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candleさん のコメント

興味深い記事でした。
才能と言えば、同じく『ヒカルの碁』の「誰にも負けたくないと思う一方で自分など遠く及ばない力にあこがれるのは、そいつが歩いていく先を見たいからだ。自分をはるかに超えていくその先を」という門脇の台詞が印象に残っています。
才能や天才に関する門脇のこの考え方は、自分の中でとてもしっくりきました。
もしかしたら多くの人間が根底に持っている本能的な願望なのかもしれないなあ、と。
宗谷を「信用し過ぎた」島田の中にも、このような願望があったのかどうかは定かではないですが。
No.15
147ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 ここ数日、ずっと「グレートネス・ギャップ」について考えてみる。グレートネス・ギャップとは、継続的にこのブログを読んでいるひとはわかるはずだが、「何か優れた才能にふれたときに彼我の差を思い知らされ意気消沈すること」を意味する言葉である。  意気消沈と書いたが、場合によってはそれは絶望そのものであるかもしれない。漫画『ヒカルの碁』で、天才少年棋士塔矢アキラに敗れたある棋士が、「一生勝てない」「どんなに碁を勉強しても絶対に勝てない」という意味のことを呟く場面がある。  物語全体の流れとは関係ない何気ないワンシーンであるが、ぼくは強烈に印象に残っている。これなどは典型的なグレートネス・ギャップというべきで、なまじプロになれるだけの才能のもち主であるからこそアキラの天才がわかり、「一生勝てない」と決めつけてしまったのだろう。  このように、自分を圧倒的に凌駕する才能と出逢ったとき、ぼくたちはしばしばそれまで積みあげてきた自信をことごとく喪失し、絶望することがある。瀬戸口廉也によるシナリオが有名な傑作ゲーム『SWAN SONG』でも、心臓に病を抱えた少女柚香が天才少年司のピアノにふれ、それまでの自負を粉々にされてしまう場面がある。  数小節弾いただけで、私の自信は完全に打ち砕かれました。  確かに私は夢見がちな少女でした。でも、だからといって、ただ甘美な死を思い、その幻想だけが私を決死のピアノ演奏に駆り立てたわけではなかったはずなのです。  疲れ果て、気が狂いそうになるまでピアノと過ごした時間。厳しいと評判のピアノ教師が口元をゆるめて与えた賞賛。私がどこへいっても、まずピアノが評判になり、そしていつだってピアノをきっかけに温かいものを手に入れられる。そうした手応えのある実感の上に、私のピアノへの思いは作られていたのです。  死を覚悟して演奏に望むと言うその張りつめた精神が、私をきっと未知の領域に連れて行ってくれると、そして素晴らしい演奏をさせてくれると、そんな期待は確かにあったのです。心臓を捨てれば、すごい演奏が出来るんじゃないかと。  しかし、彼の演奏は残酷でした。それは私が想像もしたことがないような、素晴らしい演奏でした。到底、私が練習してきたものと同じ曲を演奏しているとは思われません。  溜息だって出ません。彼の北極星の高みに比べれば、私の決意など、靴底を厚くするために命を捨てるような滑稽なものだと、気づかないわけにはいかなかったのです。私がたった一つしかない心臓を潰して、血みどろになりながらどうにか一歩前へ進んだとしても、彼の背中は遥か遠く地平線のむこうにあるんです。彼は私より一つ年上だからと、そう考えてみても何の支えにもなりませんでした。私の人生は、努力は、全て無駄なのだと、頭の覚めた部分が私に囁き続けるのです。自分がしてきたものを努力とか練習と呼ぶことさえ、顔から火が出るほど恥ずかしく思われました。  これほど的確にグレートネス・ギャップによる絶望を描き出した場面をぼくはほかに知らない。天上遥かなる「北極星の高み」。それに比べれば、自分の命がけの決意すら「靴底を厚くするために命を捨てるような滑稽なもの」に過ぎない……。これほどの絶望があるだろうか。  しかし、ほんとうに彼女はここまで絶望しなければならないのか。「北極星の高み」がどのくらい高いのかはっきり知るすべがない以上、たしかなことはいえないが、ぼくは彼女が客観性を失って司を過大評価し、自分を過小評価しすぎている側面は、やはりあると思う。  もちろん、彼女と司のあいだには、とうてい超えられるとも思えない違いがあることはたしかであろう。それはほんとうに一生かかってもどうしようもないものなのかもしれない。しかし、挑戦してみることもなく敗北を受け入れるのはいかにも気が早すぎる。  塔矢アキラに敗れた棋士にしても、「一生勝てない」という考えはやはり思い込みであり、現実にどれほど差があるとしても、何とかするすべが皆無とはいえないと思うのである。たとえとてもそうとは信じられないとしても、だ。  それにしても、ここで描かれているグレートネス・ギャップの正体とは何か。なぜ柚香はここまで絶望しなければならないのか。注意深く読めば書いてあるように、それは「成長スピードが違う」ことに対する絶望なのではないかと思う。  つまり、仮に同じだけの努力をしたとしても、司はあっというまに彼方へ行ってしまう。自分が一歩進む努力でかれは十歩も二十歩も進めてしまう、そのことの絶望。「私がたった一つしかない心臓を潰して、血みどろになりながらどうにか一歩前へ進んだとしても、彼の背中は遥か遠く地平線のむこうにあるんです」というわけだ。  これを読むと、グレートネス・ギャップとは明快な論理が導く絶望だと思えてくる。つまり、自分がいくら成長したところで、あいてはそれを遥かに上回る速度で成長するのだから、永遠に追いつけることはない、それどころか差は開く一方であるはずだ、という理屈である。  これは一見、水も漏らさぬ鉄壁の理屈と見える。しかし、ほんとうにそうだろうか。羽海野チカの将棋漫画『3月のライオン』に、苦労人の棋士島田が天才中の天才宗谷に挑む話がある。  島田はいう。「(宗谷は)どんなに登りつめても決してゆるまず 自分を過信する事がない だから差は縮まらないどこまで行っても しかし「縮まらないから」といって それがオレが進まない理由にはならん 「抜けない事があきらか」だからってオレが「努力しなくていい」って事にはならない」。  初めは追いつくことができないことはわかっているが、それでも努力をやめるつもりはないというのだ。これこそが柚香がたどり着けなかった境地であろう。おそらくは島田にも何らかのグレートネス・ギャップ体験はあったはずだ。しかし、それでもかれはあきらめなかった。どこまでも追いすがった。  その結果、ついに島田は宗谷への挑戦権を得る。そしてあっさりと敗れ去る。これだけを見ていると「やはり天才には勝てない」というだけの話に見える。ところが、その後、実は一手違っていれば、島田は宗谷の王将を詰んでいたことがあきらかとなる。  宗谷は呟く。「君は僕を信用し過ぎだ」。つまり、彼我の絶望的な距離を正確に掴んでそれでもなおあきらめず追いすがっていたはずが、いつのまにか相手を過大評価していたということらしいのだ。逆にいえば、島田はその過大評価さえなければ宗谷に一勝できるところまで来ていたのである。  しょせん漫画の展開に過ぎないともいえるかもしれないが、ここには重要な示唆がある。たしかにカメが一歩進むうちに鳥はあっさりと飛んでゆくかもしれない。しかし、鳥とても常に一定速度で飛び続けられるわけではない。  また、カメにしてもいつも同じ速度でしか歩けないわけではない。いつか走ることを覚えるかもしれない。鳥が常に最大速度で飛び続け、カメが最低速度でしか歩けないという前提で行う計算は無意味なのだ、ということ。  じっさいどうなるかは、やってみないとわからないとしかいえないとしかいいようがないのだ。それなのに巨大なグレートネス・ギャップを目にすると、ひとは頭のなかで瞬時にその差を計算し、どうあがいても勝てないと決めつけてしまう。島田ほどの男でなお、あいてを過大評価するという失策を犯した。  実在の天才棋士羽生善治が何かで言っていた。実は互角になるようにハンディキャップを付け対戦する場合、素人にも羽生を破る可能性はあるという。互角になるよう調整されているのだからあたりまえといえばあたりまえである。しかし、大半のひとは羽生という名前に呑まれ、勝てなくなってしまう。  レベルは違うが、これは島田が犯したミスと同じものだ。もしあなたが天才とまではいわないにしろ、自分より優れた才能に挑むことがあったなら、まずはグレートネス・ギャップに呑まれないようにすることが最初の一歩だ。  頭のなかで「必敗の方程式」を立て、どうあがいても勝てないなどと決めつけてはならない。そうすれば勝てるものも勝てなくなってしまう。言うのは簡単だが、これはたしかにむずかしいことだと思う。「絶対に勝てない」という可能性はたしかにあるのだから。  しかし、生まれつきの才能ですべてが決まってしまうなら、世の中、おもしろくも何ともない。やはり才能に、運命に挑むことも人間の証明のひとつではないか。いつか、地平線の彼方へ。そう望みながらあがくひとの努力ほど、真摯な、崇高な、人間的なものはない、そうぼくは信じるのである。
弱いなら弱いままで。
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