひとがいうことが間違えていないだろう、と思い込んでしまうのだ。  まそもそも「本」という形式そのものがひとつの権威である以上、立派な装丁の本の内容を信じこんでしまっても仕方ないという一面はあるだろう。  とはいえ、それを考慮に入れても、あまりにも多くのひとが信じがたいものを信じこんでしまっているようにも思える。かれらは結局のところ、頭が悪くてだまされやすいのだろうか? そうかもしれないが、違う考え方もできる。  まず、そもそも「信じる」とはどういうことか考えてみよう。たとえばあるひとが『ゲームの脳の恐怖』を読んで、「ああ、そうなのか、怖いなあ」と思ったとする。この人は「ゲーム脳」理論を信じたといえるだろうか?  一般的にいえば、そうだろう。しかし、もし本当にこの理論を正しいと認めているとすれば、ゲームに対してもっと過激な敵対行動をとっても良さそうなものだ。何しろゲームは脳を狂わせるというのだから、ゲーム会社に対して抗議したりしてもおかしくないと思う。  しかし、じっさいには、ほとんどのひとはそこまではしない。「怖いなあ」と思って終わりである。こういう態度を「信じている」といっていいのか?  たとえば有名なノストラダムスの予言にしてもそうだ。もしほんとうにたくさんのひとが予言を信じ込んでいたならば、1999年にはもっと大きな混乱が起こっても良さそうなものだ。何しろ恐怖の大王が降りてきて世界が亡びるというのだから、パニックになる人が続出していて当然ではないだろうか。  しかし、御存知の通り、じっさいには何ひとつ大きな事件は起きなかった。あるいは個人で騒ぎを起こしたひとはいるかもしれないが、少なくとも社会的な規模では何もなかった。これはようするにだれも真剣にノストラダムスの予言など信じていなかったということを意味しているのではないか?  ぼくは思うのだ。ゲーム脳にしろ、ノストラダムスの予言にしろ、ほかのニセ科学にしろ、多くのひとは強く信じこんでいるのではなく、ただ「思考停止」して「鵜呑み」にしているだけなのではないだろうか、と。  同じことではないか、といわれるかもしれない。そうは思わない。同じ「信じる」という言葉でいい表せる状態には違いないとしても、両者には強度の違いがある。前者が自分の存在をかけて強く信じているのに対し、後者はただ「そういうものなのか」と批判せず受け止めているだけだ。  もちろん、そういう態度に問題がないとはいえないが、一般のひとは日々、仕事や勉強で疲れているのである。すべての情報に対し懐疑の目を注ぐことがむずかしくても、仕方ないという一面もあるのではないか。  少なくとも「ビリーバーはすべて頭が悪いからニセ科学を見抜けないのだ」とはいえないと思う。もちろん、ニセ科学や超常現象に深くハマっているひとはまた話が別だろうが、そういうひとはやはり少数派だろう。  この本に書かれているニセ科学にしても、仮に大学入試などで「このなかにひとつニセ科学が混じっています、どれでしょう」とか「この実験におかしなところがあります。どこでしょう」といった形で問題を出したのなら、ほとんどの人が正解を選び出せると思うのだ。  それにもかかわらず多くのひとがニセ科学に「だまされてしまう」のは、そもそも批判する気がないからではないか。そういうふうに考えると、ニセ科学の類を「信じこんで」「だまされている」ひとたちは、迂闊ではあるにしても、一概に頭が悪いとはいえないと思う。そういうひとにしても、ほかの面では、偉大な能力を発揮しているかもしれないのだから。  狂気は「自分は間違いなく正気だ」と思い込むところから始まる。「自分だけは大丈夫」と思ってひとを見下すのではなく、もう少し優しい、柔らかい心を忘れないようにしたいものだ。山本さんにしても、そういう気もちがないわけではないと、ぼくは思うのだが……。
弱いなら弱いままで。
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